卯月:春潮
その後は軽く屋敷の中を案内してもらって午後は瞬く間に過ぎていった。私が最初に通されたのは洋室で、主に客人を出迎えるための部屋だという。台所は案外綺麗だった。屋敷を一通り案内された後、2階の一番奥の部屋へ通されてここが寝室になります、と伝えられた時は困惑した。どこぞのお嬢様の部屋かと思うほどの調度品で揃えられていたからだ。レースがふりふりじゃないけれど天蓋付きのベッドって初めて見た。埃っぽい匂いがしたらどうしようとひっそり匂いを嗅いでしまったのだけど、案外そんなこともない清潔な柔軟剤の匂いがしたので安心したのは管理人さんには秘密にする。
「お持ちになられたお召物はこちらの納戸に。ドレッサーのご用意もございますのでお化粧品はこちらへ。他に何か必要な家具がございましたらお申し付けください」
「……十分だと思います」
実家じゃ自室はあったけど、あくまでベッドやテーブルくらいで、納戸も、ドレッサーも、なんならウォークインクローゼットじみた桐箪笥も見たことない。興味本位で箪笥を開けたらその瞬間思わず崩れ落ちた。素人の私だって見てわかるくらい仕立てのいい着物が入っていたからだ。これもカビ臭いなんてことはない、細かに手入れをされていたらしくいい匂いがする。着物なんて七五三か夏の浴衣以来着てないのに。
「何かありましたか?」
「なんでもないです……」
私が知ってる大学生の一人暮らしとはかけ離れすぎている。東京の一人暮らしって物置みたいな小さなお部屋にベッド一つ置いて食事の度にテーブルを組み立てるものじゃなかったの……?!一体幾らかけたんだ、兄と両親とお祖母ちゃんはと遠い目をしながらよろよろと立ち上がると管理人さんが支えてくれた。ああ、あとこの人の人件費。繰り返すが一体幾らかかっているんだ、この新生活。
不思議そうに私を見ていた管理人さんは少し私の様子を伺うとふと着物の視線を移し、お金の計算を始めて仔鹿のように震える私をまた見やって合点がいったと言うように頷いた。桜色の絵の具でさっと描いたような唇が綻んで、綺麗な声が私を呼ぶ。
「優さん」
「ヴッ」
「私は優さんのためにここに参りました。私の意志で貴方にお仕えしておりますので、給金などご心配いただく必要はありません。ただお側でお仕えさせていただければ」
「は。……はっ、わ、私が雇用主?!?」
「左様でございます。繰り返しますが給金は不要でございます」
「いやどう考えても必要かと?!」
まさかの雇用主が直に私だった。何も聞いてない。嘘でしょ。思わずスマホを取り出して再びお祖母ちゃんに連絡を取ろうとすると、手の甲を冷たい指がつうっと伝って動かす指を押し留める。その動きが余りにも私にとって刺激が強すぎたものだから、思わずスマホを放り出してハンズアップした。なんだ今の。心臓がバクバクする。
「ご家族もご承知ですよ」
「な、何も聞いてないのですが……」
「本当に?お屋敷のことといい、お伝えするべきお話がいくつか欠けているようですね」
……それは、確かに。既に前例がある以上その可能性はあり得る。プツ、とスマホの画面を消すと微笑んだまま管理人さんがスマホを差し出してくれたから、ありがたく受け取る。あとでお母さんにメッセージを送って確認しておこう。
だとしても、だ。旧家高岡家の娘としては無償で管理人さんを雇い続けるわけにはいかない。曽祖父も町長として人の上に立っていたし、祖父も跡を継いだ父も骨董屋の店主として人を雇う側の立場である。兄は普通のサラリーマンだけど。とにかく、こればかりは人を使う立場の子供の矜持が許さなかった。人には働き相応の報酬を払うべし。古くから我が家に伝わる家訓の一つである。
「でも管理人さんに働いてもらって何も返さないっていうのは尚更だめです。お給料は払います」
「結構です」
「払います!」
「お気持ちだけで十分でございます」
「人には働き相応の報酬を払うべし!高岡家の人間として見過ごせません!お金がだめなら他に何か!」
勢いで口に出したが自分がそういう旧家だからというのを私は今まで意識したことはない。私は家こそ裕福だろうがなんだろうがどこにでもいる普通の感覚の普通の一般人だ。
けれど同時にそれだけの事を持ち出さないとこの人は何も受け取ろうとしないに違いないと思った。その言葉が効いたのか、管理人さんの目が丸くなる。驚いたような顔は年上なはずなのに、年相応を超えて私より幼く見えた。
「……では、そのように仰るのであれば、一つだけ。……優さんの時間を少しだけ私にください」
「はい!……はい?」
「一刻だけでも構いません。月に一度で構いません。私だけに時間をください。貴方にも迷惑だったと、無駄な時間だったとは思わせません。お役に立ったと言わせて見せます。ですから、どうか、」
「あ、あの、落ち着いてくださ──」
急に饒舌になった管理人さんをどうにか宥めようとした時だった。
つい、冷たい指が目尻をなぞる。引っかかりのない親指が下瞼を目頭に向かって滑っていく。気づけば両手で顔を包まれていた私が状況に気づいて狼狽えるより先に、駄目押しをするようにその人は微笑んだ。今までの使用人めいた仮面の顔から、まるで子供が笑うようにくしゃりと顔を歪ませて。そしてまるで愛しむように何度も何度も下瞼を撫でられる。
「……その目、使い方があればと思ったことは?」
ひゅ、と次に吐かれた言葉に混乱も何もかもが吹き飛んで、私はただ驚愕に目を見開くしかできないのだった。
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