第三十二話
子供の頃から何となくわかっていた。
大人も子供も、み~んな平気なふりをして生きていることを。
母さんは父さんと言い争う気力もなくて、ため息をついていた。
父さんは上手く伝わらない気持ちを抱えて、それでも大人なフリをする。
あの子は変なあだ名で呼ばれて傷ついてるけど、誰にも言い返せず笑ってる。
あの子は家族にひどい扱いを受けて、そのうっぷんを晴らすように誰かをいじめてる。
先生は仕事だからと、俺たち子供に辟易しながら授業をしてる。
あの先生は低賃金であることを嘆きながらも、安定した職だからと大人ぶって教師を続けてる。
あの子はいじめられながらも、同じくいじめられてる俺を見て、まだましだと思い込んでる。
皆何かが欠けているのに、皆平気そうに振舞うのだけは一丁前で、日々を惰性で過ごしてるくせに、愛されたいと心底願ってる。
浅はかで努力もなく、快楽をむさぼって、何も考えずに済むならと、今日も同じ朝ごはんを口にする。
それが今の俺だった。
幼少期からそんな自分を保つフリだけは、得意だった。
「・・・・・・・・」
「薫~洗剤の詰め替え用まだあったっけ~?」
二人で拵えた朝食を、小さな一口を繰り返して食べ、洗面所から聞こえる夕陽の声に、答える気力が湧いてこなかった。
夕陽もきっと、妹さんを事故で亡くした頃から、周りに対して平気そうに振舞いながら生きていただろう。
どんな気持ちで受験したんだろう。どんな気持ちでキャンパスに足を踏み入れて、教室まで来たんだろう。
他人と挨拶を交わすことすら、作り笑いが必要で、ズタズタになった彼の心を誰が知っていただろう。
自分のことを考えたくないがゆえに、必死に夕陽のことを考えた。
そのうち返事のないリビングに夕陽は顔を出して、進まない食事をボーっと眺める俺の頭を撫でた。
後何年、こんな気持ちを繰り返せばいいんだろう。
自分は恵まれてると思いながら、自分を慰めながら、自分が苦しいことに向き合う度に、誰かに迷惑をかけて、夕陽に嫌われることを恐れて、また夕陽を傷つける。
俺には彼しかいないのに・・・。
「薫が何考えてるか当てようっかなぁ~。」
夕陽は腰を折って座っていた俺にキスをした。
「わかった・・・。食べるのめんどくさくなってきたし、洗剤がどこにあるのかも忘れちゃったな~?」
彼がふざけて笑うので、俺も口元が緩んだ。
「ふふ・・・やった、笑ってくれた。か~おる!もうご飯いいなら、俺をぎゅっと抱きしめて。」
椅子から立ち上がって彼に抱き着くと、また世界一優しい声が頭上から聞こえた。
「俺の大事な薫ぅ・・・愛してるよ。俺に洗濯洗剤の詰め替え用がどこにあるのか教えてくれ。薫が着た服を洗う前に、こっそり匂い嗅いでるとかバレないうちに。」
「うふふ!・・・くく・・・ふ・・・も~~~」
上目遣いでジトっと見つめ返すと、夕陽は幸せそうな笑みを見せた。
「かわい~・・・何だよ・・・嗅いじゃダメ?」
「ダメ・・・じゃないけど・・・本人がいるから俺をくんくんしたらいいじゃん。」
「わ~い許可出た♡・・・・すぅ・・・・はぁ・・・・あのさ、薫。俺らの関係ってきっと、共依存って言うんだよ。」
「・・・そうかもね。」
「でもお互いのプライベートな時間とか、プライベートな人間関係を侵されない限りは、それは成り立つしパートナー同士だといい関係だと言えると思う。」
「じゃあ俺はダメなパートナーだね・・・。夕陽にどこにも行ってほしくなくて、仕事を変えさせて・・・人間関係変えさせちゃったんだから。」
「それは残念、違うな。先生も言ってたろ?人生は取捨選択の連続だって。後さっき共依存って言ったけど、調べたところによると、厳密には相互依存って言うんだ。お互いを頼りにしあってるから高め合えて、お互いにとって価値のある時間やその他を生み出せる関係。共依存はお互いが自分のことしか考えずに、お互いを利用してる関係なんだって。俺は薫との生活を選んで、薫が居てくれるから色んなことを頑張れるって思えた。薫が不安定な状態になっても、自分が支えてほしいからっていうよりは、日々を笑顔で生きて一緒にいたいから、職場を離れるっていう選択をしたんだ。今はスイッチを押して早く洗濯したいけど。」
