第十六話
それから数日間、夕陽が働きに出ている間、パソコンで良さそうな在宅ワークを探しつつ、また司法試験用の参考書を読み込んでいた。
解離性同一性障害になってから、人格が変わる度に集中力や短期の記憶もリセットされがちなので、パッと違うことをしたくなって、まったく関係のない本を読んだり、思い出したように家事をしたり料理をしたり、急にどっと疲れがきたり・・・自分自身の気分に振り回されていた。
「疲れた・・・・・・」
言い知れぬ疲労感、倦怠感、悲壮感に襲われる。
何をしてもまとまった答えを得ることが出来ないことに気付くまで、そう時間はかからなかったけど、そうなると今度は無力感に襲われる。
ため息ばかりが漏れて、時間間隔もあまりないので、いつ食事をしたのかもわからなくなっていた。
ローテーブルに突っ伏していると、置いてあったスマホから着信音がする。
「あ!夕陽だ!・・・もしもし?」
「あ、もしもし薫?今日は家にいんの?」
休憩時間になると、夕陽は決まった時間に電話をかけてくれる。
「うん!さっきね・・・・・えっと・・・・・本読んでたんだけど・・・えっと、どこまで読んだか忘れちゃって・・・。疲れちゃった。」
「そっか、読書は息抜きだからなぁ、疲れたら別に無理して読まなくてもいいんだよ。」
「うん・・・・えっと・・・えっと・・・」
人格が切り替わっているうちでないと、また声を出せない自分に戻ってしまいそうで、その焦りは伝染していた。
「は・・・早く帰って来てね・・・・」
「うん、終わったら速攻帰るよ。いつもどれくらいで家に着くか、もう覚えてる?」
「うん!18時45分くらい!」
「そうだよな。そういえば、昼食は結局何食べたんだ?」
「・・・・・えっと・・・・・えっと~・・・・」
「冷蔵庫にも冷凍庫にも薫が作り置きしてくれてたおかずいくらかあったけど、インスタント麺でも冷凍食品でも買い置きしてるからさ、別に好きなもの食べていいよ。」
「・・・・・・・・あ・・・・・う・・・・」
「・・・薫?大丈夫か?・・・話せなくなりそうなら、メッセージで打ち込んでくれてもいいよ、俺は声で話しとくけど。」
「・・・・ふん!いいの!ご飯なんか!最近ちょっと太っちゃったし、一食くらい食べなくったって死なないわよ。薬も飲みたくないもん!」
「ふ・・・え~?飲みたくないの~?」
「病人扱いしないで!私は全然平気だから。」
「なんかツンデレみたいになっちゃったなぁ・・・可愛いけど。んでも疲れて来たりしんどくなった時用でさ、先生わざわざ処方してくれてたんだよ。だから一人の時しんどかったら飲んでもいいんだよ。その判断は薫に任せるけどさ、いつまでも時間が過ぎないなぁとか、外が暗くなってきて不安になったりしたら、出来れば俺は飲んでほしいよ。」
「・・・・はいはい、わかったわよ・・・。しょうがないから夕陽の言うこと聞いてあげる。」
「ふ・・・ありがとう薫・・・大好きだよ。」
「・・・・大好きじゃなくて・・・もっと!」
「はは・・・・愛してるよ薫。」
「・・・・・・・あ・・・う・・・・・」
感情が振り回されて、コロコロ変わる人格は、どれもこれも中途半端に夕陽に好き勝手なことを言った。
「俺は今から薫が作ってくれたおにぎり食べま~す。・・・・んぐ・・・うまぁ・・・梅干しだわ。後二つは中身なんだろ・・・ふふ・・・あ~やば・・・愛妻弁当かよぉ・・・・俺今めっちゃニヤついてる。通話してるからさすがに外で食べてるけどさ、不審者だと思われないかな・・・薫電話切るなよ?・・・にしても今日暖かいよな。」
「・・・・・あ・・・・・・・・ん~・・・」
「なあに~?無理しなくてもいいよ~?可愛いけど・・・」
一生懸命声を出そうとしてる俺の顔でも想像しているのか、夕陽は声がもうニヤついてる!
