上海星夜
この街の空には星が見えない。
時刻はとうに23時を過ぎたというのに、繁華街の灯りは全くもって消える気配を見せずに爛々と光っているし、そこを往来する人々の数も減るどころか増えている気すらしてくる。
時にけばけばしいとも思う程の人工の光は、地上から空をも照らしてこの街を眠ることのない不夜城に仕立て上げていた。
当然、何百光年も離れた星の光などこんな環境で視認できるわけもなく、精々テレビ番組とか雑誌だとかに出てくるような有名でひときわ光の強い一等星なんかが辛うじてわずかに見えるだけだ。
曾祖父母の更にその親が生きていた時代 ―具体的な年代を計算する気にはならないが大体100年前だろう― には夜になるとそこそこ星が見えていたらしくて、なんなら空が広く見える場所まで出てこなくても星座鑑賞なんていうロマンチックなことが出来ていたらしい。
今では考えもつかない話だ、と思いながら大通りを歩いていく。
一番派手に光っているのはやたらサイズの大きいネオンとかで、それと競い合うかのように建物や店の灯りがひしめき、規則正しく沿道に並んだ街灯の光も割り込んでくる。その光景は賑やかとも言えるし、鬱陶しいとも言える。
こんな夜の街を年頃の女一人で歩いていたら、それはもう面倒臭いことこの上ない。
誰彼構わず声を掛けてそうな浮ついた奴が近寄ってくるし、観光客狙いに見えるスリの子供が視線を送ってくることもある。果てはそこら辺で客引きをしてくる娼婦すら気持ちの悪い笑みを投げかけてくるなど碌なことがない。
全てを無視してさっさと歩き抜ける。
大通りから一本路地に入って、急に街灯の減った道を躊躇うことなく進んでいく。
いくつかの曲がり角を間違えずにやり過ごし、もはや人の気配すら感じない路地裏の一角。そこが私と彼女の待ち合わせ場所だ。
「シュラン、まだ来てないのね」
その場所に彼女の姿はなく、少し期待して来た私は思わず独り言ちる。
今日は良い物を手に入れてきたからすぐにでも見せようと思っていたのだけど残念だ― 仕方ないので座って待つことにする。
今日もこの場所は空が広い。
閉塞感のある路地裏で、一見すれば場末のスラム街とすら取れるその景観の癖に、ここから見える空は想像以上に開けている。
理由は今座っている場所から正面に見える廃屋の跡。
随分妙ちくりんな形をした家屋だったらしいけど(この辺りはシュランに聞いた方が早い)、私がこの場所を知る前に倒壊したそうで今は空き地のようになっている。その分だけ空が開けて見えるというわけだ。
そんなことをぼんやり考えていたら、ふと彼女との出会いを思い出す。
私がこの場所を知ったのも、こうして毎晩通うようになったのも彼女がきっかけだ。
その日、私は面倒な好色漢に追われていた。
今の暮らしに嫌気がさして家を飛び出したはいいものの、行く当てもなくうろついているうちに夜が来て、そいつに目を付けられた。
そこそこ見てくれのいい自信はあるので警戒はしていたけど、こんなにもしつこい奴に当たるとは思っていなくて、自分の甘さを反省しながら繁華街を走り回る。
体力もどんどん削られていってまずいと思い始めた頃、私は路地裏から突然腕を掴まれて引っ張られた。
また別の厄介な奴かと身構えたら、それは自分と同じくらいの背丈の少女だった。
「あたしに付いてきて。匿ってあげる」
彼女は迷わなかった。
いくつもある曲がり角も分かれ道も一瞬のうちに通り抜け、暗い路地で躓くこともなく大通りから距離を取る。
―いや、距離を取っているような気がするくらい必死に走っていて、結局今自分がどっちの方角に向かっているかもわからない始末だった。
ただ、物を考える余裕も余力もない状態では彼女に身を委ねるしかなく、やがて辿り着いた路地裏の一角で彼女が立ち止まるまで言われるがままだった。
「ここまで来れば大丈夫。怪我はない?」
「ぜっ、はあっ…………ええ、無いけど」
「そっか、それなら良かった」
荒くなった息を整えて、ようやくそこで彼女の姿をしっかりと捉える。
日に焼けた小麦色の肌、快活そうな顔立ち、動きやすそうな身なり。
翠玉のような深い緑色の瞳が私を映していた。
「今晩は危ないからここで泊っていきなよ。あたしが保護者だ」
「…………襲ったりしないでしょうね」
「まさか。あなたが望むのなら別だけど」
そう言って軽く舌なめずりをしてみせた彼女に少しだけ恐怖が先立つ。
でもなぜかそれ以上に興味が湧いた。
「……あなた、名前は?」
「あたし? あたしはシュラン。そっちは?」
「スーフォン。呼び捨てで構わない」
「スーフォンか、いい名前だね。それじゃあスーフォン、こっち」
彼女に付いてすぐ近くの建物に入る。
外では暗くてよく見えなかったが、古い民家のようだった。
小さな明かりを一つだけ灯し、その中の様子が浮かび上がる。
机に椅子、ベッド、洋服棚、水場。生活するのに最低限のものが並ぶ。
「ここ、もう捨てられて誰も住んでないんだ。自由に使っていいよ」
さも己の所有物であるかのように語っているが、大方勝手に住み着いているだけの部外者だろう。案外高級な暮らしに飽きたお嬢様なのかもしれない。
「なんかすごく不名誉な視線を感じるんだけど」
「……そんなことない。で、シュランはここに住んでいるの?」
「"住む"か……半分正解で半分間違い。夜の間だけここを使っているというのが正確な表現だね」
夜の間だけ? なんでそんなまた酔狂なことを。馬鹿なのか?
