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すみれさん  魔女?

作者: モンチャン

若手魔女のお姉さん的存在の「すみれさん」の物語。

時代設定は「ちょっと前」

場所は「東京」と「松本」

男は「普通」

女は「魔女」


年に何度も無い「13日の金曜日」

「魔女の魔の字は、悪魔の魔の字」と言うことで、この日に無理矢理合わせました。


すみれさん  魔女?



魔女からは、基本的に一人だけ女の子が生まれる。

男の子が生まれると、普通の人間になる。

ただ、女の子の場合は、必ず魔女になる。



魔女は森の奥に住んでいる?

昔はそうだったかも知れない。


現在は、そんなことはない。

物語に残っているだけである。



実際に魔女に会っても分からない。

見た目は普通の女性である。


わざわざ、森の奥などで暮らしていると、逆に目立ってしまう。

だから、普通に街中に暮らしている。



やたら魔法を使って何かをする必要はない。


冷凍食品やネット通販、洗濯機や冷蔵庫、掃除機も勝手に掃除してくれるものが売っている。

無理に魔法を使う必要など、ないのである。


ただ、移動とか、手が塞がっているときにものを動かすとか、スケベな男に言い寄られた時にぶっ飛ばすとか、まあ、色々便利に使っている。



料理など、魔法でチョイ!っとやってしまいそうだが、残念ながら愛情を上回る事は出来なかった。

仕方が無いので、愛する人や、愛する家族には、頑張って料理を作っている。



魔女に共通しているのは、みな、美人と言う事である。



魔女の亜種に「鬼女」がいる。

日本だけの固有種と思われたが、魔女の突然変異の亜種らしい。



鬼というと、赤ら顔で大きいとの伝承がある。

多分、日本海で遭難した白系ロシア人をみた昔の人が、そう思っただけである。



しかし、日本全国に鬼女、山姥、般若・・・と女の鬼の伝説が多い。

ヨーロッパでの魔女伝説と一緒である。



鬼、鬼女は存在する。


鬼女も、ヨーロッパの魔女と一緒で、かつては森の奥や山の奥に暮らしていた。


しかし、自分達を目立たなくする方法を思いついた。

人混みに紛れれば良いと。



魔女と一緒で、鬼女も恐ろしい顔をしていると伝わっている。


恐ろしい顔は、怒ったときの顔である。

人間と一緒である。

怒った顔は恐ろしいのである。



人間でも、常に怒った顔のままでいるのは難しい。

鬼女も魔女も同じである。


普段は人間と変わらない。

美人である。

だから怒った顔が恐ろしい。



よく、魔女が呪文を唱えて魔力を使うと言われているが、本当の魔女はそんな間怠っこしい事はしない。

呪文を唱えなければいけないような者は、魔法使いであって魔女では無い。

やりたいことを思い浮かべて、指示するだけである、、自分の魔力に。


ただ、指を鳴らすのは「格好良い」ので流行っているのである。






すみれは魔女である。


両親は医者で、東京で大学の付属病院に勤めていた。



すみれは幼い頃は、普通の目立たない子供だった。


中学生になってから目立ってきた。

美人になってきたのである。

もともと可愛い子供であったが、それにプラスアルファされたのである。


運動神経も良かった。

他の魔女は体育や運動会で、目立った行動をしたが、すみれは目立つのが嫌いだった。


ノンビリと生きていくのが好きだった。




高校、大学と進学した。


何となく大学に行った。

将来の目標が分からず、適当に英文科に行こうと思ったが、文学部って? と思ってしまった。

つぶしがききそうな法学部に入学した。




美人で可愛かったので、沢山の男子学生に誘われた。

みな、スケベ心が丸出しで、話しかけられても無視していた。



すみれは普通の魔女ではなかった。

人の心を読めたのである。

そして、相手の本音を喋らせる事が出来たのである。



やたらシツコイ男子学生がいた。

すみれが無視すると、近くにいた他の女子学生に声を掛けた。


すみれはその男子学生に向かって指を鳴らした。



すみれが指を鳴らすまでは、大人しく「お茶でもしませんか?」と話しかけていた。


指を鳴らした途端、口調はいやらしくなり、ヨダレを垂らしながら大きい声で話し出した。

「俺とホテルにいって、セックスしようぜ。 俺、中出し大好きでヨ、避妊なんてしたことねえんだよな。」


話しかけられた女子学生は、悲鳴を上げ、持っていた鞄で思いっ切り男子学生を殴った。


男子学生の声はかなり大声だったので、周りの女子学生達だけでなく、男子学生達も驚きの表情で後ずさりし始めた。



近くにいた大学の警備員が、その男子学生を羽交い締めにした。


羽交い締めにされた男子学生は、自分で喋るのを止められなかった。

自分の思っていた事を大声で叫んだ。

「お前らだって、俺と同じで、女を口説いて、やっちまおうとしてるじゃね~か!」



男子学生は、応援に来た警備員に腕を掴まれて警備室に連れて行かれた。



「ふん。」

すみれは、ボウゼンとしたままの学生達の間をぬって図書館に向かった。


「大学って、勉強するトコだろう?」

そう呟いて、来週の講義資料を開いた。



常に人の心を読んでいる訳ではない。

そのつもりになれば読めるのである。


四六時中、他人の本音が分かったら、頭がおかしくなってしまうからである。





すみれが大学のとき、ホワイトディーにチョコレートを渡された。



すみれは、バレンタインデーにチョコレートを渡したのは父親だけだった。

市販品の板チョコだった。


物凄く喜んでくれた。

「一番美味しいのは、このチョコレートだよ!」

有頂天になっていた。


もう少し高いのを買ってやれば良かったかな? そう思える程だった。




すみれは、ホワイトデーのチョコレートを渡された男子学生に言った。

複数の女子学生の記念日ににプレゼントを贈っている、マメの塊のような男だった。


「あなたに貰ういわれはないけど?」


「バレンタインデーの君の微笑みで充分なんだよ。」

歯の浮くような台詞だった。


バレンタインデー当日、すみれは里山を一人で散策をしていた。

こんなヤツに会ってもいなかった。


「今度、君の誕生日に君に合う素敵なカバンを買ってあげるよ。 ホテルのディナー付きでね。」


誕生日まで知ってやがるのか。

すみれは反吐が出そうだった。



顔も見た目も良い男だった。

スタイルも良かった。

残念ながら、女にだらしなかった。


すみれは小さく小指を立てた。

男の本音が聞こえてきた。


「チョロいな。 女なんてこれでイッパツだ。」


直ぐにすみれは男に言った。

「あそこのゴミ箱に、これ!、捨てていい?」


「え?」

男は驚いた顔をして、何も言わずにいなくなった。




すみれは、紙袋にチョコレートの箱を入れて、グルグル振り回しながら、友達のところに行った。

男友達は殆どいなかったが、女友達は沢山いた。

少し、変わった女性が多かったが・・・



すみれが会いに行ったのは、情報科学科で、コンピュータープログラミングを専攻している女子学生ルミだった。

同じ造りなのに、華やかな文化系の建物ではなく、理工系の殺風景な建物の中の、部屋の入り口に「男子禁制」と大きく看板が下がっていた。

研究室という名のルミの遊び場だった。


担当の教授たりとも、男は勝手に入れなかった。

センサーで繋がったドアノブは、男が触ると電流が流れた。


最初の頃は、電圧の初期設定を間違えて、教授が扉の前で気絶していたこともあった。



ルミはお堅い女性であったが、「浮気監視システム」という、アプリを開発していた。



理工系は女性が少なく、美人は少ないと思われていた。

実際は、化粧に興味がなく、化粧をしても下手で、容姿に無頓着なだけだった。

磨くと光り輝く「原石」であったが、本人も、周りも気付かなかった。



「紅一点」に近い状態だった為か、空いた机の上に沢山のホワイトディーの貢ぎ物が乱雑に乗っていた。


すみれはあきれ顔で聞いた。

「バレンタインデーに、沢山義理チョコでも配ったの?」


ルミは言った。

「知らない! 何もしないのに部屋の前に積んであった。」

「ははは・・・ 置き配だね。」


すみれは数で負けた気がしたので、残念そうに言った。

「私の戦利品は一つだけど、一緒に捨ててくれる?」

実際は沢山貰ったのだが、その都度ゴミ箱に捨てていたので、残っていたのは一つだけだった。


ルミはちょっと真顔になって言った。

「ちょっと、それ! 結構、高級品だよ。」


すみれは怪訝そうに言った。

「何でそんなに詳しいの?」


「ほら、一つ一つに付箋紙が貼ってるでしょう。 金額を調べたのよ。」


「ヒマね。」


「データベース作ったら面白くて。」



「確か、格好良さそうな男子学生のスマホに、ルミが連絡先アプリを配ってたって噂になってたわよ。」

「最初は、ルミだって直ぐに気付かないほど厚化粧だったって・・・」


「あ~、、多分それをバレンタインデーのチョコ代わりと思ったのね。」

「実際は「浮気監視システム」アプリの動作確認版なんだけどね。」


ルミは大きめのパソコンディスプレイに、大学を中心にした地図を写しだした。


「すみれにチョコを渡したヤツは、これ! この光ってるヤツ。」

「場所は分かるけど、映像は見えるかな?」

「あ! やったね! 映ってる。 胸ポケットにスマホ入れてんだ。」


「音声は聞ける?」


男の声が聞こえてきた。

「今度、君の誕生日に君に合う素敵なカバンを買ってあげるよ。 ホテルのディナー付きでね。」


「あ! あたしに言ったのと同じ台詞。」


画面に男をひっ叩く女学生が映っていた。

女学生の大声が聞こえた。

「この前、私の友達にも同じこと言ってたわよね。 サイテ~!」


ルミとすみれが同時に言った。

「この男! すげ~バカ!」






すみれは就職をどうしようか悩んでいた。

自分の魔女の能力を使って弁護士になろうかとも考えていた。



分からないけど、何かが違う。

そう考えているうちに、周りの友達は就活に成功し、内定をもらったと大騒ぎしていた。



両親とも医者だった。

すみれが大学に入る前に、両親は大学病院を辞め、地元である長野で親の後を継いで開業医を始めた。



すみれは大学生の時は一人暮らしだった。

両親と暮らしていたマンションにそのまま住んでいた。


弟もいたが、東北の大学の医学部に入学していた。



一人しかいないので、マンションは広すぎた。

何故か、一人でも、別に寂しくなかった。


勉強は好きだったし、趣味は町歩きと里山の散策だった。



就職したとの連絡がないのを心配した両親から連絡があった。


父親からはこう言われた。

「お前の実力なら、医療事務の資格は直ぐに取れる。長野に来ないか?」


母親からはこう言われた。

「取り敢えず、医薬品会社の担当者に話を付けておいたから、連絡してみてね! ただ、魔女だって事は分からないようにしなさいよ。」

「お前なら、大丈夫だろうけど。 はっはは・・・」

母親は娘の性格をよく知っていた。

だからか? 強引だった。



医薬品会社に対して医者からのお願いである。

エントリーシートを送って、ペーパーテスト、そして面接が終わり、直ぐに内定を貰った。

ただ、大学の成績も良く、ペーパーテストもほぼ満点。面接もそつなくこなしたので、コネなどは必要なかったのかも知れなかった。


親の手前もある。

1年間はここで働いてみよう、そう誓った。




就職したすみれは、会社の帰りに渋谷を歩いていた。

一人だった。


ちょっと先にベンツが停まっていた。

女の子に人気のごついGクラスだった。


二人組の男達がいた。


すみれは見覚えがあった。

同じ大学の1年上で、親のお蔭でやっと卒業出来たと噂されていたバカ二人だった。

それぞれの両親は不動産業で、結構あくどい事をやっていると業界紙に書かれていた。


すみれは目を合わせないように通り過ぎようとした。

すみれは、こういう男達がノウノウと生きている事が許せなかった。


しかし、バカ二人はすみれに気が付いた。

「よう! 大学卒業して以来じゃねえか。 一緒にドライブしようぜ。」


一人は運転席に飛び乗り、もう一人がすみれの腕を掴んで車に連れ込もうとした。


すみれが魔力を使って、腕を掴んだ男だけでなく車ごと叩き潰そうと思った。


その時、すみれの身体が宙に浮いた。

そう感じた。

実際は作業服を着た男に抱きかかえられていた。



作業服の男はすみれの腕を掴んだ男を蹴飛ばした。

蹴飛ばされた男は車の中に吹っ飛んでいった。


その男の手が車の外に出ている時に、作業服の男は車のドアを蹴飛ばして閉めた。

嫌な鈍い音がした。

骨が砕けた音だった。


ドアが閉まったと思ったもう一人の男は、車を急発進させた。

ウインカーなど出すはずもなかった。

車の列に突っ込んで行ったのである。



俺の車はベンツだ!

