第2話 女の子
曇り空が似合う家だった。遠目に見てこの丘陵地帯は、昼間は晴れわたっていても、夕暮れ時は沈んだ雲が目に入る。幾重にも見える曇天の景色の向こうでは夕陽が朱色に街を染めている。そんな景色の中の家を見ていると幸助は途方もなく帰りたくなかった。遠い昔から彼はひとりだった。
幼いころ幸助は珍しく母親に言ったことがあった。
外で遊んでくる――。
喘息を患って、体の具合が慢性的に悪かった幸助は、母親をよく仕事から休ませた。病弱だった彼を外へひとりで出すことなどほとんどなかった。しかしこの日はなんとなしに母親は彼に行ってらっしゃいと言ったのだ。
彼は誰とも約束を交わさず、外に出た。ひとりで外に出ることを許してもらった喜びと不安があった。馬乗りになって足でけって走らせる車の玩具は幸助のお気に入りだった。行く先は家の目の前にある公園だ。夏の暑い日、家にいても退屈だったし、お気に入りの車の玩具に乗って、外を走りたかったのだ。その公園は荒い砂利がむき出しになったコンクリートの低い塀が三方を囲っている。細かな砂利が敷き詰められたおおよそ公園と呼べるそれにふさわしい、ただそれだけの場所であった。三原色の配色のブランコと、バネの上にまたがれる木馬の装いの遊具が2基ほど、手前側には鉄棒があった。彼はその公園を車の玩具に乗って走っていた。それは楽しかったけれども、退屈でもあった。その時の彼には結局それだけしかなかったからだ――。
真夏の陽炎が漂う午前中だった。アスファルトもコンクリート塀もゆらゆらと揺れて、そのうち溶けて流れ出すかのように見える。幸助は夜中に冷えた身体に余計に暑さを感じて、めまいがしそうだ。馬乗りの玩具は公園の砂利の上を沙ぼこりを上げながら走った。煩わしくて一度立ち止まって周囲を見回すと、鉄棒のそばで何かを言い合っている年上の女の子と幸助と同じくらいの年の男の子がいた。何の話をしていたのか幸助には聞こえなかったけれど、女の子は幸助を遠目に見つけて、遊ぼう? と話しかけてきた。
幸助は知らない子から声を掛けられ、とりあえずうんと答えた。けれども、何か嫌な予感がした。知らない人は怖い。声をかけられたのも初めてのことだった。先方は子どもだったけれど年上の女の子で、その女の子と幸助は話したこともかったし、幸助は知りもしなかった。
「なにして遊ぶ?」
と、その女の子は続けて話しかけてきた。けれども、幸助は特に何をしたいとも思わなかった。その子は知らない子だったし、後ろで突っ立ってみている弟みたいな男の子は無口で、ただずっと幸助を眺めているだけだ。そしてただ退屈だから何かして遊ぼうかと思っても、幸助には何をしたいとも思い浮かばなかった。幸助も黙って突っ立ってその女の子が何を言い出すのか見ていた。
そして少しの沈黙があって、その女の子は怒り出した。幸助から返事がないことに苛立っているのは明らかだった。
幸助にはその女の子がどうして苛々するのかわからなかった。しまいに女の子は「じゃあこれはどう?」と言って幸助の口めがけて地面の砂を思いっきり投げつけた。
幸助は口の中に砂やら砂利やらを放り込まれて泣きたくなった。女の子と男の子は幸助のことを変な子と思ったのか、そのまま悪びれもせずどこかへいなくなってしまった。
蝉の鳴く声がずっと大きくうるさく感じられた。金木犀の立ち並ぶ生け垣がコンクリート塀の向こうに見えている。幸助は涙目になりながら、口からを吐き出し、舌と歯を動かしながらジャリジャリ硬くていつまでもへばりつく口の中の異物をどうにか取り除こうとした。しかし彼にはその口の中をどうしようもなかった。