「不名誉な視線がさっきの倍になったよ。……視線が倍ってなんだろうね」
「一人でボケて一人でツッコむのはやめてもらえる?」
「あはは、ごめんごめん。でも不名誉な視線を感じるのは本当だから釈明させてほしいな。好き好んでここにいるわけじゃないよ」
ぽふんとベッドに腰掛けて、ここ座りなよといった風にぽんぽんと横を叩くから、とりあえずそれに従うことにする。
すぐ隣にいる彼女の髪からふわりと甘い香りが漂ってくる。
「自慢じゃないけどうちは家庭環境が悪くてね。父は仕事してるけど夜になったらお酒に溺れて大暴走。母はそんな父を養うためにそこら辺の楼館で働いてるよ」
……全く高級な暮らしではなかった。人を見立てだけで適当に判断してしまった自分を殴りたい。
「ごめんなさい。不名誉な視線を送ってしまって」
「いいよ、別に。っていうか不名誉な視線を送っていた事実は認めるんだね」
「ええ、まあ。私正直だから」
「お、おうっ…………スーフォンのキャラが少しずつわかってきた気がするよ」
半分困ったように半分楽しそうに笑みを浮かべながら彼女は続ける。
「そういう理由で夜は父と二人きりでね。すると酒で理性を失くして暴力を振るってくるわけ。だから夜の間だけ逃げてきてここで過ごしてる」
「……それで、朝になったら家に帰るのね」
「そうそう。すると父はいなくなってるし、母は昼夜逆転で寝てるし都合がいいんだ。で、あたしは優雅に学校へ行くと」
どこが優雅なのかと言いたくなるのを堪え、黙って話を聞く。
辛いはずの身の上を語りながらもそんな素振りを見せない彼女は強いのだろう。
「それで今日もここへ来て、少し食料でも買ってこようかなーと大通りに出たらナンパに追われてる女の子がいたんだよね。すると正義感の強いあたしは見捨てられなくなって咄嗟に助けてここへ連れてきたってわけ」
「……シュランのキャラも大分把握してきた」
「理解が早くてなにより。スーフォンは頭が良いんだね」
「頭の良さどうこうの話ではない気がするのだけど……」
駄目だ。シュランといるとペースが崩れる。
でも、どうしてかそれを心地良いと思ってしまう自分がいる。
「次はスーフォンのことも聞かせてよ。なんでこんな時間に出歩いてたの」
「…………家にいるのが嫌で」
「あたしと同じじゃん。仲間だね」
シュランがなんだか嬉しそうにしているのが癪に障るようで障らない。
「……親が厳しくて。父は会社を経営していて、母もそこで働いてる。
勉強も日々の暮らしも息が詰まって、苦しくて」
「うんうん」
「今日も怒られて。頑張ることに疲れて、嫌になって逃げてきた」
私の身の上なんてシュランからすれば大したこともないだろう。
彼女の方がよっぽど辛い暮らしを送っているのに、こんな我儘みたいな私の脱走劇なんて一笑に付すに違いない。そう思った。
だけどシュランは笑わなかった。
その代わりに黙って話を聞いてくれた。日々の苦しいことも、嫌になったことも、面倒だな思ったことも、ただただ受け入れるように静かに聞いてくれた。
自分でも何分喋っていたかわからないくらい話し続けて、喉が渇いて疲れて黙りこくった頃に水をくれて、それからようやくシュランは口を開いた。
「なるほど、スーフォンから感じたお嬢様オーラはそれが理由だったのかー」
「え、私ってそんなオーラ出してる?」
「うん。自覚してなかったの? 口調も振舞いもそういう感じだったよ」
ぐびぐびと飲み干してから彼女の言葉を聞く。
そうか、それなら奴らにしつこく追われたのも合点がいく。
金持ちの子女に見えたから狙い目だと思ったのだろう。
「スーフォンはこういうところ慣れてないんでしょ。それならますますここに泊まっていかないと危ないよ。あたしと一夜を過ごそうじゃない」
「…………襲ったりしないでしょうね」
「まさか。スーフォンが望むのなら別だけど」
結局その晩はシュランと同じベッドで眠った。
彼女と寄り添って眠った一夜が明けて、私は次の夜もここへ来ようと決めていた。
息苦しい毎日の中で、この夜だけはそう思わなかった。
シュランと一緒にいると心が軽い。彼女との会話、彼女と過ごす時間。
一夜を過ごした空き家を出て、太陽の昇った空を見上げる。
後ろから付いてきたシュランに振り向いて、私はこう告げた。
「ねえシュラン……今晩も、来ていい?」
