第十四話
薫が乱暴に投げたスマホの画面は、保護カバーがボロボロに砕けていた。
スマホケースもひび割れていたけど、拾い上げたその画面は、まだ通話中のままだった。
「・・・・もしもし」
「・・・・・誰だ?」
「初めまして・・・朝野夕陽と申します。二月程前から薫さんとお付き合いさせていただいていまして、今日から彼のうちで同棲することになりました。・・・・要件を代わりにお伺いします。」
「薫はどうしたんだ?あの子と話をさせてくれ。」
「・・・薫は数週間前から、解離性同一性障害だと診断されています。自分で制御できないような人格に変わって振り回されたり、抱えていた不安が抑えきれなくなることもあります。今は・・・一頻り泣いたら気を失ってしまったので、ベッドに寝かせています。身体的には健康かもしれませんけど、精神的に薫はボロボロです。今は一生懸命治療に専念しながら、人格の統合に努めています。俺は薫と生涯を共にしていくつもりで、今を一緒に生きています。・・・柊さんは、薫に何を求めてるんですか?」
「・・・・・・私は・・・・薫ともう一度家族としてやり直したいと考えていた。元妻が、薫を実家に置いて出るとは思わなかったんだ。あの子が居場所を無くしていたなんて・・・・」
「・・・・人様の家庭の事情に介入するつもりはないので、さっきの薫の心の叫びをくみ取ってあげてください。今の不安定な薫は、たくさんいる人の中で何かをするのもストレスですし、大学を休学してバイトも辞めています。話している様子からわかったかもしれませんが、電話を取って話を聞いて、それについて考えて、相手に対して配慮するということ自体負担だと思います。なので、柊さんとエリザさんの連絡先は消去させてもらいます。一時的に俺が控えておきますが、薫の精神状態がよくなって快方に向かっても、本人がもう関わりたくないと言えば、その時は俺も消去します。」
「・・・・・・わかった・・・・。」
「・・・・それでは・・・」
「朝野くん・・・」
「はい。」
「父親ではないと言われてしまったから、こんなことを言うのはおこがましいが・・・薫をよろしく頼む。」
それに対して答える気も起きなかったので、俺はそのまま通話終了ボタンをタップした。
「はぁ・・・・」
こんなに人に対して怒りを覚えたことはなかった。
まただ・・・
真っ白な綺麗な部屋、不思議な夢の中に居た。
目先にある大きな窓の奥には、綺麗な緑が日の光に当たって優しく揺れていた。
外を眺めたくて歩を進めると、白い手袋をして、白いタキシードを着ている自分に気が付いた。
「・・・・?なにこれ・・・」
不思議に思っていると、大きな扉が重々しく開く音が背後から聞こえて、思わず振り返る。
そこには、以前夢の中で見た、白いタキシードを身に纏った夕陽がいた。
彼は同じように一瞬目を丸くしてから、いつもの優しい笑顔を向けて俺の側へ歩み寄った。
「薫・・・」
彼が俺を呼ぶ声だけで、涙が溢れそうになる。
同じく白い手袋をしたまま頬に触れられて、夢の中だとわかっているけど、彼に見惚れずにはいられなかった。
「夕陽・・・ふふ・・・カッコイイね。」
「そ?・・・薫も似合ってるよ。体が細いから、そういう線がしっかりわかる服が似合うんだろうなぁ。」
彼はそう言いながら俺の肩に触れて、その大きな手で俺の体を撫でるように伝った。
腰を引き寄せるように抱きしめられて、俺も彼の背中に腕を回した。
これから大勢の人に祝福される結婚式に向かうとは思えない程、二人っきりしか存在しないような静寂の空間だった。
温かくて、気持ちのいい夕陽の胸に耳を当てて、その鼓動を聞いている時が、自分の全てを許されている時間だ。
まるで安心しきった赤ん坊が、母親の胸に抱かれて眠っているような・・・そんな感覚。
次に瞼を持ち上げた時、薄暗い部屋の中で、添い寝していた夕陽と目が合った。
彼は安心したように柔らかく微笑むと、優しい手つきで俺の頭を撫でた。
心の中が空っぽだった。何かモヤモヤするでもなく、そもそも眠っていた前のことをあまり思い出せなかった。
夕陽・・・
彼の名前を呼びたくて口を開いたけど、自分の声は心の中で呟かれるだけで、彼に聞こえる音にはならなかった。
あれ・・・
俺がボーっとしていると、夕陽はその様子に異変を感じたのか、真剣な顔つきになる。
「どうした?」
声が出ない・・・
そう伝えたくとも、そもそも出ないのだからどうしようもない。
俺はとりあえずむくりと体を起こして、スマホを探した。
「・・・・スマホ、持ってきてやるから待って。」
夕陽は立ち上がって部屋の電気をつけると、リビングから俺のスマホを取ってきてくれた。
何故かスマホカバーが外されていたけど、特に気に留めることもなく適当な画面を開いて打ち込んだ。
「・・・声が出ない・・・?大丈夫か?喉痛い?」
かぶりを振って、自分でもよくわからなかったので首を傾げてみせた。
「ふ・・・可愛いな・・・。」
夕陽はそう言いながらまたベッドに腰かけて、少し考えてからスマホで何かを調べ始めた。
「薫、気を失う前のこと覚えてるか?たぶん・・・主人格と違う人格混じってたと思うんだけど・・・」
気を失う・・・?