いつもそう思って強引な運転をしていた。

当り前だと思っていた。

本当は、頭が悪いだけだった。



金曜日の渋谷、夕方7時である。

沢山の車が走っていた。

渋滞も発生していた。

渋滞で並んでいた清涼飲料を運んでいる車に、バカのベンツは派手にぶつかった。



近くに駐車違反を取り締まっていた警察官数人が走ってきた。


警察官達は交通事故として扱うつもりだった。



しかし、近くにいた女子高生の団体が、騒ぎ出した。

「このお姉さんを誘拐しようとしてました。」

「私たちにも、イヤラシイ言葉で誘ってきました。」

「私は腕を掴まれました。」

「私は胸を触られました。」

「私はスカートをめくられました。」

「この男達は変態です。」

「こいつらは痴漢です。」

「社会の敵です。」

「死刑にしてやってください。」

大騒ぎだった。



物凄いことになったなとすみれは思った。

そう思ったら、すみれを抱きかかえていた作業服の男は、すみれを立たせるといなくなった。


作業服なのに汗臭さはなかった。

ちょっとはにかんでいる様であった。

でも、優しかった。

物凄く優しかった。

もっと抱かれていたいと思った。

首に手を回していたら、そのままでいられたのかな?


顔は近過ぎてよく分からなかった。

ただ、胸に付いていたネームプレートの名前の一部を覚えていた。

名前の一部、不思議なことに名前の振り仮名だけを覚えていた。

「ゆたか」と書いてあった。



女子高生の団体と渋谷警察に行った。

すみれが自分で喋らなくても、女子高生達が、詳しく説明してくれた。



やっと、家に帰った。

折角、渋谷で何か食べようと思っていたが、コンビニ弁当になってしまった。


メンドイ事は嫌だな。


そう思ったすみれは、母親の友達が確か検察官だった事を思い出した。

時間が遅かったが、電話してみた。



すみれの母親の友達で、旦那さんは弁護士で、事務所を開設していた。



「どんな事? 詳しく話してくれない?」

名前は真佐子である。

娘が二人いる。


すみれもすみれの母親も魔女である。

真佐子と二人の子供は鬼女であった。

何故か魔女のすみれの母親と、鬼女の真佐子は親しかった。



警察で女子高生達が話していた内容と同じ事を説明した。



「ちょっと待ってね。」

パソコンのキーボードの音がした。


「あ~、 そいつら、執行猶予中だね。」

「だけど、別件で今度裁判があるらしいんだよね。」

「どう! 一緒に傍聴しない?」

「あなたの力を、見てみたいんだよ・・・」


すみれは断りたかったが、真佐子の有無を言わせぬ声の凄みに負けた。


「その代わり、調べて欲しいことがあるんですけど。」


「良いわよ。明日、うちの事務所にいらっしゃい。」




いつもの様に、ベッドで眠ろうとした。

いつも一人である。

寂しいなどと感じた事はなかった。


目を閉じると、渋谷で抱きかかえられた事を思い出した。

自分の両手で、自分を抱き締めてみた。

寂しさが湧き上がってきた。


「ゆたか」・・・誰なんだ?

名前を思い出したら、涙が止まらなかった。




翌朝、すみれは弁護士事務所の前に立っていた。

「へえ~、 思っていたよりも大きいビルだな。」

弁護士事務所は2階からで、1階は喫茶店、最上階が自宅のようだった。

喫茶店の横の階段から事務所に向かった。


1階上がるだけなので、エレベーターは使わなかった。


受付に真佐子の娘が二人座っていた。

今日は土曜日で学校はお休みのようだった。


直ぐに真佐子が現れた。

「いらっしゃい。 不思議なのよね。 この子達が初めての人が来たときにお迎えをするなんて。」


パソコンを扱い易い様に、応接室ではなく事務所に連れて行かれた。

二人の娘は高校生と中学生位のようだった。

すみれが事務用の椅子に座ると、二人はすみれの両脇に椅子を持ってきて座った。


真佐子が笑って言った。

「三姉妹ね。」

「お母さん、これからお仕事のお話があるの。 ちょっとだけ、席を外してくれるかな?」


下の子は文句を言っていたが、姉に連れられて、二人とも部屋を出ていった。

「そのまま帰ったら、嫌だからね! 終わったら一緒に遊んでね!」

そう言いながら出て行った。



「優しさと呪いの魔女か・・・ 凄いのね。」


「そんな事はないと思いますけど。」


「自分では気が付かないのね。」

「あの子達、朝から大騒ぎだったわ。あなたが来るって一言も言わなかったのに。」

「小学生とかじゃないのよ。 高校生と中学生。」

「優しさに飢えているのかしら? それだと、私は母親失格ね。」


「叔母様は、、絶対、そんな事はありません。」


「じゃあ、あなたの優しさが強過ぎるのね。」

「そういえば、ナオミって子、知ってる?」


「ええ、2番目に生まれた魔女で、最強の魔女と言われていますよね。」


「鬼女も一緒。 うちも二人とも女の子なの。 上の子はナオミちゃんと同い年で同級生、仲良しなの。」

「下の子は2番目の鬼女で、ナオミちゃんと一緒で、最強らしいわ。」

「それに、ナオミちゃんもうちの子も、人嫌いの筈なんだけど・・・」


「私も何度かナオミちゃんと会ったことがあります。 本当に妹みたいで可愛くて・・・」



「あなたの優しさの強さは分かったわ。 今度はもう一つの方。」

「あなたは、人の心を読めて、相手の本音を喋らせる事が出来るわよね。」


「はい。 意識さえすれば簡単です。」

「本音を喋らせる事も、黙らせる事も・・・」


「ねえ、 バイト料を払うから、裁判の傍聴席に座ってくれない?」

「例のおバカ二人組の裁判があるのよ。」



「交換条件で良いですか?」


「どんな事?」


「人捜しです。」


「何か手がかりはあるの?」


「下の名前が「ゆたか」、 それだけです。」



すみれは大きな日本地図を持ってきた。

隅に50音が書かれていた。


大きなテーブルの上に広げると、真佐子は5円玉を取り出した。


「こっくりさん みたいなものですか?」

すみれが聞いた。


「まあ、同じ様なものね。」


「10円玉とか、500円の方が効果があるとかじゃないんですか?」


「五円・・・御縁・・・ 分かる? 人を探すときはこれ!」



東京の位置に五円玉をのせた。


「さあ、あなたの指を五円玉の上に置きなさい。」

すみれが五円玉の上に指を置くと、五円玉は勝手に動いていった。


長野県の真ん中辺りで止まった。


真佐子が言った。

「穴の場所は何処?」


「松本です。」

すみれが言うと、真佐子は指を鳴らした。

地図は松本市の詳細地図に変わっていた。


真佐子はもう一度言った。

「穴の場所は何処?」


五円玉をどけて、すみれは言った。

「渚3丁目?」



今度は50音が書いてあるマス目に五円玉を置いた。

手を添える前に、五円玉は勝手に動き出した。


真佐子がペンとメモ用紙を用意してすみれに渡した。

「動いた順に書いていきなさい。」


一文字ずつ書いていくと、ちゃんと言葉になっていた。

「けんせつぎょうけいりじむし」


「建設業経理事務士、今から申請出せば受験出来るわ。 合格出来る自信が無ければ魔法でも何でも使っちゃいなさい!」

「ほら、まだ動いているわよ。」


「らいねんしがつにまつもとしにいる」

「来年4月に松本市にいるって、 ゆたかって人がいるんでしょうか?」


「そういう事ね。 占いなので、システムが古いのよ。未来は分かるんだけど、今現在はどうも、、ねえ!」


「充分です。 資格を取って、松本に移動して、絶対、ゆたかって人に会ってみせます。」


「あ! ちょっと待って。 会うんじゃなくて、一緒になっちゃうみたいだけど。 それでも良いの?」


「はい?  はい!!」



「じゃあ、裁判の傍聴の件、決まったら連絡するわね。」



「お姉ちゃん! 終わった?」

真佐子の下の娘、美智子が顔を出した。


「ねえ! 近くの川に散歩に行こう!」

そのまますみれは二人の鬼っ子に挟まれて、散歩に行った。


「お姉ちゃん、泣いてるの?」


「うん。 嬉しいことがあったの。」


「なあんだ。 お姉ちゃんを泣かすような奴がいたら、とっちめてやろうと思ったのに!」

美智子が言うと、姉の登喜子が注意をした。

「みっちゃん、手加減しないから。 本気出しちゃ駄目よ。」


「はははははは・・・」

三人で笑いながら歩いた。


ビルに戻ると、二人に言われた。

「お姉ちゃん、泊まっていってよ。」


「そうしなさい。」

真佐子に言われて、すみれはお礼を言った。

「有り難う御座います。 明日から、頑張って勉強します。」



久々の一家団欒を堪能して、すみれは帰っていった。



登喜子が言った。

「すみれお姉さんって、魔法を使わないんだね?」


「なんで?」

真佐子には、登喜子が言っている意味が分からなかった。


「だって、魔法を使えば直ぐに帰れるのに・・・」



すみれは出来るだけ魔法は使わなかった。

何でも普通の女の子がやるようにやってみたかった。


愛する人を探すのは、本当は急ぎたかった。

しかし、急がなかった。

自分の力で、愛する人に会いたかった。

出来るだけ魔法を使わない、自分の力だけで、愛する人に会いたかったのである。



すみれの気持ちは、真佐子に伝わっていた。

物凄く強い気持ちだったからである。


真佐子は思った。

だから優しさが溢れるのかな?





