魔術師の遊戯
Book 1. 鷺田智洋はスマホを拾う。
スマホを拾った。
自分の部屋で。
いや――正確に言うと、奇妙なスマートフォンがアパートのドアポストに投げ入れられていたのだ。
大手通販サイトの簡易パッケージに包まれてはいたが、ガムテープで雑な封がしてあるばかりで、梱包材自体は使い回しであるらしい。宛名シールも剥がされており、歪んだ口元を象った企業ロゴが、どこか不気味な笑みを浮かべている。不審に思いながらもパッケージを開けると、そこには〝林檎印の端末〟ではなく、〝ロボットOS搭載機〟でもない、正体不明のスマホが入っていた。
何だこれ。
俺の身に覚えはなかった。
自分で買ったものではないし、懸賞に応募した記憶もない。誰かの悪戯――にしてはどこか間が抜けている気もする。
とにかく俺は正体不明のスマホを入手したのだった。
これはまあ、拾ったのだと――そう、いえなくもあるまい。
*
俺は乱雑に物が置かれた玄関から、狭く殺伐としたキッチンを通り抜けて、生活感溢れる混沌とした六畳間へと帰還した。パッケージは捩じってゴミ箱に捨ててから炬燵に入った。夜は冷えこむ季節だ。
壁の時計を見るとすでに深夜に近い。安酒をかっ喰らって炬燵でうたた寝をしていた俺は、ガコンという大きな物音に目を覚ました。寝ぼけ眼で玄関まで行って、そこでこれを見つけたのだった。
改めて手にした謎のスマホをまじまじと眺める。
外装は象牙色の金属製。男の俺の手にすっぽり収まるサイズで、見た目は一般的なスマホとよく似ている。ただ、最新機種には珍しく、画面下部にホームボタンらしき円形のスイッチが装備されていた。ボタンには奇妙に歪んだ星形のマークが描かれている。
何なんだ、これ。
持ち上げても傾けても画面は暗いままで、電源は入っていないようだった。背面には洒落たフォントで〝MAGUS〟と刻印されている。
マグス――いや、メイガス?
機種名なのか、それともメーカー名か。
とりあえず、俺はホームボタンを長押ししてみた。
ピロリン♪と、予想外に軽薄な起動音が鳴って電源が入った。画面に一瞬だけ、
〝Do what thou wilt shall be the whole of the Law〟
と、メッセージが浮かんで消える。ゾウとかウィルトとか知らない英単語が並び、ちょっと意味がわからない。
ホント何なんだよ、いったい。
誰かに知的レベルを試されているような気がして、どうにも気分が悪かった。
次に初期設定らしき画面が表示されて、使用言語とユーザーネームの入力を求められた。素直に日本語を選び、オンスクリーンキーボードで鷺田智洋と漢字に変換する。エンターキーを押した後で「本名を入れたのはまずかったか」と、軽く後悔するが時すでに遅し。アクティベーションは進んでしまう。
画面に顔を写せとか、表示された文字列を声に出して読めとか、一連の指示をこなした後、最後にホームボタンに親指を乗せろと命じられた。顔とか声とか指紋とか、ずいぶん厳重なセキュリティだなと訝しく思うが、逆らっても仕方がない。
俺は諾々《だくだく》と指示に従う――すると、パチっと音がして指先に衝撃が走った。
「痛ッたァ!」
どうやら電流を流されたようだ。幸い卓上での作業だったので取り落とすことはなかったが、どうにも乱暴な仕様じゃないか。
画面にはSTR、DEX、INTと謎の項目が表示されてパラメータが自動入力されていった。そして再びブラックアウトする。
「ストレングスにデクスタリティだって?」
まるでビデオゲームみたいだなと思っていると、シンプルな壁紙の上にいくつかのネイティブ・アプリのアイコンが並ぶ画面が表示された。ようやく初期設定が完了したようだ。
すると突然、スマホが語り始めた。
「メイガスゲームへ、ようこそ! 私は本ゲームの管理人を務めます、メフィストフェレスと申します。どうぞ親しみをこめて、メフィストとお呼びください」
「はいいッ?」
スマホはすこぶる上機嫌に、饒舌に語った。なんだか声音が映画俳優のトム・クルーズに似ている気がする――あ、いや違う。これは吹き替えの方だ。
「音声は〈設定〉アプリを使って変更することも可能です。女性ボイスをお望みですか?」
「いや、そのままでいいけど……ちなみに女性だとどうなるの?」
「こうなります。いかがでしょう」
うん、そうか今度は――女優のニコール・キッドマンの《《吹き替え》》にそっくりな気がした。元夫婦でコンビなのか。まぁ、どうでもいいや。
「もとにもどして」
「かしこまりました、トモヒロ様。トモヒロ様とお呼びしても?」
「かまわないけど、あんたはアレかな。つまりシリ的なパーソナルあしす……」
「あんな不完全で、気の利かない、人工知能とは名ばかりの存在と一緒にされては困りますな!」
メフィストは俺の質問にかぶせるように捲し立てた。どうやらかなりプライドの高いAIらしい。そうか、既に本物のAIは完成していたんだ――じゃなくて!