俺はよくわからなくてまた首を振った。
「そうか・・・とりあえず、まだ昼間だし・・・担当医の先生に電話して聞いてみるな。」
夕陽は終始落ち着いた様子で、淡々とスマホを操作していたけど、何かどこか・・・いつもの彼とは違う気もした。
彼が電話をしている間、喉が渇いたのでキッチンへと向かった。
水を飲んでダイニングテーブルの椅子に腰かけると、テーブルには割れたスマホカバーと、ボロボロになった保護フィルムが置かれていた。
そして足元には、フローリングが一部若干へこんでいるのを確認した。
え・・・・・・どうしよ・・・敷金が・・・
テーブルに置かれたボロボロになったそれらは自分のもので、けど眠る前のことは依然として思い返せなかった。
というか、思い出したくない気がした。
それより起きる前に、すごく嬉しくなるようないい夢を見ていた気がする。
でも思い出せない・・・・
俺、このまま空っぽになっていくのかな。
夕陽のことまで、忘れちゃったりするのかな・・・。
わずかに寝室から通話する夕陽の声が聞こえる。静かなリビングではベランダから日が差して、俺の心境とは真逆の気持ちのいい晴れた空だ。
クリスマスが近づいてる。
こうなる前、夕陽と何か予定を立てていたはずなのに、それすらも曖昧だ。
ああ・・・そっか・・・全部忘れてしまうくらいなら、全部覚えていて傷ついていた方がましだったんだ。
けど・・・傷ついて苦しんでる時はきっと、全部忘れたいって思うはずで・・・
「薫・・・」
彼の声に振り返ると、いつもと変わりない体を装う夕陽は、椅子を引いて向かいに座った。
「事情を説明したら、予定は来週だったけど明日来てくださいって話になったわ。」
俺はとりあえず頷いた。
「薫・・・今は気分どうだ?気持ち悪かったりしないか?何か話せる自分の気持ちがあったら聞かせてほしい。スマホに打ち込んで筆談でいいから。」
自分の気持ち・・・・
俺は渡されたスマホを眺めて、また打ち込んだ。
自分の声が出なくなったことが、案外ショックでもなんでもなかった。
夕陽に書いた文章をさっと見せると、彼はまた優しい笑顔を見せてくれた。
「そっか、そういえばもう昼なのに何も食べてなかったな。なんか作るか!待ってろ。」
そうしてキッチンへと向かう彼の背中を追った。
夕陽はついて歩く俺を振り返って、一瞬堪えるような表情をした後、俺をぎゅっと抱きしめた。
「薫・・・大好きだよ。」
少しかすれた色っぽい低い声が、言葉で伝えきれない何かを、耳元で撫でるように響かせていた。
俺は声が出ない代わりに、そっと彼にキスをした。
夕陽も気持ちを返すように何度も重ねてくれた。
柔らかくて温かい感触が気持ちいい。彼は甘いキスをするのがホントにうまくて、言葉にしなくても夕陽の中にある気持ちが伝わってくる。
幸せだなぁ・・・
キスをしている時は、夕陽の体の中に溶けていけるような感覚に陥って、周りの何もかもが消え去って、二人だけしかいないような時間が流れていた。
そっと唇を離して彼を見つめると、何故かその目から涙がこぼれていた。
俺が驚いて動けないでいると、夕陽はまたぎゅ~っと力を込めて俺を抱きしめた。
身長差があるがゆえに、その背中を丸めて屈んで、俺の肩に頭を預けて、苦しそうにするでもなく、その涙が静かにこぼれているのを感じながら、そっと腕を回して彼の背中をさすった。
夕陽・・・
心の中で彼を呼んだ。
どんな気持ちでいるのかわからないけど、夕陽が苦しいならいくらでも受け止めようと思った。
俺がたくさん涙を流していた時、一生懸命俺を解ろうとしてくれたのは夕陽だけだから。
言葉にして声をかけられなくとも、触れ合って伝えていたかった。
涙を止められないならずっと、このまま抱きしめているから
俺に言わないでいてくれる不安や、悲しさを・・・俺のために飲み込んでくれているなら、俺だって同じくらい夕陽を護るために生きるから。
どれ程そうしていたかわからないけど、やがて彼はパッと顔を上げてまた笑顔を向けてくれた。
気を取り直したようにホットケーキミックスの粉を取り出して、パッケージに載っているようなふわっふわなホットケーキを作ってみせると意気込んだ。
俺は一生懸命ボウルで混ぜる彼の横で、ウインナーを小さく切った。
夕陽がフライパンに生地を流しいれて、丸い綺麗なそこにウインナーをポツポツ落とし入れた。
彼は不思議そうにしていたけど、アメリカンドッグみたいになるのか?と楽しみにしていた。
3枚ほど綺麗にやけたホットケーキは、上出来だったけど夕陽は少し不満そうだった。
「・・・ふわっふわにならなかったなぁ・・・あれはどういう裏技なんだろ・・・」
苦笑いを返して、ポケットに入れていたスマホを取り出して打ち込み、彼に見せた。
「・・・・へぇ!メレンゲとヨーグルトかぁ!薫よく知ってんなぁ。」
俺が得意気な笑みを見せると、夕陽はまたデレデレした顔をしながら俺を抱きしめる。
「あ~も~可愛い・・・好き・・・。薫・・・食べ終わったらエッチしよ。」
その言葉に思わずドキ!っと心臓が跳ねて、顔を覗き込まれて視線を逸らせた。
「・・・あれ~?その顔はなんか煽られてんのかなぁ?食べる前にもうしたいの?」
俺は慌てて首を振って、皿に乗せたホットケーキを持ってテーブルに逃げた。