暫くして、真佐子とすみれは裁判所の傍聴席に二人は並んで座っていた。


被告席の二人のバカは、同じ事を繰り返していた。

「俺たちは無罪だ。 何もやっていない。」


双方の両親から頼まれた優秀な弁護士が付いていた。



バカの一人が証言台に立ったとき、すみれは指を鳴らした。


ちょっと大きな音で、裁判長も怪訝な顔をしていた。


真佐子はすみれを注意しようとしたが、証言台の男の話にそれどころではなくなった。


「全部、俺たちがやりました。」

「女を車に乗せて、服を脱がせて写真を撮って、SNSでお前の裸をみんなに見せてやるぞって言ったら、みんな黙ってくれました。」

「直ぐに女を犯して、それも動画に撮って、SNSに載せたり、DVDで売ったりしました。」

「二回目からは、女はみんな自分から股をおっぴろげました。」

「うちのオヤジ達みたいに金など払う必要がなくて、沢山金儲け出来ました。」

「ほんと、楽勝っすよ! 俺たち二人が主演してるんで、見てくださいよ!」

「あ! 女の顔はバッチリ映ってるけど、俺たちの顔はモザイク入りだ。 あはははは・・・」


バカの為にいる弁護士は顔に両手を当てたまま、動けなかった。


弁護士の隣に座っていたもう一人のバカが、大きな声でしゃべり出した。

「俺たち、覚醒剤もやってるんで、宜しく!」

「オヤジ達が不動産屋をやってるから、隠すとこが沢山あって、大ラッキーだよね!」

「今乗ってる車のスペアタイヤに仕込んでいるんだけど、誰も気が付かないもんだね~!」

「チョロい奴らばかりで笑っちゃうよ!」



真佐子が急に席を立って、扉の外にいる男達と話をすると、戻ってきた。

真佐子が座ると、バカ二人の親たちが席を立って出て行ったが、扉の外で何やら大騒ぎになっていた。

「証拠隠滅・・」とかの言葉が聞こえた。



真佐子はすみれに言った。

「もう良いわ。 止めさせて。」


「あいつら、もう壊れているから止まらないわ。」

すみれは、感情のない言葉で言った。


さらにすみれは言った。

「あいつらは、殺しているんだから。」


真佐子には何を言っているのか分からなかった。

「彼らは人殺しはしてないわよ。」


「人を殺したんじゃなくて、人の心を殺してしまったの。」

「被害者はみな、死んだ心か、傷だらけの心で、これから先、生きていくのよ。」



「おばさま、あいつらの顔を見て分からない? 笑っていないでしょ?」


「心臓の鼓動に合わせて、物凄い痛みが身体中を駆け巡っているの。」

「外科的な痛み、そんなものじゃないわ。 脳梗塞や心筋梗塞のような内側からの、悪魔のような痛みが。」



「あいつらの年齢なら、60年はず~っと苦しむのよ。」

「それ以上の苦しみを他人に与えたのに、へらへらと生かしてはおけないのよ。」



真佐子はすみれの目を見て恐れを感じた。

恐ろしかった。

「彼らに対する、沢山の人の呪いの手伝いをしてあげたの?」


「そうですね。」

すみれの顔は悲しげだった。




真佐子は、これが呪いだと初めて知った。


呪われた者は死ぬものだと思っていた。

まさか、死ねずに、呪われて苦しみ続けるものだとは、思ってもいなかった。


優しさの反対側がこれだとは思わなかったのである。



すみれが「優しさと呪いの魔女」だと言う事を、思いっ切り知った時だった。






大学を出て、親の勧める東京の企業に就職して1年間が過ぎた。


会社に退職届を出した。


あの人に会いたかった。


何としても、松本に行きたかった。


あの人に会うために。

幸せになるために。




予定通り、松本市の渚3丁目のアパートを借りた。



職を探している時、「建設現場事務」が目に留まった。

すみれは「建設業経理事務士」の資格を持っていた。

すみれは優秀である。

本当は弁護士になろうと思っていた。

少し頑張ったら、取得出来た。



すみれが務めたところは、官庁が民営化した建物で、規模の大きいビルだった。


庭の様な場所は材料等を置くスペースとされ、現場事務所はビルの屋上に設置されていた。


建築、空調、衛生、電気が分離発注で、それを管理する管理事務所の事務処理担当が仕事だった。


「総監督事務所」の事務担当であったが、総監督は新築工事に常駐で、模様替・改修工事には週1回の打ち合わせに来れれば良い方であった。

結果的に事務連絡要員としての仕事が多かった。




空調、衛生の各担当者は建築工事の所長と懇意で、建築会社社員寮に寝泊まりしていた。

別途発注の物件であったが、建築の所長が各設備会社に気の合う担当者を要求していた。

結果、松本市の物件を長野市に住む人間が担当することになったのである。


電気設備は東京からの転勤者が担当した為、事務連絡が上手くいかず、電気設備の担当者だけ住まいが別だった。



電気の担当者は松本は不案内で、不動産屋に勧められるまま「1戸建て」を選んだ。

年数が経っている物件だったため、アパートと金額的に変わらず、ちょっと現場からは距離はあったが、東京の感覚では「直近」だった。



何故か建築の所長は電気の担当者を気に入り、仕事の時でも、仕事以外でも、息子を扱う様に可愛がってくれた。




最初の顔合わせの会議の前に、すみれは確認した。

電気の担当者の名前が「ゆたか」だった。


顔は近過ぎて覚えていなかったが、作業服を着た姿、声、全て記憶の通りだった。


ドキドキした。

こんな気持ちは、生まれて初めてだった。



ゆたかは、すみれに気付いているのか、あまり目を合わせなかった。



本当はしたくなかったが、ゆたかの心の声を聞いてみた。

「可愛い子だな。 何処かで会った事がある子だな。 え~と渋谷だったかな?」

「そうだ! 渋谷だ! 確か完成検査の応援の帰りだ。」


「やった! 幸せが向こうからやってきた!」

ゆたかが右手でガッツポーズを作ったのを、すみれは見逃さなかった。



間違いなかった。

すみれは、嬉しさを堪えるので、精一杯だった。




工事が始まって暫くして、懇親会があった。

現場担当者達は車を運転するので控えていただけで、酒席は嫌いではなかった。

ただ、何かあれば長野に車で帰らなければいけないし、別に毎日飲みたいと思うほど酒好きではなかった。


施主側の監督員連中は、酒は大好きであった。

そんな訳で現場担当者達は、最初くらいは酒席を設けようと思ったのである。


懇親会は松本で開催された。

1次会が終わって、2次会という段になって、電気の担当者、ゆたかが抜けた。

酒に弱かった。

ビール、日本酒、ワイン・・・ちゃんぽんにしたのも悪かった?

ようは、飲み過ぎ、飲まされ過ぎだった。



建築の所長にすみれは呼ばれた。

「あいつ、酒が弱いんだよ。 帰りがてら見に行ってくれないか?」


すみれはもう少し飲んでいたいと思っていたが、「はい!」と答えてしまった。



もう、いないだろうと思って店から出たら、あいつを直ぐに見つけた。

あいつは、電柱に手をついて、必死になって立っていた。



あいつ、ゆたかの腕を掴んだすみれは、近くの喫茶店に入った。

夕方からはアルコールも提供する店だった。



ゆたかを座らせて注文した。

「コーヒーふたつ。 ホットとアイス!」


運ばれてきたアイスコーヒーをゆたかは飲み干した。

飲んでグラスを置くと、目を閉じた。


「寝ちゃ駄目!」

すみれが言ったが、遅かった。



すみれはホットコーヒーを飲み終えた。

ユックリ飲んだのだが、ゆたかが起きる気配は無かった。



すみれはビールを注文した。

コーヒーだけで何時間も粘る客に比べれば「上客」である。

おつまみにナッツも注文した。


ジョッキのビールは直ぐに無くなった。

やはり、ビールをチビチビ飲んではいられなかった。


仕方が無いのでチビチビ飲めるものを注文した。

「ハイボール! 濃いめで!」



おつまみのナッツは殆ど無くなっていたが、追加のおつまみは要らなかった。

ゆたかの寝顔を見ているだけで、十分だった。



ハイボールが無くなる頃、ゆたかが目を覚ました。

ぬるくなった水を飲み干すと、伝票を掴んですみれに言った。

「ごめんね! 付き合わせて。」



ゆたかが顔を近づけたので、すみれはドキッとした。



ゆたかが会計を終えると、二人で並んで帰った。

本当はゆたかと手を繋ぎたかった。



すみれは思い出した。

ゆたかの住んでいるのは松本駅の先の国道側だったと。



駅を過ぎて暫く行くと、ちょっと大きい橋があった。

橋のたもとで、ゆたかが言った。

「もう、ここからは直ぐなので、大丈夫です。」

「今夜は、有り難う御座いました。」


ちょっとふらつきながら、手を振ってゆたかは歩いて行った。



すみれは言おうと思った。

「あたしも同じ方向なんだけど・・・」




橋の欄干に背中をあずけ、すみれは空を見ていた。

星でも月でもなかった。

ゆたかの寝顔を思い出していた。

「ふふふ・・・ 可愛かったな。」


顔を戻すと、笑っていた筈なのに、何故か涙がこぼれた。





仕事はチームプレーである。

仕事仲間の仲が良いのは優れた要素で、皆が他業種の仕事も気に掛けている為、工事の進捗のみならず安全面でもよい方向に進んだ。



施主側のお客さんとも仲良くしなければいけない。

ビル側の総務部門との親睦会を開催した。



以前、長野で同じ会社所有のビルの模様替工事の際、親睦会で野球をする事になった。

軟式野球であった。

しかし、実業団のチームを持つ会社である。

負けるわけには行かなかったのであろう。

ピッチャーに実業団OBが出てきて、コテンパンだった。



そんな訳で、親睦会はボウリング大会となった。

ボウリングなら互角だと思ったのである。



結果は業者建築グループの完敗。

敵は「マイボウル+マイシューズ」の猛者ばかりだった。



結果、それ以降は付け届けはするが、親睦会はやらなくなった。




ゆたかは酒に弱かったが、コーヒーは好きである。

ビルの周りの殆どの喫茶店にコーヒー券を預けていた。


工事対象の客先部署との打ち合わせは重要である。

打ち合わせは原則、会議室を借りたが、ザックバランに話す事も必要であった。

部署担当者を連れて喫茶店で打ち合わせをする事もあった。

支払いの段になり、客の方が割り勘と言い始めたところで、「コーヒー券があります。」と言うと引き下がってくれた。



ある日の昼休みが過ぎた時間帯に、ゆたかが喫茶店に行くと、ビルのメンテナンス担当と会った。

趣味が一致したのか、仲が良かった。

そんな時もコーヒー券の効果は絶大だった。

コーヒー券が入っているというと、気軽にご馳走になってくれた。

当然、季節ごとの付け届けは忘れなかったが、日頃の細かい積み重ねは重要である。



人間だからミスを犯す。

大きいものなら仕方が無いが、小さい場合は「気持ち」の問題でオオゴトに発展しかねない。


電話線の切断事故が起きた。

施工前のチェックミス(忘れ)である。

緊急用の電話回線では無かったが、総務担当者の一人が怒りだした。


その時にビルのメンテナンス担当が現れ、瞬時に電話回線を復旧させた。

メンテナンス担当は言った。

「何も無かったよな!」


怒っていた総務担当者は何も言わなかった。

言えなかったのである。

ビルで何かあれば、毎回無理にでもメンテナンス担当にお願いしている総務担当者であった。


ゆたかが総務の部屋の前にいると、部屋から出てきたメンテナンス担当の男はゆたかの肩をたたき、ウインクしていなくなった。




仲の良い現場で、レクもよく行った。


普段は飲み会をしなかったためか、バーベキュー大会が多かった。


建築、各設備の担当者連中は、長野からの単身赴任者であった。


土日は長野に帰って、家庭サービスをする者達ばかりだった。

ただ、自分達の田圃や畑を持っている者が殆どで、帰ると農作業も忙しいらしかった。



そんな事もあり、レクは土日では無く平日に開催した。



レクを楽しくする為、レク前までの仕事の進み具合は驚く程であった。



今回のレクはゆたかが幹事で、仁科三湖のキャンプ場でのバーベキュー大会となった。


早朝、現場の近くの道路に車で集合。


ゆたかは中古ではあったが、フェアレディZで出席した。


「流石、独り者は良い車に乗ってるなあ~。」

「しかし、無駄だよな。 こんな排気量で2人乗りは。」

他の人は、ワゴンか、ワンボックスだった。


「独り者には独り者だ!」とすみれが助手席に座らせられた。

女性はすみれだけではなかったが、皆、結婚していた。



すみれが助手席から顔を出して言った。

「じゃあ、出発!」


松本市内から国道19号、国道147号を走り、国道名が148号に変わった。

千国街道(糸魚川街道)と呼ばれている国道である。


信濃木崎駅に近づくとき、左側の物陰から警察官が急に現れた。


車を7~8台連ねていて、先頭はゆたかのZだった。


警察官の「団体さん、ご一行!」の声は忘れられないものとなった。



Zの助手席にいたすみれが思わず言った。

「豪華デート、1回分がパーになった!」


すみれは慌てて口を押さえた。

思わず、自分の本当の気持ちを喋ってしまった。

ゆたかが車を降りた後で、本当に良かったと思った。



「やっぱり、Zが先頭だと狙われるよな?」

そんな声にゆたかは謝ってばかりだった。


速度違反の手続きを終えて、みんなに謝って回るゆたかが戻ってきた。


「本当にご免ね。」

少しうなだれたゆたかに、追い打ちを掛けたくなかったが、どうしても口が尖っていたようだった。


走り出して、チラチラとすみれを見るゆたかに気付いたが、黙っていた。


「そんなに口を尖らせていると、戻らなくなっちゃうよ。」


「うるさ~い!」


目的地に到着するまで、すみれは横を向いたままだった。




Zの車内とは関係なく、順調に青木湖のキャンプ場に到着した。



建築の所長から、美味しい発表があった。

「出だしから、色々ありましたが、今日はみんなで楽しみましょう!」

「レクをやると言ったら、メーカーさんから差し入れがありました。 高級牛肉!」


「おお~~!」

レク出席者全員の雄叫びが上がった。


何せ、プロが揃っている。

鉄板も、焚き付けの木材も、机や椅子、何でもかんでも。

特に鉄板は使い込まれており、油が染み込んでいるのか、焼き具合が良い。


合羽橋でも見ないような大きな鍋が登場し、キノコ鍋が作られる。


運転する者は立候補か、くじ引きで外れの者達だった。

アルコールOKの連中は、大盛り上がり。


ゆたかは立候補側で、鉄板の前で「焼き」担当であった。


すみれはアルコールOK側だったが、若手なので、焼けた牛肉や焼きそばを運んでいた。

ゆたかに近づいた時に言った。

「次は二人で来る?」


「うん。」

ゆたかのドキドキは止まらなかった。



野外での大宴会は終了となり、恐ろしいほどの段取りの良さで、片付けが終わった。



帰りも助手席はすみれであった。


何か話さないと、焦ったゆたかは逆に何も話せなかった。


すみれもゆたかの横顔をたまに見る程度で、何も話さなかった。


現場近くの道路で解散。

軽くクラクションを鳴らして、一人で帰った。

ルームミラーに、手を振るすみれが見えた。




各職方も地元の人間が多く、建設会社社員寮から来ている者も、皆、昼食は弁当を持ってきていた。

昼食に弁当を持ってきていなかったのは、すみれと電気の担当者のゆたかだけだった。



ゆたかは12時少し前に屋上の事務所から、建物の階段を降りて外に出た。

木曜日である。


現場近くに有名なラーメン屋がある。

夏休みとして2週間以上、登山に出掛けるため休業する強気の店だったが、人気があった。



前を歩く女性に気が付いた。

ゆたかは、知り合いであれば、歩き方だけで誰だか分かる男だった。



ちょっと小走りに女性に近づき、声を掛けた。

「何処にいくんですか? 昼食なら、この先のラーメン屋に行きませんか?」


ゆたか憧れの美人のすみれであった。

声を掛けてから思った。

嫌な顔をされたらどうしよう?