「状況がイマイチ飲みこめないんだけど、このスマホって何? なんとかゲームって? ってか何で俺が参加させられてんの」
「お答えしたします。本機は〝メイガスフォン〟と呼称いたします。メイガスゲームに参加するための必須装備であり、あなたを魔術師とするための魔道書にして魔杖。メイガスゲームとは魔術師同士の力比べ、すなわち遊戯でございます。その勝利には栄誉が、敗北には死が与えられるでしょう」
「いや、何いってんのか全然意味がわかんないんだけど……ってか、サラっと怖いこといったよね最後」
〝敗北は死〟だって? 冗談じゃない、これはいわゆるアレだ。デスゲームとかいうやつだろう。『CUBE』とか『イカゲーム』とか。そんなものにエントリーした覚えはないし、強制参加させられる謂れもない。死ぬのは怖いし、痛いのも嫌だ。
「トモヒロ様が選ばれたのは、あなたの強い意思、いわば〝渇望〟が当機によって検知されたからでございます。メイガスフォン、すなわち現代の魔道書には主を求める意思のようなものが宿っておりまして……まぁ、百聞は一見に如かず。とりあえず、やってみましょう」
「とりあえずやってみよう、じゃねえよ!」
「腕を前方に突き出して、画面を天に向け、開錠の命令語を発声してください。初期登録は〝開けゴマ〟でございます」
何それ駄ッさ、と思わなくもなかったが、反論するのも面倒なので渋々と指示に従ってしまう。状況に流されやすいのが俺の悪い癖なのだ。
「オープン・セサミ……」
「続きまして、魔道書を選択して下さい。本機にプリインスト―ルされた本の名称は〝エイボンの書〟でございます」
「……ブック・オブ・エイボン」
俺がそう唱えると、手にしたスマホが激しく光りだして、空中に蛍光色で半透明の大型本が浮かび上がった。俺の足元には魔法陣が展開し、ド派手な効果音まで鳴り響いて、これがもし拡張現実ゲームなら演出は迫力満点だ。
いや、ホントまじ、何なんだこれは――いったい。
* * *
Book 2. 上村悠多は余裕綽々。
「……うん、ちょっと相談に乗ってもらいたくて……夜分に申し訳ないんだけど。ああ、そう……じゃあ悪いけど、今からそっち邪魔するわ」
既に午前零時を回っていたが、上村悠多とはすぐに連絡がついた。学内に知り合いの少ない俺は、他に助けを求めるべき相手を思いつかなかったのだ。
上村とは所属する学部が違ったが、学食で見かけるうちに仲良くなった。たしか俺が着ていたB級ホラー映画のTシャツを、面白がって話かけてきたのが契機であったと思う。
実家から直接通える距離だが、上村は大学のある市内にマンションを借りて一人で住んでいる。両親共に会社経営者で、実家が太いのだ。奨学金で大学に通う俺からすれば、羨ましいかぎりだ。
いつも冷静な上村ならば、このスマホをどうすべきか、有用なアドバイスをくれるに違いない。
*
通話を終えた後、俺はスマホを握りしめてすぐにアパートを出た。単身者や学生の多い住宅街とはいえ、さすがに路上に人影はほとんどない。
「魔術師同士の力比べだっけ。何でそんなことやらなきゃいけないの?」
徒歩でマンションまで向かう道すがら、俺はメイガスゲームについてメフィストに問い質す。傍から見れば、スマホにぶつくさ文句をいっている危ない奴に見えたかもしれない。
「メイガスゲームの目的は、各フォンに宿る十の〝力ある書〟を全て集めることです」
「えッ。魔道書ってそんなに沢山あんの!?」
「ルールの細則につきましてはアプリをご参照頂くとしまして……」
「アブリがあるんだ……機能としてはまんまスマホなのな」
「当面は敵対する魔術師と戦って勝利して下さい。すると相手の魔道書を奪うことができます。十冊全てが一つのメイガスフォンに揃えば、大秘術は成就し、無限光への扉が開かれることでしょう。そこではあらゆる望みが叶うのです」
「あらゆる望み……5000兆円欲しいとか」
「国内で流通する日本円の総額は凡そ125兆円ですから、その願いは賛同しかねます。私ならば、市場へ混乱を与えず、当局にも目をつけられない程度ということで、100億円を提案いたします」
「あんた、案外現実的なんだな……だとしても、すげえ金額だな!」
「卑しくも魔術師であるならば、〝マーリンの杖〟や〝賢者の石〟などの呪宝を願うものですが……まぁ、よろしいでしょう」
メフィストは呆れ気味に、物覚えの悪い生徒を諭すようにいう。このAI、本当に感情表現が豊かだ。実際は中の人がいるんじゃないか?