「うふふ・・・」
「・・・薫が笑ってくれると、俺は世界一幸せだよ。」
夕陽はそう言って俺の手を握って洗面所に連れていく。
俺はタオルのカゴの裏を指さして言った。
「詰め替え用はそこだよ。でも夕陽の手が届くなら、上の戸棚に入れといていいよ。」
「わかった。詰め替えるのは俺の担当ってことだな?・・・・こやってさ、お互いに頼って生きてこうよ。俺もさ、こう見えても病むことあんだぜ?」
「そうなの?・・・聞きたい。」
夕陽は洗剤を入れてピッと洗濯機のスイッチを入れ、仕方ねぇなぁとでも言いたげな顔をした。
そして一つため息をついて、また俺の手を取ってソファに戻った。
「平気なフリをしてた・・・ず~っと。今もまだ時々苦しいし、妹に会いたくなる。ま、しょうがないよな・・・まだ亡くなって一年半も経ってないし・・・。父さんと母さんがつらそうなのを見せないようにするから、俺もそうしてようと思ってた。でも・・・それを二人には見抜かれてて、子供なんだから悲しいと思うことを我慢するなって言われて、ボロボロ泣いたこともある。まだ子供だからっていわれりゃそりゃそうかもしんない・・・。でもやっぱり無理してでも大人でいなきゃなって思うこともある。・・・・薫を病院に連れて行ったあの日・・・本当は不安で仕方なかった。精神的にボロボロになった薫が、もし自傷行為したり自殺しようとしたりしたら・・・どうしたらいいだろうって・・・。何て言ってやれば薫の痛みを汲んでやれんだろうかって・・・。でもこの世で一番大事な存在になっちゃった薫を、どうしても失いたくなくて・・・もう二度とあんな悲しい想いしたくなくてさ・・・もういっそここに閉じ込めて、部屋から一歩も出られなくしようかなとか、考えたことあった。でも・・・薫は自分のことに苦しんでても、俺のことを必死に考えてくれてたし、俺と一緒にいるためにどういう自分でいたらいいのか、迷いながら人格を変えながら、一生懸命自分を保とうとしてるように見えた。俺と一緒だなって思ったんだよ・・・。似てるから好きになったのかもしれないな。薫・・・俺は薫がいないと生きてはいけない。平気なフリも二度と出来ない。俺だってメンタル弱っちくてさ、崩れそうで・・・それでも薫を守りたいって気持ちに変えて何とかしてんの。」
一つ二つと、俯いた夕陽から涙がこぼれ落ちるのを見て、握った手に力を込めた。
「絶対・・・夕陽を悲しませることしない・・・。約束するから・・・泣かないで、夕陽」
夕陽はパッと顔を上げて、ぐいっと涙を拭いてまたニッコリ笑った。
「薫が居てくれりゃ、俺はいつだって大丈夫だって言えるよ。弱いもん同士、支え合ってような。」
「うん・・・。」
俺たちはまた誓い合うようにキスをした。
その後二人で家事をしながら、大晦日の過ごし方をああでもない、こうでもないと話し合った。
夕陽からこれまでの家族での過ごし方も聞いたけれど、二人で過ごす初めてを大事にしたいという意見が合致して、年が明ける前の0時前から、以前行った神社に初詣に行こうということになった。
そして23時ごろ、二人でテレビを観ながら年越しそばを食べて、ワクワクしながら身支度を始めた。
「何をそんなウキウキしてんの~?可愛いなぁも~。」
夕陽は後ろから抱き着いて、俺の頭にスリスリした。
「だってさ、なんか夜に外に出ると暗いし空気が違うし、ちょっとテンション上がらない?」
「ふふ・・・そんな理由・・・可愛い・・・。そうだなぁ、わかんねぇでもねぇけど・・・。」
「夕陽はいつもお兄ちゃんっぽくて大人っぽいもんなぁ・・・あんまり子供っぽいところないよね。」
夕陽は面食らったようにキョトンとして、クローゼットに手をかけながら言った。
「んなことないよ・・・。す~ぐ焼きもち妬いちゃうもん。薫は可愛いからさ、周りから好かれんの当たり前なのに、いちいち焼きもち妬いちゃうからな~。」
彼はコートに袖を通しながら、お気に入りのピンクのコートを着る俺に向き直って、満足そうな笑みを見せて、ぎゅっと抱き着く。