すみれは少しだけ驚いた顔をしたが、にこやかに言った。

「え~! 行ってみたい。 行きたかったんだ。」



二人で楽しい事を喋った筈だったが、ゆたかは嬉しくて覚えていなかった。




ゆたかがまだ、東京の本社にいたとき、可愛い子がいた。

奥手のゆたかにしては、頑張ってアタックした。

言われた言葉はこれだった。

「長野に転勤したら、そっちで見つけたら。」

総務所属の女性だった。

まだ発表されていない人事情報を知っていた。


部署異動はそれ程早くには発表されないが、転勤は準備もあるので早めの内示が行われた。

それから暫くして、女性の言う通りの人事異動の内示があった。


総務の子と付き合えなくて良かったと、ゆたかは思った。

こんな素敵な子と、会えたのだから。




ラーメン屋は客の回転が良く、二人並んで座れた。

「ワンメン大と・・・何にする?」

「野菜ワンメン!」

注文は決まった。


鶏ガラでとったスープ、縮れた麺。

美味かった。

スープまでは完食しなかったが、二人とも満足だった。


ゆたかが二人分を支払って店を出ると、すみれが待っていた。

「いくらだった?」

そう言って財布を出したすみれに言った。

「デート代だから俺持ち!」


「うふふ・・」っとすみれが笑った。


可愛かった、物凄く。

ゆたかは幸せでイッパイだった。


「ごちそうさま。」

優しいすみれの言葉も可愛かった。


二人で仕事場に戻っていった。




ある日の帰り際、ゆたかはすみれをコーヒーに誘った。

微笑んで一緒に来てくれるすみれに、ゆたかは嬉しくて涙が出そうだった。


夕食時に喫茶店。 失敗したかな? とゆたかは思った。


「何か食べる?」


「私が注文していい?」


「うん。」


「ビザトースト、二つ。 あと、ナポリタン大盛りで。 取り皿も二つください。」

「あと、ホットコーヒー、二つ。」


「二人分?」


「どうだ! サラダ付きだぞ。」

すみれの声は、ゆたかを幸せにしてくれた。


「コーヒーでいいの?」


「じゃあ、、すいませ~ん! ビールもください!」


ビールは直ぐに運ばれてきた。ゆたかの前に。


店員さんにゆたかがすみれを指さすと、おつまみのナッツと一緒に、すみれの前に移動していった。


ゆたかが笑いながら言った。

「お嬢様、お待たせ致しました。」



何気ない会話をしていた。

しかし、ゆかたはすみれに聞いてみたいことがあった。


「もしかして、以前会った事があるよね?」


「もしかしないわよ。」

「渋谷であなたに助けられた。」


「やっぱり、あの時の可愛い子は君だったんだ。」


「褒めてくれて、ありがとう。」

「どうして、直ぐ、いなくなったの?」


「流石にあそこで、君の名前や住所は聞けなかった。」

「でも良かった。 君にまた会えて。」


「え?」


ゆたかはそれ以上、渋谷での話はしなかった。



喫茶店の前で二人は別れた。

その日はそれで終わった。




次の日の昼、12時前。

総監督事務所と現場事務所の境の扉が開いた。


現場事務所側では、早めに弁当の準備をしている者もいた。

扉から顔を出したすみれが言った。

「おい! 独り者! 弁当、作ってきてやったぞ。」


ゆたか以外は妻帯者だった。


「よかったな~」

と言って泣く真似をする者がいた。


「どんなにマズくても、美味い! って言うんだぞ。」

そう言ってはやす者もいた。


すかさず、すみれが怒鳴った。

「誰だ? 今言ったのは?」


「お~! 怒ったすみれちゃん、、可愛い!」

すみれは、みんなのアイドルだった。



二人で、総監督事務所で弁当を食べた。

茶色ではなく、色とりどりの美味しい弁当であった。


「美味しかった。ありがとう。」

使った弁当箱を洗いに行こうとした。

「私が洗っておく。 また作ったら食べてくれる?」


ゆたかは嬉しくて頷く事しか出来なかった。



町のど真ん中の現場である。

近隣住民と近隣商店主との話し合いで、工事は午前8時に開始して午後5時には片付けを含めて完了させる約束がされていた。



今日は金曜日である。


現場担当者連中は、妻帯者で長野市から単身で来ている者達だった。

週末の金曜日は、単身者は長野市に素っ飛んで帰るのを常としていた。


みな、午後5時にはダッシュでいなくなった。



午後6時近くまで仕事をしていたゆたかは、片付けを終えて戸締まりをしていた。

気が付くと総監督事務所にも電気が点いていた。


「帰るよ~。」と声を掛けてみた。


「は~い! 今、鍵を掛けま~す。」

すみれの声だった。



二人でビルの守衛に鍵を渡した。



「今日はごちそうさま。 じゃあ来週!」

そう言って別れる筈だった。



二人の帰り道は同じ方向だった。


二人で並んで歩いた。

ゆたかのそんなに面白くもない話に、すみれは笑ってくれた。



急にゆたかは黙った。

「こんなに美人で可愛い子だから、彼氏はいるんだろうな。」

そう思ったら、声が出なくなった。


「どうしたの?」

優しいすみれの声が一層ゆたかを悲しくした。



以前、酔っ払ったゆたかがすみれと別れた橋に差し掛かった。

ちょうど橋を渡った先に焼き肉屋があった。


ゆたかはちょっと掠れた声を絞り出した。

「昼食のお弁当のお礼に夕食をご馳走するよ。 そこの焼き肉屋さん、美味しいらしいよ。」


「うえ~い! 焼き肉、焼き肉!」

すみれはゆたかの手をとると、焼き肉屋の扉を開けた。


金曜日であったが、テーブル席に余裕があった。

外側から見るよりも奥があり、内側の広い店だった。



二人で席に着くとすみれが店員さんを呼んで注文した。

「牛タン塩、カルビ、ロース、2人前ずつ。」

「私はビールだけど、どうする?」

「ぼ、僕はノンアルコール・ビールで。」

「おねがいしま~す。」


ノンアルコールとビールのジョッキがぶつかって乾杯となった。



牛タンを焼きながら、ゆたかは思い切って言った。

「付き合っている人はいるの?」


「いる」と言われたら、ゆたかは本当に泣きそうだった。


「どう思う?」


そうすみれに言われて困った。


それでもゆたかは言ってみた。

「こんなに美人で可愛い子に、いない筈はないよね?」


その後に話す言葉は、ゆたかには残っていなかった。


焼き肉屋なんかに誘わなければ良かった。

そんな思いばかりがゆたかの頭の中を渦巻いていた。



「じゃあ! あたし! 可愛くないんだ。」

ちょっと顎をしゃくる様なすみれのしゃべりだった。



ゆたかには予想外の言葉だった。

「いや! 可愛い! 凄く可愛い! 本当に可愛い! 物凄い美人だし・・・」

必死だった。

物凄く嬉しかった。



「今度、同じこと言ったら、許さないぞ!」

すみれの半笑いにほっとした。



ゆたかは安心したら食欲が出た。

「白飯、ください。」


ゆたかが焼けたカルビをのせて食べる前に、すみれが自分の口を指さした。

「あ~ん!」と大きく開けた口にカルビをのせたご飯を入れた。


「う~ん! これも捨てがたい!」

そう言いながら、すみれはジョッキを持ち上げおかわりを注文した。



カードで支払いをしてゆたかは店を出た。

「ごちそうさまでした。」

外で待っていたすみれが深々と頭を下げた。


「いや、とんでもない。 すみれさんと一緒に食事が出来て、最高でした。 ありがとう。」


「じゃあ、今度は上カルビと上ロースね。」


「お、おう!」


「ボーナスが出てからで良いわよ。」



すみれがゆたかと手を繋いで道を進む。

何故かどこまで行っても同じ方向であった。


「僕、渚3丁目だけど。 君は?」


「私も渚3丁目。」


「同じじゃない?」

二人で同時に声をあげた。



ちょっとゆたかの1戸建ての方が近かった。

ゆたかが鍵を開けると、すみれが先に入っていった。


「1戸建ての方が広いなあ~。」


「3部屋あって、1部屋余ってるんだよね。」


キッチン流しの前に用意してある、ダイニングテーブルの椅子に座って、向かい合って話をした。


「ふ~ん。 結構片付いているのね。」


「うちで何もしないから・・・ 洗濯くらいかな?」


「掃除してる?」


「い、いや、 たまに・・・」


「今度、してあげようか?」


ゆたかはドキドキして言葉が出なかった。



「明日、長野の営業所に書類を持って行くんだ。 夕方には帰って来るけど・・・」


「ふ~ん。 じゃあ、あたし帰るね。」


「送っていくよ。」


「だ・い・じょ・う・ぶ・・・」


ゆたかはそれでもすみれをアパートまで送っていった。

20mも離れていなかった。


2階建てのアパートで、2階の真ん中辺の部屋だった。

ゆたかは2階には上がらず、少し離れたところで、扉が閉まるまで手を振った。



いつもは一人で寂しくなかった。

今日は、自分の家までの20mは寂しかった。


何よりも寂しく悲しかったのは、すみれと手を握った感触が残っていなかったから。

柔らかかった筈であった。

温かかった筈であった。

優しかった筈であった。


何も覚えていなかった。

手を握っても思い出せなかった。


上を向くと、流石は長野、星が綺麗な筈だったが、滲んでよく見えなかった。




ゆたかは酒席の雰囲気は好きだが、酒は殆ど飲まない。


世間も変わって、昔の建築業界の様に、酒を強要する事はなくなった。

それに、無駄に真面目な性格だった。

食に拘る事もなかった。

女性との付き合いがなかったのも功を奏したのか、お金を使う事がなかった。


折角だから、今だけだからと思って、長野に来て二人乗りの車を購入した。

中古だが、結構程度のよい、2シーターのフェアレディZである。




一度東京の実家に行くとき、車に乗って帰った。

マニュアルシフトで渋滞には不向きかなと思っていたら、2速でクラッチ操作だけの「オートマチック」走行が可能であった。


父親が乗ってみて言った。

「クラッチ操作、楽勝じゃないか。 回転数を合わせる必要がなくなったんだなあ。」

「これなら、オートマで十分だと感じるんだろうな・・?」

寂しそうだった。




翌朝、ゆたかは長野市の営業所に向かった。


近頃は松本から長野まで国道19号線を使っていた。

高速道路が出来てから、車両数が減って走りやすくなっていた。


以前、長野道を使ったら楽しくなかった。

早くに目的地に到着したが・・・


今回も長野へ行くのには、19号線を使った。

楽しくなかった。

一人だったから?

寂しい時間を少なくしたくて、帰りの松本へは長野道を使った。



ゆたかが松本の家に着くと、家の電気が点いていた。


しまった、消し忘れたのか?


家の扉の鍵を開けようとすると、開いていた。


玄関にスニーカーが置いてあった。

ゆたかのものではなかった。



「わ! 驚いた?」

すみれがいた。


「駄目じゃない! 鍵も掛けないで出掛けちゃ!」


「ご、ご免。」

「何か、家の中、綺麗になってない?」


「片付けてあげた。」

「ついでに私の荷物も運び込んでおいたわ。」


「え?」


「経費節減。 1部屋空いていて勿体ないじゃない。 シェアしよ。」

「3部屋のうちの1部屋と共用部分で、家賃の「5分の2」でよくない?」



「ちょっと待って! 考えが纏まらない。」

ゆたかは、ダイニングテーブル前の椅子に座って考えた。



「家賃は長野からの出張扱いで、会社持ち。」

「だから君が払う必要はないよ。」

「電気・水道関係は僕が支払う。」


「私は?」


「家事は好き?」


「嫌いじゃない。」


「じゃあ、家事やってくれる? ただ・・、なんで女性ばかりが家事をやるの? って怒られると困るけど。」


「ふふふ・・・ 忙しいときはお願いね。」


「勿論!」


「あと、食費は俺でいいや。」


「じゃあ、後はその時点で調整しましょう。」



一応の決着だった。

ゆたかの心の中には、シェアとはいえ、普通の住宅に男と女が一緒に暮らして良いものかとの疑問が残った。


「あと、ベッドは私が使ってもいい?」

不動産屋が、ほぼ未使用だが買い手が付かず処分に困っていた格安のダブルベッドであった。


「ああ! 構わないよ。」



すみれは、ゆたかに一緒にベッドを使おうと言われても良いと思っていた。


ただ、ゆたかの性格も知っていた。

そんな事は絶対に言わない、真面目な男であると。




その日、その時から不思議な共同生活が始まった。



「夕飯、食べた?」


「まだ。」


「駅前ならまだお店やってるから、行こうか?」

「車で行く?」


「歩きで行く!」



手を繋いで駅に向かった。

ゆたかはちょっと前にも手を繋いだが、今回は本当にすみれの手の優しさを感じた。

こんなに女の人の手は柔らかいのか。

忘れたくなかった。

絶対に忘れない!