「つまり魔術師は己の欲望のために争っているわけか」
「そのとおり。〝汝の欲するところを為せ〟でございます」
俺は詳細ルールの読み上げをアプリに命じ、経文のような文言を聞きながら夜道を歩き続けた。ああ――これ、倍速にならないかな。
*
「よう、遅かったな。まァ上がれよ」
「悪いな、こんな遅くに」
非常識な時間にも関わらず、上村は快く自宅へと迎え入れてくれた。持つべきは友だ。心なしか鼻が赤いのは、風邪でも引いたのだろうか。
瀟洒なマンションの最上階角部屋2LDKの物件は、学生が一人で住むには広すぎるし贅沢な気もするが、経済的余裕のなせるわざなのだろう。
玄関には大きな革製ブーツが脱いであって、どうやら先客がいるらしい。このサイズの靴となると、心当たりは一人しかいない。
「梶畑君も来てんの?」
「ああ、呑み過ぎてトイレに籠ってるよ」
梶畑君は、よく上村とつるんでいる大学の後輩だ。身長190cmを超す厳つい大男で、常にサングラスと革ジャケットを着用しており、その風貌からたびたび職務質問を受けるらしい。本人はいたって普通、というか重度のオタク気質でマニアックな性格をしているのだが。
案内されたLDKは(俺が住むアパートの汚部屋からすれば)天国のように清潔で整えられていて、シンプルだが高そうな調度品が置かれていた。
ただ、テーブルには酒瓶と飲みかけのグラスが転がっていて、微かに厭な臭いが漂っていた。普段は几帳面な上村も、体調不良で家事には手が回らないのかもしれない。
「座れよ、お前も何か飲むか?」
「いや、おかまいなく。それで……早速なんだけど、これ」
そういって俺はリビングのテーブルの上にメイガスフォンをそっと置いた。メフィストはここに来てからは黙ったままだ。部外者に存在を知られてはいけないのだろうか。
「へぇ、これが件の……ちょっと失礼」
上村はスマホを手にとり、矯めつ眇めつ調べ始めた。電話で入手した経緯は伝えておいたが、半信半疑ではあったようだ。画面は暗いままなので、やはり俺でなければロックは解除されないらしい。
「メイガス。魔術師って意味だな」
流石は上村、刻印の意味を知っていたようだ。大学でも成績優秀らしいから、この程度は朝飯前なのだろう。
「何か見た目はそれっぽいけど、試したの? 魔法とか」
「いやァ……それはまだちょっと怖いというか、何というか」
「やってみなきゃわかんないじゃん、魔道書に書かれた呪文が実際に効くかどうかなんてさ」
「まァ、それはそうなんだけど……うん」
「それで、鷺田はどうしたいのよ。その何とかゲーム、棄権するのか。負けたら酷い目にあうんだろ」
「そうしたいところなんだが、この端末は俺にパーソナライズされているからもう辞退できないって。そもそも俺に動機というか、強い意思があったから参加させられているらしい」
「何だよ、デスゲームに参加したい動機って」
「……5000兆円欲しいとか」
俺がそういうと「ぷッはははははッ!」と盛大に笑われてしまう。上村は興奮した弾みで小さくクシャミをすると、ずるずる鼻を鳴らした。スマホをテーブルの上に放り出し、ティッシュで鼻をかむが、既にトナカイのように真っ赤である。
そういえばアレルギー体質なんだと、以前いっていたようにも思う。
「それがお前の渇望ってわけだ」
「……うん、まあ」
「ならゲームが終了するまで、どこかに隠れておくのはどうだ。ここで匿ってやってもいいぞ」
「いや、俺としては〝勝てなくとも負けない方法〟とか、〝負けても死なずにすむ方策〟を相談したかったんだが……」
「逃げずに戦うつもりなのかよ! 勇気あるな、お前」
ああ、そうだな。自分でも意外だったよ。
腹を括るってこういうことかって。
――しかし、さっきから気になっているこの臭い。
鼻が効かない上村は気がついていないのだろうか。