「うん。待ってるよ、スーフォン」
それから毎日のように私はシュランの隠れ家へ通うようになった。
夜が来て、親が寝静まったら家を抜け出す。
仕事が忙しくて家に帰ってこない夜も頻繁にあるので、そういう時は気兼ねなく出ていける。
毎回決まった道、繁華街を抜けて路地裏に入って、迷路のような小路を進む。
初めの何回かは戸惑ったけれど、そのうち迷わなくなってきて、今なら目をつむっていても辿り着ける自信がある。
そうして隠れ家にやって来れば、その前でシュランが座り込んで待っている。
彼女の第一声は決まって「おかえりなさい」だ。
その声に私も「ただいま」と返す。
そんな日々を繰り返して、私の中で彼女の存在とこの場所が何よりも大きなものに変わっていった。それこそ、ただいまと自然に声に出るくらいには。
そして、私の話をシュランが聞く。
シュランの話を私も聞く。
お互いの抱えている感情も物事も思いっきりさらけ出す。
それが心地良くて、満ち足りて、空を見ながら語って過ごす。
やがて眠気が来て、二人でベッドに入って眠る。
それまではやっぱりベッドの中で話をする。
ある日は私の愚痴をシュランにこれでもかと聞かせた。
家のこと、学校のこと、人間関係のこと。なんでもござれだ。
特に私が嫌なのは両親がお見合いをさせようとしていることだ。
会社が大事なのはわかる。だがその負担を子供に押し付けるような親はまっぴらごめんだ。婚約者まで勝手に決めようとするな。
「信じられる? 実の娘に望まないお見合いをさせようとする親なんて」
「それは最低だね。あたしだったらビール瓶で一発ぶん殴ってるところだ」
「いや殴らないで。あなたの父親と同じになるから」
「おっといけない、その通りだね。じゃあ代わりにあたしがスーフォンの婚約者を名乗って攫っていこうかな」
「いや攫わないで。それは向こうからしたらただの誘拐だから」
それもダメだね、なんて言ってけらけらと笑っているシュラン。
端から見れば何の生産性も感じない会話。だけど私は楽しい。
くだらないことを喋って笑い合う時間がとても大切に思える。
「あとシュラン。やっぱり私を襲う気とかないでしょうね」
「えー、あたしってスーフォンを狙ってるように見える……?」
「時々見える。たまにする舌なめずりとか、肉食っぽい目つきとか」
「そんなあ……あたしは清楚系を押し出してたはずなのに」
「どこが」
「えー」
そんな会話と時間を共有して、私たちの関係は二年以上にも及んだ。
初めてここに来たのが14歳の時で、今はもう16歳。
親も、近所の住民も、学校の人たちも知らない時間を彼女と過ごしてきた。
そういえば、私の記憶の中のシュランは、いつでも明るい笑顔を見せていたなと改めて思う。
元々明るい性格なのか、それとも日々のしがらみから解放されて明るい気持ちになっているのか。彼女の昼の暮らしを知らない私には想像するしかできない。
それでもその笑顔に救われてきたという自覚は十分にある。
辛いことがあった日も、苦しいと感じた日も、悲しい気持ちになった日も、シュランと一緒にここで笑い合えるから頑張れた。そんなことがたくさんある。
だから、今晩は珍しく遅れてやってきた彼女が、初めて見る寂しそうな表情をしていたことに驚いた。
そして、その驚愕はシュランの第一声で膨れ上がり、私の心を突き刺した。
「スーフォン。あたし……殺しちゃった」
彼女が懐から取り出したのは銀色に光る鋭利な凶器 ― 包丁。
その表面は鈍く光って、暗い夜の中でも見える深い赤色を滴らせていた。
それが手から離れ、カランと音を立てて地面に落ちる。
その音を合図にするかのようにシュランは私の胸へ飛び込んできて―
「シュラン……どう、したの」
「…………父さんも、母さんも、殺した」
胸元にべったりとした重みを感じる。
シュランの服に付いた返り血が染み込んでいた。
腕の中で震えるシュランを見やる。
いつも気丈に振舞っていた彼女が、今は小さな子犬のように怯えている。
「聞いて、スーフォン…………あのね…………」
途切れ途切れに、少しずつ語ったシュランの話はこうだった。
母親が今日は仕事に行かずに家に残って、帰ってきた父親と話をすると言った。
それに付き合うようにと言われた。
すると父親がこう言い出した。