「男が女性を守るのは当り前だな」とゆたかは正直に思った。



アルプス口から駅に入った。


まだ列車が来るのか混雑していた。

駅前ロータリーの方から出て、豆腐専門店の看板を見つけた。


「お豆腐! 健康志向じゃない? 行ってみよ!」


コースを頼んだ。材料が豆腐の所為か高くない。


「飲んでいい?」


「僕が連れて帰れる程度なら。」


「ビール! 生! 大っきいヤツ!」


「美味しそうに飲むね~! 見てるだけで幸せになるなあ~!」


帰る場所は一緒。

すみれは安心して飲み続けた。




すみれは夜中に目が覚めた。

喉が渇いていた。


どうやって帰ったか、何となくしか覚えていなかった。



ゆたかと仲良く手を繋いで、途中から腕を組んで帰って来た。

腕を組んだとき、すみれの胸がゆたかの腕に当たった。

何かを話しながら歩いていた筈だったが、腕を組んでからはすみれの一方通行になっていた。

ゆたかの顔を見たとき、何か我慢をしているのは良く覚えていた。



ベッドに寝かされ、ベッドサイドに冷たい水の入ったステンレスボトルが置いてあった。



薄明かりの中、隣の部屋が見えた。

布団に包まるように眠っているゆたかがいた。


すみれは手を伸ばしてみたが、ゆたかにもゆたかの温もりにも届く筈はなかった。


「明日は優しくしてあげようかな?」

水を飲みながらすみれは思った。




次の日、ゆたかが起きると朝食の用意が出来ていた。

「もう少し、材料があれば豪華に出来たのに・・・」


残念そうなすみれに朝の挨拶をした。

「おはよう、、十分に豪華だよ。」



「昼か、夜に、また美味しい店を探しに行こうよ。」


そう言うと、すかさずすみれが言った。

「駄目! お金が勿体ない。 これからは私が作るから。」


朝食の休憩後に、買い出しに連れて行かれた。

本当に、何にもストックが無かったようで、シコタマ買い込んだ。

出掛けるときは手を繋いでいたが、帰りは二人とも両手に荷物を持っていた。






休日に二人でドライブに出掛けた。

すみれ手作りのサンドウィッチ持参であった。



松本市内から国道19号、国道147号を走り、ワサビ田へ。

休日だから駐車場も、見学コースも混雑していた。

ワサビソフトを二人で食べて、白馬方面へ。



暫くして国道名が148号に変わった。


「この前みたいにスピード違反で捕まったら駄目だからね。」

「ほら、少しスピードが出てるよ。 駄目よ。 メ!!」


すみれは自分で言って恥ずかしくなった。

「メ!!」なんて、らしくない。

鳥肌が立ちそうだった。



急に車の速度が落ちて、冬場はチェーン脱着所になる道ばたのスペースに止まった。


いきなり、ゆたかに唇を奪われた。


すみれは、本当に好きな人にキスをされると、溶けそうになるのがわかった。



「ご、ご免!」


「イヤ!」


「本当に、ご免!」


「謝ったら、イヤ!」


すみれは嬉しかった。

嬉しいとこんなに涙がでるのか? そう思えるほど涙がこぼれた。



ゆたかがポケットからハンカチを出して優しく拭いてくれた。


すみれが、ちゃんとアイロンを掛けて渡したものだった。


ちょっとクシャクシャだった。




ゆたかは女性に対して、マメではなかった。

雑なわけでは無い、女性だからと分け隔てしなかった。


すみれは女性に対して、やたらマメな男は嫌いだった。

そういう男は下心があった。

信用出来なかった。


真面目でシッカリした男は、あからさまにマメな事はしない。

ゆたかのそんなところも好きだった。




熱くなった二人で、窓の内側が曇ったZの車内。

すみれはシートベルトをしたままだった。

すみれは、シートベルトを外して、ゆたかを引き寄せてキスをした。



「うふ。 嬉しい。」

すみれは思わず可愛く言った。


「いつもすみれさんは可愛いけど、今日は信じられないくらい可愛い。」


「もう、すみれさんは止めて。」


「じゃあ、すみれちゃん。」


「ちゃん付けも、イヤ!」


「すみれ! 世界で一番可愛いよ。」


「よし! じゃあ、白馬の栂池自然園に、出発!」


「え~、 もう終わり?」


「これからは、ず~~~っと一緒なんだから。 大丈夫!」


「チャンと前向いて運転してね! スピードは控えめに!」


「はい!」



白馬大池の駅近くから、駐車場に向かった。


ロープウエイを使って、白馬栂池自然園へ。


トレッキングコースとして秀逸である。




すみれがゆたかの前を歩いていた。


丁度、周りに歩いている人はいなかった。


ゆたかのチロリアンシューズの紐が緩んで、片方長くなっていた。

紐を踏んでコケたりしないように、ゆたかはしゃがんで靴紐を締め直した。


ゆたかがしゃがんだ時、すみれは後ろを振り返った。

少し段差のある道で、すみれは少し高い石の上に立っていた。


すみれには綺麗に広がる景色しか見えなかった。

目の前のゆたかが消えたと思った。


驚いた。

ゆたかがいなくなった。


いつもは冷静なすみれであったが、何故か物凄く悲しかった。

涙が溢れた。


直ぐにゆたかが立ち上がったが、そこにいつものすみれはいなかった。


すみれはゆたかにしがみついた。


すみれはゆたかを離さなかった。

ゆたかがまた、消えてしまわないように。



ゆたかには、何が起きたのか分からなかった。

ただ、自分を抱き締めているすみれを、宝物だと思った。



それからは、すみれはゆたかの手を握って離さなかった。




タップリ、トレッキングを堪能し、すみれ手作りのサンドウィッチに満足する。


心がホカホカのままなので、疲れは一切感じなかった。




松本の自宅にそのまま帰るつもりだったが、気が付くとお気に入りのラーメン屋の駐車場に車を停めていた。


躊躇せずに店にはいって、野菜ワンメンの大と普通盛りを注文していた。


店から出て、二人で顔を見合わせて同じ事を言った。

「どうしても、来ちゃうよね~。」






建築工事の多能工という職種がある。

何でも屋さんである。

器用なのである。

色々な資格も持っている。

現在は、無資格では現場作業が出来ない事もあるからである。


松本の現場にも多能工がいた。

多能工の会社は松本市の近くの四賀村にあった。


社長の奥さんも、たまに現場の手伝いに来ていた。

地方の場合は、農業も行う人が多く、社長の家もそうだった。



建築の所長はゆたかを気に入っていた。


同じ様に多能工の社長夫婦もゆたかを気に入っていた。



ゆたかが朝礼で、安全の訓示をすると、大きい拍手をしてくれた。



社長はゆたかが釣りをするのを知っていた。

「いま、ヤマメの時期で、朝、家の裏の川で入れ食いだよ。」


社長の奥さんが言った。

「朝早くても明るいから、早朝に家に遊びにおいで! すみれちゃんも連れてくるんだよ!」



この話をすみれにすると、大乗り気であった。



ゆたかは大家さんが新しく作ってくれた、鍵付きの物置小屋から釣り道具を用意した。

渓流用のフライロッドで、7フィートクラスの2本に3番のフライラインを巻いたリールをセットした。

ラインをガイドに通しておいたので、現地でロッドを繋ぐだけである。


渓流用のフライをチョイスして、フライボックスに綺麗に並べた。


遠足に行く前の子供のように楽しそうなゆたかを見て、すみれは自分も一緒に嬉しいのが不思議だった。



松本の渚から四賀村まで、昼間でも30分も掛からない。

まして早朝である。


あまり早くてもとは思ったが、朝4時半に伺うことにした。



金曜日の3時半に起床。

既にすみれが軽い朝食を用意していた。


4時に出発。

流石に暗かったが、四賀村に着く頃には薄明るくなっていた。



連絡はしてあるので、チャイムを鳴らした。

既に社長夫婦は起きており、家の裏手の渓流に案内してくれた。



釣り道具の準備は万全である。

ゆたかがすみれにキャストの見本を見せる。


ゆたかが手を沿えて1回キャストの練習をすると、直ぐにやり方を覚え、ちょっと小さめのヤマメを釣り上げた。


すみれは腰を落とし、ヤマメを寄せた。

ロッドを脇に抱え、左手を水に暫く漬けると、ヤマメに掛かったフックを右手で外し、冷たくなった左手でヤマメの腹側を持ってゆっくりとリリースした。

小さい声だったが、「ありがとう」と言っているのが分かった。


ゆたかがリリースの仕方を教えた訳ではなかった。

すみれの優しさが、そうさせたのである。



殆ど入れ食いだったが、1時間もしない間に、すみれが10匹、ゆたかは半分の5匹であった。

すみれの釣果に追いつかなかったが、すみれが喜んでくれている姿を見るのは、ゆたかには幸せだった。



釣り具を片付け、手を洗って、居間に通された。


「座りましょ!」

社長が「松本弁」で言った。


「○○しましょ!」 優しい言い方であるが、怒ったときにも使われる。

例えば、「そんなもの、止めましょ!」




ゆたかは気が付いた。

「しまった! お土産を用意していなかった!」


すみれは何事もなかったように、ゆたかのジャケットから車の鍵を取り出すと、表に出ていった。


直ぐにちょっと大きめの紙袋を持って、戻ってきた。

「長野銘菓 まほろばの月」12個入りである。


ゆたかが買って来たかの様に渡された。



「今回はご招待をいただき、有り難う御座います。」

テーブルにお土産を置いて、二人で挨拶をした。



奥さん手作りの朝食があるらしい。


直ぐに、すみれが手伝いに行く。


松茸ご飯に、本物の松茸のお吸い物である。


松茸ご飯には「蜂の子」入りである。


見た目はちょっとグロいが、味は抜群である。



社長の家の裏山は「松茸山」らしい。


お土産に大きい松茸をいただいてしまった。


松茸は沢山採れたとき、冷凍して保存していると言っていた。



すみれとゆたかは申し訳ないくらい大満足で、何度もお礼を言って社長の家を後にした。



二人がいなくなってから、社長の奥さんが言った。

「本当に気の利く奥さんね。 旦那さんへの気遣いも凄いわ。」


社長が残念そうに言った。

「まだ結婚していないんだよ。」

「同棲はしてるらしいんだけど・・・」


奥さんは怒った。

「なに、それ!」

「とっくに結婚してたんじゃないの?」


「今度あの野郎に会ったら、殴ってやる!」






ゆたかは仕事に真面目だった。

客先、職人に至るまで、常に良い方向に向かうよう、努力していた。


挨拶、声かけ等は決して手を抜かなかった。

結果的に無事故へ繋がるのである。


客先からも、使っている職人さんからも「良かった」と言われる仕事をした。



仕事には真面目で、貪欲だった。

ただ、ゆたかは女性には奥手だった。



ゆたかがすみれを好きなのは丸わかりで、周りの方が恥ずかしくなる程だった。



すみれは美人で可愛かった。


松本で、ゆたかがすみれをシッカリ見たのは、現場の顔合わせの時だった。


顔合わせの会議が始まるまでは、みな和気藹々だった。


最初、ゆたかにとって遠くから見たすみれは、施主の監督員側に「女の子がいるなあ」程度であった。


しかし、近づいて見ると、1年前に渋谷で暴漢から助けた女性に似ていた。


ジロジロ見るわけにはいかなかったが、何故か確信があった。

渋谷で会った女性であると。



会議が始まると、すみれは緊張していたのか可愛らしさは無く、美人だけが際立っていた。


すみれが自己紹介をしたとき、窓から入った光がすみれにあたり、ゆたかの座っていたところからは女神のように輝いて見えた。


偶然のいたずらではあったが、松本でのゆたかのすみれに対する第一印象は、「女神のような物凄い美人」となっていた。



ゆたかは、初めの頃はすみれに近づくとドキドキし過ぎて、ゆたか自身、仕事に支障があるのではないかと心配になった。


それでも、ゆたかは仕事以外でも、すみれに話しかけたかった。

ただ、女性、特に美人に対しては奥手で、何ともならなかった。



当然、すみれにゆたかの気持ちが分からない筈はなかった。


すみれは思っていた。

そんなに待たなくても、ゆたかが「愛している」と言ってくれると。



最初の出会いで、お姫様抱っこの様に抱かれた時、嬉しかった。

男達に襲われた事より、ゆたかに抱きかかえられた記憶の方が大きかった。


殆ど、抱かれた記憶の方しか残っていなかった。


この人が運命の人だと、直感的に思った。

すみれは感が鋭かった。

魔女の力のせいか、外した事はなかった。


この人が私を幸せにしてくれる。

この人と一緒になりたい。

だから「ゆたか」の名前だけしか分からなかったのに、探し出して松本へ来たのである。




しかし、ゆたかの場合は些か状況が異なっていた。


最初の出会いは、襲われたすみれを助けた事から始まった。

すみれを抱いたのは、たまたまだった、必死だったのである。


ゆたかは、直ぐ女性に言い寄る様な男には、反吐が出る男だった。



松本ですみれに会った時、ゆたかは嬉しかった。

運が向いてきたとは思ったが、まさか、すみれがゆたかを追いかけて来たとは、思いもしなかった。



一緒に住み始めた時、すみれに言われた言葉も、ゆたかが「愛している」と言えない要因だった。

「経費節減。 1部屋空いていて勿体ないじゃない。 シェアしよ。」


個々の部屋に鍵も掛けられない一軒家の中に、男女が一緒に住む。

「シェアしよ。」

そんなに自分を信頼してくれているのか?

そう思ったら、男女の仲ではなく、親しい友人なのだと思うしかなかった。



「シェアしよ。」

すみれは軽い言い方の方が良いと思っていた。

本当は、「ゆたかと一緒に住みたい」と言えば良かったのに。




ゆたかは「付き合ってください!」、ましてや「結婚してください!」とは言い出せなかった。


すみれは、ゆたかが今までに出会った女性の中で、一番美人で可愛かった。

すみれは美人だが、ゆたかには女神のようだったのである。


「一緒にいよう」と言って、断られたら・・・

怖かったのである。



断られるくらいなら、今のままで幸せだと思おうとした。


工期の長い現場である。

まだ2年くらい工期が残っていた。


あと、2年したら別れるのか?