それに、梶畑君が一向にトイレから出てこないのは何故だろう。
そして今、上村が口にした言葉――。
俺はすうと背筋が寒くなっていくのを感じた。
背中を一滴の汗が伝い落ちるように。
「なぁ、何で渇望なんていったんだ」
「えっ、鷺田がそういったんだろう。渇望があるから選ばれたって」
「いや違う。俺に『動機や意思があった』から選ばれたんだ、っていったんだ」
「そうだったか。言い間違えたよ、すまんすまん」
上村はいつのもように余裕綽々といった態度だが、その目は既に笑ってはいなかった。眼差しからはドス黒い感情が漏れでている。
俺は不可避的に致し方なく――何気ない風を装って疑問を口にした。
「上村、お前さ……まさかとは思うけど、梶畑君に何かした?」
* * *
Book 3. 誰が梶畑君を殺したのか。
「何かしたか?って、僕が梶畑に何をしたっていうんだよ」
「俺の実家は岐阜の田舎なんだ。餓鬼の頃、沼で釣ってきたザリガニを飼っててさ……でも、子供って無知だし残酷じゃないか。飽きたら世話も禄にしなくなる。そしてすっかり存在を忘れた頃……」
俺の突然の昔話にも上村は動じることなく、落ち着き払って耳を傾けていた。少なくとも表面上は。
「……ザリガニを飼っていた水槽が酷く臭いだしたんだ。生物が腐敗する臭いだ。そして初めて気がついたんだよ、俺はザリガニを殺してしまったんだなって。今、微かに臭う、この厭な臭いとそっくりでさ。あっちの方から漂ってくる」
そういって俺は玄関の方を指差した。玄関の脇には梶畑君がいるはずのトイレとバスルームがある。
「なぁんだ、気がついていたのか。お前も人が悪いなァ」
上村はもう隠すことなく、満面に邪悪な笑みを湛えていた。ケケケという笑い声が聞こえてきそうな下衆い顔。愚鈍な俺を見下して嘲笑しているのだ。
「そうか、臭いか。僕としたことが手抜かりだったね」
そういって上村は赤鼻をふんふんと鳴らすが、ほとんど臭いを感じていないのだろう。形ばかり眉根を寄せて「困ったね」という表情を作ってみせた。まったく、ムカつく野郎だ。
「手短に話せば、梶畑には魔術の実験台になってもらったんだよ」
「なん……お前、やっぱりッ!」
「まぁ、そんなに意気んなって。奴の体はちゃんと、有効活用させてもらってるんだよ」
「有効活用ってどういう意味だ。真逆、お前」
「やだなぁ、鷺田。面白がって『試しに自分に魔法を掛けてくれ』って頼んできたは、あいつの方なんだぜ。だから梶畑の死は、梶畑自身の責任なんだ」
「なに他人のせいにしてやがるんだ! 上村ッ、手前ェ」
「オイ、さっきから先輩に向かって失礼だぞ。僕がメイガスフォンを手に入れたのは一週間前。魔術師歴は僕の方が長い」
「なんだと!?」
「黒帽子に黒いコート、黒いステッキを持った全身黒ずくめの老人にさァ、貰ったんだよ。こいつをな」
そいって上村は上着のポケットから俺のと同型のスマホを取り出した。メイガスフォン。ただし外装は漆黒である。
「お前からの電話で『謎のスマホについて相談したい』っていわれた時には驚いたよ。まさかこんな近くに敵がいたとはね! しかも相手はメイガスフォンの使い方も知らない素人同然で、僕が同じ魔術師である事も知らないんだから」
「飛んで火にいる何とやらだな」といいながら、キヒヒヒと下卑た笑いを響かせる。俺は上村に気がつかれぬように、テーブルの上のスマホを盗み見た。手を伸ばせばすぐ届く距離だが、タイミングが肝心だ。
「お前みたいな奴でも、一応知り合いなんだし、殺すのも不憫だから、騙して取り上げようと思ったんだが……気が変わった。決闘といこうぜ!」
俺はテーブル上のメイガスフォンを掴むと、素早く認証をしてセイフティを解除。メフィストを呼び出して魔道書を起動した。
「オープン・セサミ! 『エイボンの書』!」
「威勢がいいな、 ド素人の分際でッ! メフィスト、魔道書起動。我が手に来たれ、『無名祭祀書』!」
