第12話 悪意
菊池の親はシングルマザーだったが、その家に出入りしている男は菊池とは血のつながらない渡世人のような人だった。その男は時々菊池の家に来て、食事やら夜の世話をしてもらっていた。家に寄らない日もあって、菊池自身はそういう時だけ家にいることが許された。寄る辺ないこの男はその日も家から締め出されているようだ。菊池は幸助の前に立ち塞がって、何も言わずじっと幸助を見ていた。こまかい巻き髪の潰れてへばりついたような脂ぎったカナダワシみたいな髪ガタをみると、どことなく不潔な気分にさせられる。むくれたような体つきが下着いちまい着ただけの上半身の輪郭をくっきり形にして表している。汚いジーンズを履いて、真っ黒いサンダルを足に引っ掛けたその見た目に手の長さが妙に目立って、野蛮な雰囲気が伝わってくる。この時も菊池は酔っていたのか、顔が真っ赤だった。そして腕には無数の真っ赤だったり、白かったり、黒く焦げたような丸い痕が目立って見えた。それは親でもない大人の人間から押し付けられた煙草の痕だということは後になって知った。この時、幸助からすれば野蛮な噂の目立つ不良が自分の目の前いた訳である。ひとつ事件にでもなるのではないかと不安を感じるところであった。そして幸助は菊池を見ながら少しずつ、民家の壁を這うようにして、わきをくぐって避けて通ろうとした。幸助は菊池がいつ襲いかかってくるのだろうか分からないから、いつでも走れるような構えでゆっくりとその場から立ち去るつもりであった。そして菊池は突然、そんな幸助を見て身構えた。とたん幸助はびくついて走り出した。そしてその瞬間だった。
「兄ちゃん――」
菊池は彼が通り過ぎて去ろうとするので、思わず言葉を漏らした。彼は菊池の口から漏れ出る言葉に反応して立ち止まって振り返った。
「兄ちゃん、元気しているか?」
幸助はまだ菊池を怖がりながらもその顔を見た。菊池はじっと突っ立ったまま幸助のことをしっかりと見ていた。幸助はその姿を見て不審に感じながらも答えた。
「孝道はいつも通りですよ。それが何か?」
幸助にとってのいつも通りの孝道と言うのは、自分がすべてだというような態度でいることだ。引き籠っているのも、どうせ孝道の勝手だと幸助は思っていた。実際孝道自身がいけないのだと彼は思った。人の嫌がることをやって自分で自分を追い詰めていっただけのことなのだと、この時の彼は思っていたのだ。
「そうか、――じゃあ、よろしく伝えておいてくれよ」
菊池はその黒い肌に似合わない白い歯を少し見せた。幸助は菊池の言うそれにはうんともすんとも言わずに、そのコントラストを不気味に思いながらそこから立ち去った。この頃、幸助は孝道と関係するものごとからすべて関わらないようにしていたかった。しかし、どうかかわらないようにして過ごしていたとしても、ひとつ屋根の下に暮らす家族であることは変えられなかった。孝道が学校から出なくなって以来、家はおかしくなっていった。いや、昔からおかしかったのだろうけれど、本格的にそのおかしさが明るみになって、このことがあってからとうとう気が狂いだしたのだ。
あの時幸助は菊池のあのニヤケた顔を見て何も思わなかったことを後悔した。幸助が菊池に会ってからだった。孝道の引きこもりの真相を父や祖母から聞き出せるようになったのは――。けれど、幸助にとってそのことがどうしたというのか、孝道が学校に行かなくなったことはよくないのはわかっていたけれども、問題視するほどのことでもないと当初は感じた——。
「——聞いた話だと、強要したって言うのは嘘だって」
幸助は食事を作り終えて、テーブルに出してから、祖母に向かって話した。
菊池が手の甲に鉛筆を突き刺したのは本当のことだったが、孝道が強要したとういのは、作り話だった。それは孝道から聞いた菊池の評判もみんなが知っている事実であったからだ。そもそも菊池は乱暴な人間であるわけで、母親や血もつながらない男からもネグレクトを受けて、自虐の衝動が彼にはあった。
「そう?――。だけど先生にこう言われたって言うのよ」
〝無理して学校に来なくていいんだぞ〟って。
祖母は孝道をどう思っているのだろうか——。この時の幸助には図り切れなかった。小さいころ自慢の孫だったはずの孝道を悪く言うようにも聞こえる。事実祖母は悪者だったとも思っているような言い方だ。あれだけ発狂した孝道を毎日目の前にしていたのだから——。
幸助は孝道を狂人として思う理由のひとつに無意味なこだわりを示していていることを考えた。彼はこれと決めたことに関しては一辺倒であった。中学の彼は部活に熱中しており、勉強も家のこともほとんど手につかないような人物であった。しかしそれも家から出られなくなってからは続くことはなく、高校を受験するころにはそれなりにデスクに向かうようになったものの、高校に上がってからは競馬にのめりこむようになり、結局高校生活もほとんど学校へ通うことなく、競馬ばかりをしていた。しかしそれはというのも、あの時、彼のことを蔑ろにした大人たちの責任でもあったように幸助は思うのであった。
「教師がおかしかったんだよ」
幸助は祖母が疑るようなことを言うのに対して、そう答えた。
「そうよ。先生が〝学校に来なくていい〟だなんて——」
――孝道はあの時そのまま中学に行かずに、高校にあがった。
「あの先生それからこう言ったらしいのよ——〝分かっているだろうな〟って」