そう思ったら、ゆたかの目の前の景色は涙で滲んでいった。





いつもすみれは、ゆたかに優しかった。


家事以外は自分のことだけをすれば良いのに、一生懸命ゆたかの世話を焼いた。


すみれは、「重い女」と思われて嫌われるかと思ったが、ゆたかはいつも喜んでくれた。





毎夜、すみれを思う気持ちで張り裂けそうなゆたかの心が、いつまで保つのか分からない程、辛い夜が多かった。





二人は同じ仕事場である。

一緒に出掛けた。



現場の仲間は、二人が一緒に仲良く手を繋いで歩いていても何とも思わなかった。

二人の仲が、もっと進展していると思っていたからである。




ゆたかにとって、朝はまだ良かった。


これから仕事を頑張ろうと、気合いを入れていたからである。

親しい友人であっても、何処へでも嬉しそうに一緒に行ってくれる、すみれとのデート代を稼ぎたかったからである。



夕方は辛かった。


大好きな女性が目の前にいる。

手を伸ばせば、届くところに。

一歩踏み出せば、抱き締める事が出来るところにいたのである。




ゆたかは、布団を敷いて寝ていた。

すみれの事を思った時は丸くなっていた。

どうやっても止まらない涙を、気付かれたくなかったのである。






いつも通りに家に帰ってきた。

朝出掛けるときは一緒だが、帰りはすみれが早く帰っていた。


いつも、すみれは早く帰って、夕食の支度をしてくれていた。


ゆたかが家に帰ってきた時、ご近所のオバサンに声を掛けられた。

「旦那さん、今お帰りですか?」


「あ、はい、今晩わ。」

適当に挨拶した。



すみれと俺は夫婦と思われている。


こんな中途半端な関係を続けていると、すみれに迷惑だな。


「一緒になってください。」

そう言いたかったが、断られるのが怖かった。

女性と付き合ったことなどなかった。

すみれが自分のことを好きなのかなど、分からないゆたかだった。





ある日の午後、ゆたかが現場事務所から出掛けた。

シャーペンの替え芯の予備が無くなっていたのである。

欲しかった硬度は「B」である。

雨が降らなくても湿度があると、{HB」では硬過ぎて紙を傷つけてしまうからであった。


現場と事務所の往復で滅入った気分を解消する、気分転換の為でもあった。



ナワテ通り横の橋を渡れば直ぐのところに文房具店があった。



前の方の郵便局の方から、男女が歩いてきた。

すみれと総務の色男が並んで歩いていた。


東京なら、ホストクラブでNo.1になりそうな色男だった。


ゆたかがすみれと一緒に歩いているより、お似合いだった。



遠くからでも、すみれが微笑んでいるのは分かった。



いつもは手を振ったりするゆたかであったが、頭を下げて会釈をした。

ゆたかは、二人を見ないように下を向いていた。



その後、現場の事務所で二人は会ったが、二人は何も話さなかった。


ゆたかが何故かよそよそしかったが、仕事中であり、仕事で嫌なことでもあったのか程度にしか、すみれは思わなかった。




その日は二人で帰った。

すみれが手を繋ぐと、ゆたかがいつもよりシッカリ手を握ってくれた。


いつもはゆたかが話しかける方が多かったが、今日はすみれから話しかける事が多かった。



家に帰って、夕食の準備をする。

不器用なゆたかではあったが、出来るだけ手伝いをしてくれた。


今日もいつも通りだった。

ただ、ゆたかの口数は少なかった。



夕食後にお茶を飲んだ。

コーヒーの時もあるが、今日は緑茶だった。

いつも通りである。



ただ、いつも陽気に振る舞うゆたかに、明るさが無かった。



すみれは魔法を使って、ゆたかの心を読もうと思った。

しかし、出来なかった。




すみれは1年以上前に、松本でゆたかに会えると知った。

魔法の力であった。


その後、ゆたかに会う為に魔法は使わなかった。

魔法の力を使えば、東京でゆたかに会えた筈であった。




すみれは魔法ではなく、自分の力だけでゆたかに会いたかった。


拘りだったかもしれない。

ただ、自分の愛する人、自分を愛してくれる人に、自分の力だけで会いたかったのである。




ベッドに入ったすみれは、忘れることにした。

くよくよしても仕方が無い。

もし、ゆたかが明日も暗い様だったら、その時は魔法を使ってでも、ゆたかを明るくしてやろうと思った。



ゆたかはふとんに包まっていた。

手足を伸ばして眠れるほど、心は穏やかではなかった。




次の朝、いつも通りだった。

ゆたかは明るかったし、機嫌も良かった。


「取り越し苦労だったのかな?」 すみれは安心した。


いつも通りに二人で仕事に向かった。




その日、ゆたかは会社に早急に送る書類を準備していた。

営業所印であるが、社印が必要な書類で、メール等は使用出来なかった。


ゆたかは、ちょっと慌てて現場事務所を出た。

郵便局から書類を送ろうと思ったのである。


小走りにナワテ通り横の橋まで来ると、郵便局の方から、男女が歩いてきた。


すみれと総務の色男が並んで歩いていた。

「デジャブ?」そんな言葉が頭に浮かんだ。



今度も、頭を下げて会釈をした。

目は、二人を見ないように下を見ていた。



ゆたかの思考能力は止まっていた。


直ぐ先の信号が「赤」なのに渡ろうとして、発進しようとしていた車にクラクションを鳴らされてしまった。




一度目は「偶然」だと思った。


流石に、二度目は「必然」だと思った。




とにかく、書類を送らなければ。

本当は、泣きたかった。

郵便局の窓口で、汗をふくフリをして、涙を拭った。





すみれが早く帰ることもあるが、時間が合えばいつもはすみれと二人で帰っていた。



その日はボ~として仕事にならなかった。

仕事が手に付かず、無駄な残業になってしまい、ゆたかは1時間ほど帰宅が遅れた。



こんなに家に帰るのに気が重いのは、初めてだった。




扉を開けると、明るいすみれの声がした。

「お帰り、ご苦労様。」


「ただいま。」

ゆたかは声を出したが掠れていた。




夕食の時、すみれが言った。

「昨日も今日も、何の用事だったの?」


明るい口調になる様にゆたかは話した。

「昨日はシャーペンの芯で、今日は宅配便。」


「そんな事なら、あたしがやってあげるのに。 今度から言ってね。」



「す、すみれさんは、昨日も今日も出掛けていたんだろう? 忙しそうだから、大丈夫だよ。」


「何で急に他人行儀なの?」



「だ、だって、昨日も今日も総務の彼と一緒だったじゃないか。」


「たまたまよ。」



「二日連続だと、、そう思えない。」


「そ、それに、二人はお似合いだった・・・」



「ぼ、僕と、無理に一緒に暮らしてくれなくても・・・」



ゆたかは顔を上げられなかった。

溢れる涙を、見られたくなかったのである。



すみれはゆたかの言葉に驚いたが、大きな声で言った。

「あの時間帯が、明日荷物が届くギリギリの時間なのよ!」


すみれは、持っていた箸を叩くように強くテーブルに置いて立ち上がった。


立ち上がると流し台に向かい、両手で流しの縁を掴んで肩をふるわせた。



「あの総務の人は、急ぎの荷物担当の人なの! だから同じ時間になっただけなのに・・・」


「あの総務の人に、「旦那さんが向こうから歩いてくる」って、言われたんだから・・・」


「「あなたの、ゆたかの奥さん」って言われて・・・嬉しかったんだから・・・」



「わ、私は、あなただけを愛しているのに・・・」




二人とも、愛していると言った事は無かった。



ゆたかは後ろからすみれを抱き締めた。

ゆたかの流れた涙がすみれの肩に落ちた。


「ごめん。 もう、すみれの事しか考えられなくて・・・」

「俺だって、すみれだけを愛してるよ。」



「初めて愛しているって、言ってくれたのね。」


「何度でも言うよ。 俺はすみれを愛してる!」




すみれは、ゆたかのほっぺにキスをした。

「ご飯粒が付いてたぞ。」

涙を拭いながらすみれが言った。


その後、すみれはゆたかの唇にキスをした。




「もう、他の人を「お似合いだ」なんて言わせないからね! 」


残っていたおかずは何とか食べ終わったが、残ったご飯まで箸がむかえない程、練習させられた。



「さあ! すみれとお似合いなのは誰? 」


「お、俺?」


「ちゃんと名前で言いなさい!」


「ゆたかです。」


「はい! 最初から! すみれとお似合いなのは誰? 」


「ゆたかです。」



「はい、よろしい。 じゃあ、 ゆたかにお似合いなのは誰? 」


「すみれさんです。」


「さんはいらなかったけど、まあいいかな? 」



「今日のすみれは、しつこいんだからね!」



「はい! すみれとお似合いなのは誰? 」


「ゆたかです。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


1時間では終わらなかった。


お蔭で、カピカピになった米粒で、ご飯茶碗を洗うのが大変だった。





松本は最低気温がかなり低い。

立て付けの悪い家だと、夜中の結露が凍ってアルミサッシの窓が、朝、開かなくなることがある。


その日の夜はそんな夜だった。



すみれはベッド、ゆたかは布団に包まっていた。

すみれが愛してくれている・・・嬉しかった。

うとうとし始めたゆたかは、寒さで身体が震えた。

独り寝である、、もう1枚何かを掛けないと眠れない。


ふと、すみれを見た。

すみれの分も掛けるものが必要かと思った。



「ゆたか!」

初めてすみれに名前で呼ばれた。

ベッドの上の掛け布団が少し持ち上がっていた。


何の躊躇も無く、すみれの横に滑り込んだ。

暖かだった。

優しい香りで包まれた。



ゆたかは両手ですみれの顔を挟んだ。

すみれは目を背けようとしたが、出来なかった。


ゆたかは、すみれの目の奥底に魔女独特の混沌をみた。

天地万物が形成される以前の原初の状態、カオスである。



すみれは覚悟した。

魔女だと気付かれた。

もう終わった。


すみれは、自分を撥ね除けて、ゆたかがいなくなると思った。

強く目を閉じた。

最初からこうすれば良かった。



しかし、ゆたかはすみれを強く抱き締めた。

そしてすみれにキスをした。

ゆたかには、すみれの瞳の奥に愛が見えた。

愛する女性、愛してくれている女性を離すものか!


躊躇せず言った。

「結婚してください!」


すみれは思わず言いそうになった。

「私が魔女でも良いの?」

ゆたかは言わせなかった。

すみれの瞳から溢れる涙に口づけされたから。


「お受けします。私を宜しくね。」



もう、シェアなんてどうでもよかった。


ゆたかはすみれにもう一度キスをしたら、もう自分を止められなかった。




「下手だったかな?」


「何で自信が無いの? 仕事の時はそんなことないのに。」

「あなたが満足したなら、私だって満足しているのよ。」


「すみれを好き過ぎて、怖いんだ。」


「じゃあ、、もっと、もっと、もっと私を好きになって。 怖さがなくなるまで。」


「私は渋谷であなたに会ったあと、あなたをず~と探してた。」


「会いたかった。 あなたとず~と一緒にいたくて。」

「だから松本まであなたを追いかけてきたの。」


「あなたと一緒になりたかったの。」


「私を幸せに出来るのは、あなたしかいないの・・・」



ゆたかはすみれを強く抱き締めた。

「幸せにする。 絶対。 死んでも幸せにする。」


「死んだらいや! ず~っと生きて、私をもっと幸せにして!」




そのまま抱き合っていた。

本当に嬉しくて、涙が出た。

抱き合ったまま、いつのまにか眠っていた。

寒さ対策の布団や毛布の追加は要らなかった。




魔女は自分の伴侶を厳選する。

本当に幸せになる為である。

平穏な生活を送りたいからである。



魔女の強大な力のなせる技なのか?、もう一つ理由がある。

バカな伴侶を選んで、強大な力を持つバカを作らない為である。

魔女の強大な力を、悪いことに使わせない為でもある。


外見がどんなに良くても、中身が腐っていてはどうしようもないのである。


魔女自身が良いと思っても、バカを見抜けない場合がある。

そんな時、魔女の本来の力が発動し、バカは徹底的に排除されてしまうのである。


バカな男に引っ掛からない為に、魔女に本能的に備わった機能である。


それに、幸せは外側からでは分からないからである。


幸せになりたい!、魔女は普通の女性よりも、この思い、この気持ちが強いのである。




翌朝、ゆたかは鞄からクリアファイルを取り出した。

婚姻届であった。

自分の分と、保証人の一人としてゆたかの父親が記載されていた。


「この前、オヤジに頼んで送って貰った。」


「準備が良いのね。」

「いつ、私と結婚しようと思ったの?」


「すみれに松本で初めて会ったときに・・・」


「だったら、もっと早く私を愛してるって言ってくれれば良かったのに・・・」


「ご、ご免。 すみれが美し過ぎて言えなかった。」


「うふふ、、褒め方上手になったわね。」


「い、いや、本当の事だから・・・」





その後、二人で、あちこちに電話しまくった。



車で長野に向かった。

楽しく国道19号線と思ったが、移動に時間を掛けたくなかった。


長野道で、直ぐにすみれの実家に行った。


ゆたかは初めてなのに懐かしい感じがした。


すみれの家族もゆたかの事を散々教えられている所為か、初めて会った気がしなかった。

「今度来るときは、ゆっくりしていってね。」

申し訳ないと思いながら、お礼を言って、ダッシュで役所に向かった。



役所に行って婚姻届を提出して、ゆたかは会社、長野営業所にも寄って、事務手続きを行った。

「おめでとう」と皆に言われた。

嬉しくて、「有り難う御座います。」と返すのが精一杯だった。



会社の営業所の人達より付き合いの長い人達に挨拶しよう。

二人は松本に戻った。

当然、高速道路を使って。


松本の現場に着いて、事務所に向かった。



「一緒になるのが遅いんだよ!」

本当に涙を流して喜んでくれる人達ばかりだった。


建築の所長に挨拶して、言った。

「大した結婚式をするつもりはありませんが、その際は仲人をお願いします。」


建築の所長は頷いていたが、泣いたままで声にはならなかった。




現場の隣のフレンチレストランで、結婚式が行われた。

普段の作業服ではなく、皆、正装だった。


こんなに沢山の人に祝福されても良いのかというほどだった。





すみれはゆたかに言っていなかった、、いや、言いそびれた。

「自分が魔女である」と。



言うタイミングがなかった。

言う必要もなかった・・・?