*
テーブルを挟んで向かい合う俺たち二人の間に、びりびりと空間を切り裂くような衝撃が走った。互いのメイガスフォンの上には魔術書が浮かび上がり、足元には円形の魔法陣が展開していた。
視界の隅に能力値らしき数値が、対戦者たる上村の頭上にも何やら文字や数字が浮かんで見えた。どういう仕組みからはわからないが、SF映画で見る拡張現実そのままだ。
「初対戦おめでとうございます!」
「全然めでたくねぇよ! それよりあんた、あっち側にもいただろ。俺のセコンドじゃないのかよ」
「私の役目はあくまでゲームの管理者。それに電子の海を揺蕩う存在でありますので、こちらにもあちらにも同時に遍在しております」
「ちッ、この浮気者めッ!」
「「それでは、これよりメイガスゲーム、開幕いたします!」」
それぞれのスマホからメフィストの宣言が同時に谺して、遂に魔術師同士の力比べ――生死を賭けた遊戯が始まった。
*
「ひとつ聞かせろ、なぜこんなことをする!」
「はァ? なぁにいってんだ鷺田、楽しいからに決まってるだろ。僕はずっと生ぬるい日常に浸かりながら、いつかこういう非日常が降ってこないかと待っていたんだ。もっと喜べよ、僕たちは選ばれたんだぞッ!」
「……そうか、そういうことか。いつも感じてた違和感の正体がわかったよ。俺はずっとお前の傲慢さが嫌いだったんだ!」
「ああ、そうかよッ!」
上村は左手で仮想の魔道書のページを繰り魔術を選択すると、躊躇なく俺に向けて呪文を撃ってきた。複雑な印型を魔杖で宙に描くことも、難解な古代言語の詠唱をすることもない。全てはメイガスフォンが肩代わりしているのだ。
周囲で高まる魔力を肌で感じて総毛立ち、こめかみをギリギリと万力で締め上げられるような頭痛がした――その直後、目には見えない衝撃が全身を襲った。まるでSF映画で見るような念動力、あるいは巨大な拳で殴られたような直接的な暴力だ。その勢いで俺は椅子を弾き飛ばし、壁際まで追いやられた。
何とか転ばずにすんだのはメフィストの助言を聞き入れたからだろう。つまり――。
「あれェ、おかしいしいなァ。一発で仕留めるつもりだったのに。お前、予め防御呪文を唱えていたな、この嘘つきめ」
「ぺっ……ああ、そうだよ。最初に魔道書を起動した時、試しに差し障りなさそうなのを使った……おかげで命拾いした」
俺は口内にたまった血を吐き出しならがら言い返した。嘘つきだなんて、こいつにだけはいわれたくない。
どうやらまだ〈見えざる鎧〉の効果時間内だったようで、結果的に救われた。
それにしても、上村は本気で俺を殺すつもりだった。本性を露にしたこの男――何て恐ろしい奴なんだ。
「トモヒロ様、お気をつけて。このゲームは残機制ではありません」
「わかってるよ、そんなことくらい! それより何かこう、ファイアボールとかライトニングボルトとか、そういう強そうな呪文ってないの?」
「四大元素説が信じられていた古代ギリシャならいざ知らず、現代でそれはちょっと困難かと」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ……」
「我らが神に祈りを捧げましょう」
メフィストの酷く突き放した物言いは、俺には死刑宣告に等しく聞こえた。
* * *
Book 4. 勝者に祝杯を。
「畜生ッ! 諦めてたまるかッ!」
俺は宙に浮かぶ『エイボンの書』のページを慌てて繰った。記載された呪文はメフィストのいうとおり、どれも魔法というより呪いに近いものばかり。炎や雷などを紡ぐ魔術は見当たらなかった。
「魔術師の素質は魔力の多寡ではなく、数値では測れない、発想力や応用力で決まるのです。魔術とは現実を改変する力なのですよ」
それが助言のつもりなのか、メフィストは他人事のようにのたまう。
クソっ、どうすればいい!?
