卯月:花雨
こういう話を書くと民俗学のあれやこれやを思い出してぞわぞわします
──小さい頃、曾祖父から言われたことがある。
「次はお前なんだな」、そうどこか感慨深く悲しげな声で。当時すでにボケも進んでいて、もう家族の顔も分からなくなっていた曾祖父だけれど、ほとんど寝たきりで自室でぼうと天井を眺めていた曾祖父だったけれどなぜか私のことは分かっていた。私が部屋を訪れると亡霊のように開けていた目と口に急に生気を灯しておいで、と微笑んだ。ベッドに必死になってよじ登る小さい私をあたたかな目で見守っていた。
そんな風にしてお喋りともならない会話を繰り返していたある日のこと。その日は私の五歳の誕生日だった。家族みんなから祝われてご機嫌だった私は曾祖父からも祝ってほしくて部屋を訪れたのだった。いつものように亡霊の顔から人に戻る様を見て、ベッドによじ登って、これでもかと祝ってもらったそのあとのことだった。
今日は何日だ、曾祖父は問う。
しがつのふつかだよ、私は答える。
その瞬間曾祖父の表情は抜け落ちて、次いで得心がいったというように表情を歪ませた。そうかぁ、と泣きそうな声で骨と皮だけになった手で私の頬を撫でる。戦争を生き抜いたという曾祖父の掌はざらざらとしていてお世辞にも触り心地がいいわけじゃなかったけれど、その時の私はじっとしていた。
そして、冒頭の台詞を曾祖父は吐く。感慨深く悲しげな声で。
「次はお前なんだな」
そう言った瞬間、曾祖父の体が痙攣し始めたものだから慌てて私はベッドを降りて家族を呼びに行こうとした。けれど、顔を包んだ曾祖父の力が思いのほか強くて動くことが出来ない。おおじいじ、と読んだ時だった。
「お前は、お前は、……なぁ、優、」
そのうち曾祖父は泡を吹き始めた。それを見て青ざめる私に精一杯微笑んで、もう動かすのも辛いだろう指先で私の頬を撫ぜる。お前は、と何度も繰り返した後に曾祖父は絞り出すように言った。
「なぁ、お前は、ちゃんと幸せになれよ。こんな──」
「──こんな呪いになんて、負けんなよ」
その瞬間曾祖父の手を伝って何かが頭に流れ込んできたのだ。悲鳴を上げる私の顔を撫でながら、幸せになれよと鬼気迫る表情で曾祖父はそれでも手を離さない。悲鳴を聞きつけた家族が私と曾祖父を引き剥がそうとしても無駄だった。それだけ、枯れ木のような腕には力が籠もっていたのだ。
そうして最後、私は曾祖父の目が金色になっているのを見て気を失った。直後、曾祖父が血を吐いて死んだらしいことを大きな遺影を眺めながら知った。あれだけ強い力で顔を掴まれていたにも関わらず、私の顔にはあざ一つ残らなかった。
♢
「……東京の、お屋敷?」
「ご先祖の古ーい、ね。優が十八歳になったら渡そうってお父さんとお祖母さんと話してたの。そこなら元々うちの持ち家だし、家賃もかからないし。まぁ税金はかかってるけど」
「だから探さなくていいって言ってたの?っていうかなんで東京にお屋敷なんて持ってるの?」
「ご先祖様が東京に住んでたから。明治時代からあるってお祖母さん言ってたかなぁ」
そんな話をされたのは高校の卒業式を終えた夕暮れ、家に帰る車の中だった。このあと家族みんなで行く食事を楽しみに、けれど未だ明らかにならない新生活の住まいの話を振ったのが始まりだった。大学を機に上京するのは高校に入って志望校を決めた時から決めていたことで、あっさり両親が承諾したのを少し意外に思っていた。なんせ兄はこの街を出るのを引き留められていたからだ。だから私も駄目元でお願いしたっていうのに、両親は一度顔を見合わせただけで「分かった」とだけ言った。なお兄はすでに結婚し、出産が近い奥さん──夏未さん、という──に付き添っている。
「……家があったから、東京行くの許してくれたの?でもそれなら章兄さんだって」
「あの家は優に遺されたものだから。優以外住めないの」
「住めない?」
「ご先祖様の遺言なんだって。四月生まれの子供以外あの家に住まわせないようにって。で、優以外四月生まれは今までいないから」
「それすっごく変だよ。なんで四月生まれだから住めるの?」
「本当にね。……でもひいおじいさんもずっと言ってた。あの家は優が住むんだって。お祖母さんも」
母も自分が随分と変なことを言っている自覚はあるらしい、その頬に浮かべる苦笑がその証拠だ。でも、曾祖父が言っていたのならばと変に納得してしまって私はそれきり黙る羽目になった。ボリュームの落とされたラジオが天気予報を流している。今夜、雨が降るでしょう──雪解けが早まるかもしれません。
物心つく前の鮮烈な曾祖父の最期を私は今も鮮やかに脳に焼き付けている。なぜならあの日以来私の世界は一変したからだ。
私自身は何も変わらない。けれど、なぜか心も視線も三歩先を見ていた。あと数分で雨が降るとか、かくれんぼで誰がどこにいるかすぐに分かるとか、そんなもの。けれどそれは高校生になっても、卒業した今でも変わらないまま、強くなることも消えることもしないで私の中に存在していた。
けれど、あの日以来家族からの扱いが少し変わったのを覚えている。青ざめた祖母は必死になって蔵で調べ物をしていたし、父は何度か東京に行っていた。母はほんの少し過保護になって、それまで子供だからと行かずに済んでいた新年の挨拶周りや真夏のお墓参りに必ず連れていかれるようになった。今思えばそれはご先祖様の遺言を確かめたり、東京のお屋敷の下見に行っていたのかもしれない。
そんなわけでとんでもない事情を暴露されてしまった私の動揺は治まり知らず、その夜食べたちょっと豪華なご飯の味など吹き飛んでしまっていたのだった。
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