常に、ゆたかがすみれを好きだと言ってくれたから。

すみれの全部が好きだと言ってくれたから。




松本には長野地方裁判所松本支部があった。

ゆたか達が仕事をしている現場の、松本城の反対側にあった。



鬼女の真佐子から、すみれに裁判の応援依頼があった。


傍聴席から、犯罪を犯しているのに無罪を主張する悪人に、魔法を使って自白させる為だった。


その悪人は、年寄りを騙して「無駄な耐震補強」や「必要のない改修工事」を行っていた。

主要な柱を傷つけたり、無駄に穴を開けて、倒壊ギリギリになった建物もあった。

全国で、会社名を変えながら逃げ回り、松本が最終地点となっていた。




裁判のその日、すみれは有給休暇を取った。

ゆたかに、本当の事を言えなかった。


「ちょっと用事がある。」

それだけを言って、朝、ゆたかと別れた。


本当はゆたかと途中まで一緒に行ける道筋だった。

何故か、ゆたかに言えなかった。



裁判所へは遠回りして歩いて行った。


裁判所で真佐子と会って、下打ち合わせをして、傍聴席へ。

しらを切る悪人の被告人に、すみれは指を鳴らした。

その途端、無罪を主張していた男は、雄弁に話し出した。

北は北海道から、南は沖縄まで。騙した方法も、騙した金を賄賂にした事も。




裁判所から出ると、真佐子に言われた。

「今回も大成功だったわ。」


真佐子の次の言葉に、すみれは少し暗い顔をした。

「女鳥羽川沿いのお蕎麦屋さんに行ってみたいの。 美味しいのよね?」


「え、ええ! 松本城の側を通って行きましょうか?」

すみれは、本当は遠回りしたかった。

松本城の側を通って行けば、現場の近くを通らなければいけなかった。

折角、松本城があるのに、遠回りするのはおかしかった。


夫や知り合いが沢山いる筈だからである。

別にみんなに会っても良かったが、夫に言っていない事があった。

「自分が魔女である」と。



時間帯が良かったのか、現場の側を通っても、誰とも会わなかった。

ナワテ通りを通って、橋を渡って、お蕎麦屋さんに着いた。



お蕎麦を堪能して、近くの喫茶店に入った。


窓際の席にすみれの夫、ゆたかがいた。

すみれ達と入れ違いに出て行った男達と、打ち合わせをしていた様だった。



真佐子とゆたかは顔見知りだった。

「すみれちゃんを借りちゃって、悪かったわね。 今度、埋め合わせをするから。」

「東京に来たら、連絡してね。」


ゆたかが店のマスターに言った。

「美味しい珈琲とマスターの奥さん手作りのケーキも付けて、二人分ね。」

「今度、コーヒー券を入れる時、俺が払うから。」


「じゃあ、二人とも、ごゆっくり。」



手を振ってゆたかは店を出て行った。


微笑む真佐子に、すみれは小さい声で言った。

「わ、私、まだ、ゆたかさんに、私が魔女だって言ってないの。」


真佐子は優しい声で言った。

「そんなことで、彼のあなたへの気持ちが揺らいだりしないわよ。」

「あの人と一緒になりたいと思って、結婚したんでしょ?」

「帰ったら、ちゃんと言っちゃいなさい!」


「はい。 頑張ります。」


「頑張らなくても大丈夫よ。」




すみれは夕食を作って待っていた。

物凄く長い時間、待っている感じがした。



「ただいま!」

いつもの様に、明るい声でゆたかが帰って来た。


すみれは、食事の前には言えなかった。


夕食の片付けを二人でしながら、勇気を出して言ってみた。

「わ、私、魔女なの。」


「うん。」


「「うん」じゃなくて、何か言ってよ!」


「困ったな。 すみれが魔女でも、魔女じゃなくても、俺には関係ないんだよ。」


「どういうこと?」


「すみれの全部が好きだって言ったろう? 好きってより愛している、かな? 」

「すみれが魔女なら、魔女の分のすみれも一緒に、全部が好きなんだよ。」


「急に魔女になったんじゃなくて、初めて会った時から魔女だったんだから。 魔女込みで、すみれを好きになったんだよ。」

「すみれが大好き。魔女であるすみれも。 愛してるよ。」


「うん・・・」

すみれは嬉しかった。


もっと、もっと、前に言えば良かった。

自分が選んだ大好きな人だから。





今日、ゆたかの出勤は早い。

いつもは二人で出掛けるのに。



ゆたかが浮かない顔で言った。

「今朝、旧棟の解体前に調査をするんだよね。」

「幽霊が出る部屋があるらしいって、噂があるんだよ。」



すみれが言った。

「工程より少し早いのかな?」

全体工程はすみれの方が詳しかった。


ゆたかが答える。

「早めに調査して準備しておかないと、何かあってからじゃマズいからね。」



すみれが笑いながら言った。

「うちの旦那さん、ビビりだから大丈夫かな?」


ゆたかが本当にビビりながら言った。

「止めてくれよ! チビッても良いように替えの下着持って行こうかな?」


すみれがまた、笑いながら言った。

「洗濯物、増やさないでね!」


「そうだ、良いものがある。」



衣類を入れている家具の引き出しから、何やら取り出した。

「ほら、これ!」


すみれがゆたかに渡そうとしたのは、タオルハンカチであった。

特に特徴もなく、男女兼用のデザインである。


「おまじない、おまじない!」

そう言って、すみれがタオルハンカチを撫でた。


「旧棟に行くとき、ポケットに入れておけば、悪霊退散! バッチリよ!」



「あの~、お願いがあるんだけど。」


「なあに?」


「愛してるって、言ってくれる?」


「なんで?」


「強くなれるって言うから・・・」


「ふふふ・・ 良いわよ。」


すみれはゆたかにキスをしてくれた。

「愛してる! 大好きな、ゆたか!」



「ヤッタ~! 物凄く、強くなったぞ!」


「ありがとう! じゃ、行ってくるね。」

いつもの鞄にタオルハンカチを入れると、ゆたかは元気に仕事に向かった。





協力業者に松本市内の大手電気設備会社を使っていた。

大手なので、実際に仕事に来たのは下請けの電気設備会社だった。


当初、一次協力会社の社員がゆたかのサブ代理人で、現場に常駐した。


ちょっと難があった。

新築工事には慣れているようであったが、模様替え・改修工事は慣れていなかった。

何よりゆたかが気に入らなかったのは、協調性が希薄な事だった。



自宅に帰る時に、一次協力会社に立ち寄った。

工事部長に事前に電話連絡して、アポを取っていた。



ゆたかは工事部長に言った。

「サブ代理人を変えて欲しい。」

「仕事の内容ではない。協調性のある人間が欲しい。」



工事部長は困っていた。

急な人事異動は難しかったのである。



ゆたかは相手の事情は分かっていた。

代替え案を用意していた。


「御社の協力会社の棒芯、彼でどうだろう?」



工事部長は不安げに言った。

「ちょっと若過ぎないですか?」



ゆたかは推薦した男の経歴を理解していた。

「作業員届け」を受理していたからである。

資格も経験も問題無い。歳が若いだけだった。



気さくな若者だった。

優秀な職人だった。

周りを確認し、今、何をどうすれば良いのかを瞬時に判断出来る男だった。


充分に現場代理人を出来る器量のある男だった。



ゆたかが気に入っていたのは、ゆたかを兄のように慕ってくれていたからでもあった。


ゆたかは彼を「姓」では呼ばなかった。

いつも名前の「さとし」と呼んでいた。




何故か、さとしとすみれは仲が良かった。

ゆたかが「さとし」と名前で呼ぶ前から、すみれは「さとし」と呼んでいた。



さとしが監督員事務所のすみれに何かを持って行く事があった。


さとしが出て行った後、すみれがさとしを怒っていた。

「さとし~! 饅頭1個ちょろまかしたろ~!」


「すみれお姉さん! 確認早すぎだよ~!」



こんな遣り取りが週1回は繰り広げられた。

殆どの人が、二人は姉弟だと思っていた。




家に帰って、すみれにさとしとの関係を聞いてみた。


「赤の他人だよ。」


「お前ら、やたら、仲が良くないか?」


「あ~! あいつの母親と私の母親が知り合いで、あいつも東京にいて、近くの公園でよく遊んだんだ。」


「私の弟も一緒だったけどね。 確か弟と同い年だったかな?」

「ちっこい頃は、すみれお姉さんと結婚するって言ってくれたけど、残念ながらゆたかの奥さんになっちゃった。」


「お、俺の奥さんは残念なのか?」


「さとしが残念がっているんだろうなって ハ・ナ・シ。」


「でも、この前、彼女がいるとか言ってたな? 生意気に!」



「あいつ良い奴だもんな。」


「ゆたかの弟分だものね。」


さとしの母親が、すみれに渡してくれた饅頭を食べながらの、夫婦の会話だった。





ゆたかは、さとしと二人で旧棟の確認をした。


二人で手分けして殆どを終わらせ、残ったのは二部屋の確認だけだった。

片方の部屋が、幽霊が出ると噂されている「開かずの間」だった。



「ジャンケンで部屋を決めますか?」

意地悪そうな笑いの、さとしの言葉だった。


「最初はグー! ジャンケンポン!」


ゆたかはグーを出すのが好きだった。

さとしに見透かされていた。

さとしは当然「パー」を出していた。



「一人で大丈夫っすか?」

さとしが笑いながら言った。


「お、おう! この世に幽霊なんかいるかよ?」


ゆたかはビビっていた。

当然、すみれに渡されたポケットの中のタオルハンカチを握り締めていた。



さとしは自分のテスターと図面を持って、違う部屋に入っていった。



他の部屋の鍵は替えられていて、「マスターキー」が用意されていた。


ゆたかが向かった部屋の鍵は真鍮製の古いものだった。


鍵穴から差し込んで回してみた。

ガチャっと、思ったよりも大きな音がした。

ちゃんと解錠出来て、安心した。



扉を開けると、良い天気なのに薄暗かった。

左側には窓はあるが、色の褪せた厚地のカーテンが掛かっていた。


古いのでほこり臭いのは分かっていた。

かび臭さも感じた。



扉を開けたドアノブ側の部屋の壁面を、ゆたかがさぐった。

ちゃんと部屋のスイッチがあった。

古いタイプのトグルスイッチだった。


トグルスイッチを上に上げると、電気が点いた。


白熱球をクリーム色のガラスカバーが覆っている照明器具だった。

ガラスの色の所為か、明るい感じはしなかった。



他の部屋には、使わなくなった折り畳み会議テーブルや折り畳み椅子が置いてあったが、何も無かった。



ゆたかは現況図のコピーを持っていた。

現況図コピーのこの部屋のスイッチにチェックを入れた。



それ程間口は広くなかったが、奥行きのある部屋だった。



薄暗い奥に人影が見えた。


女性である。

多分? 若い女性の様だった。

下半身はぼやけていた。



ゆたかは、普段なら腰を抜かしているところだったが、恐ろしさは感じなかった。



ゆたかは女性に近づいた。

顔がハッキリ見えた。


優しい顔だった。

美人で可愛かった。


ただ、目が違っていた。

目の奥が永遠のようだった。



「どうしてここにいるの?」 などとは聞かなかった。



女性の手を握ろうとした。


ゆたかは、手がすり抜けると思っていた。

実際は、シッカリ握る事が出来た。



冷たい手だった。


握っている間に温かくなった気がした。



ゆたかの中に悲しみが溢れてきた。

何故なのかは分からなかった。



ゆたかの目から涙が溢れた。

こぼれる涙が、女性の手に落ちた。



涙が手を濡らしたのを感じた女性は微笑んだ。


微笑みながら霧のように消えていった。


もう、ゆたかの手は何も掴んでいなかった。



暫くすると、後ろに気配を感じた。


振り向くと、ヘルメットに作業服の上着を着た、すみれが立っていた。



ちょっと、ヘルメットの顎の留め具が緩んでいた。


ゆたかは何も言わずに、すみれの留め具をシッカリ締めた。


すみれが目を閉じていたので、ゆたかはキスをした。


「・・・仕事中よ!」

すみれの声はちょっと嬉しそうで、怒ってはいなかった。



「上手に除霊出来たじゃない。」


「まあ、あたしのハンカチの効果もあったかな?」

すみれは自慢げに言った。



「あれで良かったのかな?」


「言葉は必要ないのよ。 心が無ければ、何を言っても無駄だから。」



もう一回、すみれにキスをしようとしたが、扉のドアノブを動かす音がした。


ゆたかは慌ててコンセントの確認をした。

テスターで調べた結果は「良好」であった。



扉が開いて、さとしが顔を出した。

「兄貴~、 終わりましたか?」


「あれ? すみれお姉さんもいるじゃないですか? 駄目っすよ! こんなとこでデートしてちゃ!」


「さとし! うるさい!」

すみれが怒鳴った。


「はい、はい。 先に事務所に行ってま~す。」



すみれがカーテンを開けて、窓を開けた。

太陽の光で、部屋の中が明るく輝いて見えた。

ゆたかには、すみれの方がもっと輝いて見えた。




今日も二人で一緒に家に帰った。


帰りながら、すみれに聞いた。

「朝のあれ、何だったんだろう?」


「一人で亡くなって、寂しかったのね。」

「理由なんて分からないけど、思い詰めちゃうと、行き先が分からなくなっちゃうのかな?」



「あの女性は生まれ変われるのかな?」


「分からないけど、そうだったら良いよね。」

「私は生まれ変わっても、ゆたかと一緒になるんだから。」