不安と焦りが臓腑の底に溜まり、絶望となって醸される。
対して上村は、所持する『無名祭祀書』に熟知している余裕が感じられた。酷薄な笑みを浮かべ、俺の出方を窺っている。やはり魔術師として一日の長があるのは間違いない。
何か手掛かりはないかと、俺は眼前に広がる拡張現実ディスプレイに隈なく目を走らせた。しかし、対戦者の能力値は秘匿されて確認できず、室内に武器となり得るような物も見当たらない。
視界の端で割れた酒瓶に目がとまったが、これを振るったところで大した役にはたつまい――と、牽制するように伸ばされた上村の左手が、瓶から飛散したであろう液体によって濡れているのに気がついた。
その掌に赤く斑点が浮かんでいる。
視界のARディスプレイ上に〝weak〟の文字が追加表示された。
これはもしや。
――試してみるか。
俺は操作装置を操って該当ページを呼び出し効果を確認すると、呪文の発動を実行した。
魔術は呪文毎に詠唱時間が決まっており、瞬間的に効果を発揮するものもあれば、儀式魔術のように長時間を必要とするものもある。メイガスフォンによって半ば自動化されているとはいえ、俺の狙いにはまだ幾ばくかの時を必要とした。
「させねえよ、雑魚がッ!」
俺の動きを見て取った上村は、遠慮なく強力な魔術をぶつけてきた。
再び俺を害する魔力が周囲で高まり、呪文に対する抵抗を試みるが、今度はあっけなく力負けしてしまう。
「ぐうッ……ぎゃあああああッ!」
スマホを握る右腕に激痛が走り、俺は思わず絶叫した。左手で右腕を支えて、なんとか取り落とさずにすんだ。しかし――。
腕が、腕がァ!
俺の右腕は肘から先が黒く乾いて萎び、痩せ細り縮んでいく。その苦痛たるや、22年の生涯で初めて体験するものだった。
よく気を失わずにいたと自分でも感心する――その理由は、儀式魔術が完成するまでの残り時間に集中していたからだ。
激痛に耐えながら、そのカウントがゼロとなった瞬間。
俺は魔術の成立を宣言した。
「くッ……我、虚空の神に供物を捧げん。酒杯よ、満ちよ」
「はッ、なぁに気取ってんだ。何も起こらないじゃないか……うん!?」
最初は何も変化がないように思われた。
しかし数秒後、眉間に皺を寄せた上村は、どんどん顔が赤くなり、その後蒼白になって――頭からひっくり返った。
「ごぶぐぶッ……げほッ……お前、いったい何を……」
口から泡を吹き、黄金色の液体を滴らせながら、上村は呻くようにいった。
「〈黄金の蜂蜜酒〉を精製した。お前の胃袋を酒杯に見立ててな。知らなかったか? 消化器官は体内じゃない。胃の内壁は体外なんだ」
――とはいえ、上村によって呪文抵抗される可能性もあったから、この試みは一か八かの賭けではあったのだ。神に祈りと供物を捧げる事によって救われたのだと、そういえなくもあるまい。
「お前がアルコールアレルギーなのは気がついていたが、ここまで効くとはな……オイ、何とかいえよ先輩だろ」
上村は白目を剝き、ぐうッと呻って気絶したようだった。
「「カミムラユウタの戦闘不能を確認。よってサギタトモヒロを勝者とします」」
再び二人のメフィストがゲームの終演を宣言した。
「初勝利おめでとうございます。その右腕は速やかに〈治癒〉の呪文で治療したほうが良いでしょう」
「ああ、思い出したら痛くなってきた……」
「対象のメイガスフォンの上に、本機を重ねてください。こちらの魔道書ライブラリに移行できます」
床に転がった漆黒のスマホにこちらの本体を重ねると、やはりピロリン♪と軽薄な音が鳴り響いた。どうやら新しい魔道書を入手したらしい。
ああ、疲れた。
死ぬかと思った。
「さて、残る魔道書は八冊。私、この遊戯の魅力と意義について十分にお伝えできたでしょうか」
「ああ、俄然面白くなってきやがった」
――俺の心の奥底に、薄暗い炎が灯ってしまったようである。
(魔術師の遊戯・了)