金が足りないと。会社で給料を減らされてしまったと。
酒に溺れてまともに働けないお前のせいだろ、と思った。
こんなくだらない話ならさっさと終わらせようと思った。
でも終わらなかった。
父親はシュランにも楼館で働けと言い出した。
無理やり腕を掴んで今から連れて行くとほざいた。
母親はそれを止めようともせず、娘がなすがままにされるのを黙って見過ごした。
助けてくれる人はいなかった。
だから、殺した。
「だって……あたしが愛してるのは、スーフォンだけ、だから」
「……こんな時に告白なんて、困るのだけど」
「ご、めん……でも、他の人なんて、絶対に、絶対に嫌だっ……!」
本当に困る。今告白されるなんて。だって―
「シュラン、私も愛してる…………でも、告白はロマンチックにしたかった」
「……あはは、そう、だよね。あたしも、それがよかったな……」
二年間も燻っていた恋の成就がこんな風になるなんて。
しばらく言葉を失った私たちは黙ったまま時を過ごした。
やがてシュランの震えが小さくなった頃、彼女が口を開く。
「ねえ……あたし、捕まるのかな」
「……そうでしょうね」
腕の中で黙りこくるシュラン。その震える背中をさすってやる。
「シュランの両親には仕事がある。仕事に来なかったら誰かが怪しんで様子を見に行って、そこで死体を見ることになる。そうしたら次はシュランが疑われる」
「…………スーフォンは辛辣だね」
「正直と言ってほしいのだけど」
「……そうだったね。初めて会った日、自分のことを正直って言ってた」
まだあの日のことを覚えていたのに驚く。
でも、そんな些細なことを覚えているくらい私のことが好きなんだろう。
そんなシュランが愛おしくて、それと同じくらい悲しくなって、彼女を抱きしめる腕に力を込める。
シュランは私の胸に顔を埋め、ただただそうしていた。
それだけで時間が過ぎていく。
そして、あまり長くはこうしていられないことに二人とも気付いていた。
「ねえ、シュラン。渡したいものがあるの」
「……うん、なんだろう。もしかして婚約指輪かなあ……」
「申し訳ないけど、違う」
私は懐からそれを取り出す。
早く見せたいと思っていたのだけど、中々言い出せなかった。
白色をした錠剤が二つ。手のひらで転がる。
「なに、これ……」
「これ、シュランにあげようと思っていたの。好きなように使ってくれればいいと思って…………でも、話が変わった」
怯えるような、恐れるような目をしたシュランがこちらを見つめてくる。
その瞳が期待と不安に揺れる。
「これは― ずっと二人で一緒にいられる薬」
「ずっと、一緒……?」
「そう。これを飲めば私たちは永久に添い遂げられる」
それに目を落として、それから上を向いたシュランの瞳が寂し気に私を捉える。
「そっか……ロマンチックだね」
「ええ、とても」
「こんなもの用意してくれるなんて……スーフォン、あたしのこと好きなんだね」
「ええ、とても」
それから私の唇に彼女のそこを押し当ててくる。
最初で最後のキスは少しだけ血の味がするような、そんな気がした。
「ありがとうスーフォン。一緒に飲もっか、この薬」
「そうね。私も……それがいい」
「その前に、少しだけ時間をくれないかな……スーフォンと過ごしたこの場所のこと、少しでも目に焼き付けておきたい」
そう言ってシュランは空を見上げる。
わずかな灯りだけが残された路地裏の広い空を私も同じように見上げる。
たくさんの思い出が蘇る。
初めて会った日の戸惑い、シュランと毎晩交わした言葉、二人で眠る時の安らぎ、朝が来て別れる時の寂しさ、シュランのことばかり考えていた昼の暮らし。
シュランは何を考えているのだろう。そう思って彼女の方を見る。
そして私は言葉を失った。
雫を湛えて潤むその目の奥が、キラキラときらめいて。
深い翠玉の瞳が星空のように光を宿す。
星の見えないこの街で、それは本物の星のように綺麗だった。
やがて涙が流れて、その瞳に星屑が降り注いだ。
私はその光景をただただ見つめていた。
それから数日後、路地裏の廃屋で二つの死体が発見された。
片方は殺人の容疑を掛けられていた少女、片方は彼女と度々会っていたとの目撃情報が上がっていた大手企業の社長子女。死因は服毒による呼吸困難。
二つの死体は互いの手を握ったままだったという。