「俺も! その時も宜しくお願いします。」


「分かった! 任しとけ!」

すみれは可愛く胸をはった。






松本の夜は結構気温が低い。

標高が600mくらいある所為かもしれない。



寒さの所為か、ふたりは毎日抱き合って寝ていた。

愛し合うことも忘れなかった。



やることをやってしまうと、出来てしまう事になる。


案の定、すみれのお腹も大きくなった。

決して、運動不足ではありません。



魔女でも「女」であり、初期のつわりはありました。

どうしても偏食になったが、「波田のスイカ(アルプススイカ)」と「野菜ワンメン」で乗り切りました。



すみれは、出産ギリギリまで働いていた。

ゆたかと一緒にいたい、その気持ちが強かったのです。




すみれが長野市の産婦人科に入院した時だった。


本格的な陣痛の前にちょっと傷みがあった。

夜中だったが、すみれは、思わず「ゆたか!」と叫んでしまった。



医者は呼ばなかった。

直ぐに痛みがおさまったから、そのまま眠った。



1時間ほど経って、看護婦さんとゆたかが現れた。

すみれに呼ばれたと言って、緊急外来から入ってきたのである。



一人部屋だったので、サブベッドにゆたかを寝かせようと思った。


ゆたかは泣いていた。

泣きながら、ここに来た理由をすみれに話した。



ゆたかは松本の家のベッドにいた。

すみれの事を考えたら、頭の中がすみれでイッパイになって壊れそうだった。


ベッドに入っても、すみれが自分の中にいて、眠れなかった。

眠れなくて、眠れなくて、そうしているときにすみれから「ゆたか!」って呼ばれた。


気が付いたら車で病院に来ていた。



すみれは仕方がないので、ベッドから出てゆたかに魔法をかけた。


「大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ! ゆたかが笑ってくれたら、、私もあなたの子供もだいじょうぶ!」






すみれが子供を出産する前の晩だった。

ウトウトするすみれは、人の気配を感じた。


匂いがした。

母親の匂いだった。


しかし、少し違っていた。

母親の匂いだったが、自分を生んでくれた母親の匂いではなかった。



懐かしさがすみれの全身を包んだ。


うっすら、姿が見えた。

結婚式の時、紹介されたゆたかの母親であった。



結婚式の時は人が多過ぎて、殆どゆたかの両親と話が出来なかった。

ただ、両親同士は、まるで知り合いのように、話が弾んでいたのを覚えていた。



ゆたかの母親は、すみれの頭を優しく撫でながら、子守歌を歌うように話し出した。


「すみれ。 ご免ね、ゆたかが出産に立ち会えなくて。」

「代わりにはならないけど、私があなたに魔法をかけに来たの。」


「お、おかあさん・・・」


「長野にいるのは、本当のあなたの母親。」

「わたしは、泣き虫だったあなたを「優しさの魔女」にしてしまった悪い母親かな? 」



「すみれは夜泣きが酷かったのよ。 あなたのお母さんは、毎晩泣いていたわ。」


「あなたのお父さんはお医者さんで夜勤が多いし、お母さんもお医者さんで忙しいし。 ママ友もいなかったの。」

「毎晩、うちの前を通って、あなたをあやしながら公園に歩いて行ったわ。」



「私が丁度、夜中にウォーキングしてた時、あなたとあなたのお母さんを家に連れて帰ったの。」


「お母さんはソファーに横になったら、直ぐに気を失うように寝てしまったわ。」

「でも、私に抱かれたあなたは笑っていたの。 その時、この子を私の後継者にしよう! って決めたのよ。」



「あなたのお父さんが夜勤の時は、いつも私の家にあなたはいて、私に抱かれて寝ていたのよ。」




「でも、私が魔・・・」

すみれが言おうとしたが、人差し指で口を塞がれた。


「私はね、何でも知ってたの。 あなたのお母さんのことも、勿論あなたの事も。」

「私は、だてに「優しさの魔女」じゃないのよ。」



「すみれ! 私の愛する娘! 大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ! あなたが笑ってくれれば、 あなたもあなたの子供も大丈夫!」



「他の人には私は見えないけど、この子が生まれるまで、すみれの側にいてあげるからね。」




翌朝、陣痛が始まった。


痛みを感じた時に、母親にお腹を撫でられた。

痛みを少し感じただけで、母親の手の温かさ以外感じなくなった。



他の人には見えてはいなかったが、すみれには、母親が優しくすみれのお腹を撫でているのが見えた。



暫くすると、母親のVサインが見えた。

子供が生まれた。

安産だった。



母親は微笑みながら消えていった。


「お母さん!」

すみれは手を伸ばしてみたが、届くはずもなかった。


「ありがとう、お母さん・・・」

すみれは涙が止まらなかった。





模様替えだったが、規模が大きく工期の長い現場だったので、途中何回か部分払の為の既済検査があった。


3月の既済検査当日の朝、ゆたかとすみれの子供が生まれたのだった。



ゆたかは書類作成は得意で、特に問題はありません。

建築、空調、衛生の各工事は、検査を終えて、電気の監督員の終了待ちでした。


電気の監督員は細かい指摘をする男で、書類に記載している内容を繰り返していた。


ゆたかは監督員の性格を知っていたので、仕方なく?対応していた。

「母子ともに元気!」と連絡があったので、安心していたからでもあった。



しかし、近くで貧乏揺すりが止まらない男がいた。

立ったり、座ったりを繰り返していた。


男は、ついに我慢の限界を超え、大きい声で電気の監督員に詰め寄った。

「もう、良いんじゃないのか! 終わっているんだろう!」

建築の所長だった。


「こいつに、今日、子供が生まれたんだよ! サッサと、長野に行かしてやってくれよ!」

空調、衛生の担当者達が止めなかったら、監督員の胸ぐらを掴んでいたかもしれないくらいの勢いだった。




「焦って、事故るとマズい。」と、皆に言われて、ゆたかは電車で長野に行く事にした。

屋上の事務所から出たとき、会う職人さん、みんなから、「おめでとう!」と言われ、照れて赤くなった。



長野駅からタクシーで産婦人科に向かい、元気なすみれと子供を見て安心した。



建築の所長の話をすると、すみれは大笑いで、看護婦さんに叱られてしまいました。



2ヶ月くらい経った時、すみれと子供を連れて現場に挨拶に行くと、皆、作業服では無く綺麗な格好をして迎えてくれました。


沢山の人に祝福された子は多いと思いますが、何十人もの人達が抱き上げてくれて祝福された子は、ゆたかとすみれの子供だけかも知れません。



後にも先にも、これだけ仲良しが集まった現場を経験することはなかった。





松本の現場が終わって、長野市に引っ越しになる。



少しでもすみれの実家に近いところに家を探した。


ほぼ新築の一戸建てを社宅として決めた。



「殆ど新築だね。 新しいって凄いね?」


松本の家は古かった。

一応、設備は整っていたが、古いものだった。

ただ、大家さんのメンテナンスが良かったので、トラブルは無かった。



「子供がいるし、すみれも大変だから、新しい方が良いと思ったんだよね。」


「でも、最後は使う人に因るよね。」

すみれの言う通りである。

素直にゆたかは頷いた。




車は二人乗りではなくなっていた。


父親が乗っていた車と交換したのである。


二人乗りのZは東京に持って行き、ゆたかの両親が乗っている。

ユタカの父親は「オートマ免許」など無い時代の免許証なので、何の問題も無かった。

ただ、父親がスポーツカーに乗るのがが嬉しすぎて、夫婦喧嘩の火種になっているらしかった。




ゆたかは、今度は新築の現場を担当する予定であった。

病院である。


既存の病院のあいた敷地に、新しい病院を建てる計画だった。



ゆたかは自転車で現場に通勤し、車はすみれに使わせる予定にしていた。




松本の自宅の荷物をダンボール箱に詰め、引っ越し屋さんを手配する段になって、ストップが掛かった。



ゆたかは、急遽、東京本社に呼ばれ、営業担当者とゼネコンに挨拶に行った。



ゼネコンの会議室には、懐かしい顔のオヤジがいた。


「ゆうちゃん! 待ってたぞ!」

松本で世話になった建築の所長である。

この人だけは俺の事を「ゆうちゃん」と呼ぶ。




東京本社に栄転したと聞いていた。


どうも、また我が儘を言って、設備の担当者をご指名した様だった。



「女房がすみれちゃんにも会いたいって言ってるから、遊びに来いよ!」


「喜んで伺います。」


単身赴任ではないようだった。




ゼネコンからの帰りの電車で、営業担当者から聞かれた。

「どういう関係なんだ?」


「俺たち夫婦の仲人です。」


「ふ~ん。 人脈だな。 大型物件が受注出来たから、会社としては万々歳だ。」

「どうだ、この現場が終わったら、営業に来ないか?」


「いや~! 子供が生まれたばかりなんで、現場手当は欲しいんですよね。」


「あはははは。 それは確かだな。」




そんなこんなで、長野営業所に戻らずに、東京本店に異動となった。




すみれは何故かやたら喜んでいたが、すみれの両親は残念がっていた。


ただ、すみれの母親は夫に言った。

「私の姉と言ってもいい人のところにすみれは行くんだから、すみれはもっと幸せになれるのよ。」

「東京なんて、新幹線で直ぐだし・・・」


「例のヤツで、一瞬にして行けるんだろう?」

すみれの父親は、自分の奥さんが魔法で移動する時の指の動きの真似をした。


「あなたも一緒に行くのよ!」


「あ~! あの方法は一人乗りか?」





荷物を東京の実家に送り、後部座席にチャイルドシートをセットして、車で東京に向かった。

運転したいというので、すみれが運転手。


すみれは運転は上手いのだが、俺はどうもハンドルを持っていないのは・・・

そんなことを思っている間に東京に着いてしまった。



チャイルドシートごと子供を下ろし、荷物を運ぼうとしていると、すみれが俺のオフクロに抱きついていた。


「おかあさん! 帰って来たよ。」

すみれの嬉しそうな声だった。


俺のオフクロだよな?



そんなものかと思っていたが、嫁と姑にしては、やたら仲が良い。

殆ど、母親と娘にしか見えなかった。


まあ、仲が良いのに越したことはない。




夕食の準備は母娘が並んでやっていた。


夕食は、親子4人? + 1人 。



夕食後のリビングでコーヒー。

どこか既視感があった。



思い出した。

すみれの長野の実家に行った時、リビングでコーヒーを飲んでいる時と同じだった。



俺の実家だよな?


オヤジ、オフクロ、それにすみれ、、どう見ても、俺よりも親娘に見えた。




お風呂が終わって、自分達の部屋でほっとする。


当り前だが、東京で見てもすみれは綺麗だった。



ベビーベッドに子供を寝かしつけ、東京での「第1回目」と期待したが、可愛い邪魔者に阻止された。



子供を抱いているすみれは、母親の顔だった。



ベッドで少しすねた俺に気づいたのか、妻の顔のすみれが言った。

「わたしはいつでも、あなたのものよ!」


ドキドキしたが、今夜は手を繋いで寝るだけで、我慢した。



何せ、二人の真ん中に可愛い邪魔者がいたのである。


ベビーベッドだとぐずるくせに、二人のベッドの真ん中に寝かせると、満足して寝てくれた。


見事に「川の字」になっていた。


まあ、半分は俺の責任だから・・・




次の日に、予定していた通りに引っ越し荷物が届いた。

子供の相手をしながらだと、大変だと思っていた。


なんと、オヤジも有給休暇を取っていた。



オヤジがこんなに子煩悩だとは知らなかった。


昔は、オヤジは仕事ばかりで、俺は遊んでもらった記憶は殆ど無かった。


孫が相手だとこんなに違うものなのか?



お蔭で荷物の片付けが早く終わった。




俺の記憶では、すみれは俺の家に来たことは無いと思っていた。


実際は、まるで昔から住んでいた自分の家のように走り回っていた。



何かをする度に、オフクロと仲良く話していた。


本当の娘でも、こんなに「おかあさん! おかあさん!」とは言わないのではないのかな?


母親も魔女だし、嫁も魔女。

魔女って、こんなものかな? と思ってしまった。




次の朝、本社に出勤のため駅に向かって歩いていると、近所の若い旦那さんにこう言われた。

「お婿さんなんですか? 大変ですね。」



俺って存在感が薄いのかな? ちょっと心配になったが、大した問題ではない。


家庭は円満だし、今度の現場も楽しいものにしたいな。




今朝も、すみれが子供を抱いてお見送りである。


大好きな愛する妻と子供である。

大事な大事な宝物達である。





もてない男と奥手の魔女の物語の派生版

若手魔女のお姉さん的存在の「すみれさん」の物語。

結構、ノンフィクション的な話を織り交ぜています。

魔女が出てくる作品を読むと、多分存在しないであろう魔女の設定は作者の好みとして、主人公は自分みたいなヤツと設定してみた。


「13日の金曜日」に無理矢理投稿したので、終わりの部分が些か気に入りませんが、そのうち直したいと思っています。

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