「そういう態度がデレデレしてるっていつも言ってるでしょ!!!」
「そうだなぁ、デレデレしちゃダメなんか~?薫ちゃん♡」
「っ・・・・!!ダメとか言ってないもん!風邪ひくでしょ!もう年末だっていうのに!」
「あ~心配してくれてんだ♡愛感じたわぁ。明後日もうクリスマスだもんなぁ・・・いやでもマジで、例年に比べてめっちゃ気温高いじゃん。クリスマスちゃっかり空けてるからさ~デートしような?」
「ふん!・・・別に行きたいとことかどうせ決めてないんでしょ!」
「ん~・・・もぐもぐ・・・色々考えてはいたんだけどさ・・・イルミネーションとか、クリスマスツリー飾ってある繁華街行くとか・・・でも薫が不安になったり、人込みでつらかったらあれだからさ~。ゴク・・・んだからさ、俺子供の頃しか買ったことないんだけど、ケンタのクリスマスボックス買ってさ、家でシャンメリー飲みながらケーキも用意して、家族で祝うクリスマスですって感じのよくない?」
「・・・・それは、夕陽のお父さんとお母さんも一緒に?」
「あ~・・・薫がそれがいいなら実家でやってもいいよ?二人の都合つくか今からじゃちょっと厳しいかもしんないけど、聞くだけ聞いてみる?」
「うん!!夕陽のお父さんとお母さんに会いたい!」
「そっか、わかった。」
そんな調子で夕陽はずっと通話を繋げてくれながら食事をして、俺にも食べるように促すので、お腹が空いていた自分に気が付くことが出来る。
不思議なことに、夕陽の声を聴くと感情に振り回されるけど、不安やもろもろ感じている負の感覚は薄れていく。
それでも度々彼にいつ帰ってくるのかと問いかけてしまうけど、その度に夕陽は優しく答えてくれる。
そして電話を切って、またしんと静まり返ったリビングにいると、ふと正気になる自分もいる。
あんな優しくていい人が、どうして俺の面倒見てくれるんだろう・・・
大学を休学してまで、俺を養って生きていこうって思ってくれるんだろう・・・
普通そんなことありえない。いくら身内がいない恋人だとしても、そこまでしてくれる人がいるだろうか。
本人がそうしてくれるのもだけど、彼の人生に関わる大きな決断を、親御さんまでもが許してくれるというのが、もう俺の理解の範疇を超えていた。
現実はいつだって厳しい。人の優しさは有限であって、無限のものでは決してない。
俺はそれをよく知っている。
理不尽や酷い目に遭って、裏切られて捨てられた俺はよくわかっている。
俺が出来ることは、自分の人格の統合を成功させて、安定した精神を取り戻すこと。
いや・・・違う・・・最初からそんな物持っていなかったんだ、取り戻すってわけじゃない。
新しく手に入れるんだ。
どれくらい時間かかるんだろう・・・何年もかかるのかな・・・・その頃まで、夕陽は側にいてくれるんだろうか。
何年も何十年もかかって、その時夕陽との関係性が変わってしまっていても、それでも俺は自分を奮い立たせて、生きていけるようにならなきゃ。
一度は奇跡で生き永らえた自分、そして死のうとして先輩に救われた自分、今は・・・自由にならない精神を、夕陽が繋ぎとめてくれている。
先生が言った、『大丈夫ですよ、信じてみましょう。』という言葉が頭の中をこだまする。
沢山の人が、たくさんの人の気持ちが、今の俺を支えてくれている。
「・・・はぁ・・・う・・・・・・・・ゆ・・・ひ」
前に進みたい。
夕陽は、新しい自分になるチャンスだと言った。
どれだけ記憶が曖昧になっても、浮き沈みが激しくて疲弊しても、本当につらかったのはきっともっと子供の頃の自分だったはすだ。
「ゆ・・・・ひ・・・ふぅ・・・ふぅ・・・夕陽・・・」
彼はいつもバイトが終わって、着替えて荷物を持って店を出ると、すぐに電話をかけてくれる。
電車に乗るまでの間話して、そして電車を降りて最寄りに着いたら、また電話をくれる。
そして他愛ない話をしては、俺の様子を伺って、俺が笑顔になるようなお菓子や、デザートをコンビニで買ってきてくれたりするんだ。
次に電話に出た時は、出会った時の自分の声で話したい。
自分でそうしたいと思えたことを、一つずつ実現するんだ。
「夕陽・・・」
あと二時間もすれば、日没が来てベランダはオレンジ色に染まっていく。
カーテンの向こうで晴れた空を眺めて、何をして待ってよう・・・。
「夕陽・・・ずっと・・・待ってるから。」