「んでもこんな可愛い薫は俺が独り占めしていいんだって思えるから、優越感に浸ったりしてんの。もうその時点で子供っぽいだろ?」
「そう?それは・・・子供っぽいっていうより、人間らしいっていうんじゃない?」
「・・・そうか・・・そうだな。」
身支度を整えて、いざ二人して外に出ると、ひやっとした真冬の空気が頬を撫でた。
一つ大きく深呼吸をして、その空気を肺の中に吸い込んでみた。
煙草の煙のように口先から、白く広がって瞬時に消える。
ドアの施錠を終えた夕陽の手を取って、エレベーターへと入った。
1階まで降りてエントランスを出ると、ふわっと前髪を乱す風が吹いた。
「薫寒い?マフラー貸そうか?」
「いらないよ・・・。俺が選んであげたやつ、出かける時毎回つけてるんだね。」
夕陽は何故か自慢気な表情でニンマリする。
「そりゃつけますよ。ちなみに・・・薫がくれたハンカチもたまに使ってるよ。使い過ぎて洗いすぎると傷んじゃうかなって思ってほどほどに。」
「ふふ、そうなんだ。別に使い古しちゃったら、新しいのを選んで買ってあげるよ?」
「え~?マジで~?やったぁあぁ♡」
夕陽は恋人繋ぎした手をぎゅ~っと握って、ご機嫌に歩き出す。
閑静な住宅街をコソコソ小声で話しながら歩いて、駅前を通り過ぎようとしたとき、ふと少し先に居た4、5人の集団の中にいた女性と目が合った。
「リサ・・・・」
俺は夕陽と一緒にいるのにも関わらず、思わず名前を口にしてしまった。
夕陽もパッと俺の視線の先を見て、彼女は他の人たちと『またね』と挨拶を交わして、小走りでこちらにやってきた。
「薫くん!朝野くん、久しぶり。」
リサはニッコリ穏やかな笑みを向けた。
「あ~・・・ども、お久しぶりです。」
俺は内心彼女に気付いて名前を口にしてしまったことを後悔しながら、ぎこちない笑みを返した。
「二人とももしかして・・・年越し前からの初詣?」
「あ・・・うん、近くにあるから・・・」
「そうだよねぇ。私はサークルの子たちと飲み会行って、神社あるの知ってるから行く?って話してたんだけど、結構酔いつぶれてる子もいたし解散したんだ。」
「そうなんだ。」
ああ・・・どうしよう・・・結局連絡先は削除しちゃったし、会うと思ってなかったから何を話したらいいかわかんないな・・・。
俺が次の言葉に困っていたけど、いつもだったらスッと会話の助け舟を出す夕陽も、隣で手を繋いだまま黙っていた。
するとリサはふぅと一つ白い息を吐いて、俺たち二人を交互に見た。
「・・・ふふ、二人が幸せそうでよかったぁ。本格的に寒くなってきちゃったから、二人とも体調気を付けてね。じゃあ・・・」
「うん・・・ありがとう。」
優しい笑顔を見せてその場を去っていくリサは、特に何でもない振る舞いで、傷ついているわけでもなく、気まずそうにしているでもなく、普段の優しい彼女だった。
「薫、行こ。」
ボーっと彼女の後姿を眺めていた俺の手を引いて、夕陽はまた歩き出した。
車もまばらな横断歩道で待ちながら、後10分ほどの道のりを、点々と並ぶ街灯の先を目指していく。
日が変わる前から初詣に行く人たちはまぁまぁいるのか、家族連れやカップルで同じ方向を歩く人たちがいた。
「なぁ、何考えてた?」
「えっ?」
唐突にそう言われてパッと彼を見上げた。
夕陽は真正面を向いて、青信号になった横断歩道を一緒に歩きながら無表情だった。
「何・・・ん~同じく初詣に行く人達が結構いるなぁって考えてた。」
「違うよ・・・佐伯先輩を呼び止めた時。」
夕陽は特に怒ってるわけではなさそうだけど、その気持ちを計りかねたので正直に答えることにした。
「・・・何だろう・・・会うと思ってなかったから、ビックリして思わず名前が出ちゃったなぁって・・・。ごめんね、別に話したいとか声かけたいとか思ってたわけじゃないんだよ。」
「そっか・・・。でもきっと・・・」
「ん?」
夕陽は何かを言いかけて、目を伏せると、またチラっと俺を見ていつものちょっと意地悪で優しい笑みを向けた。
「いいや、どうでもいい。薫と一緒に居る時に、余計な事考えたくねぇし。」
夕陽はそう言いながら、相変わらず車道側を歩くことを譲ってはくれなかった。




