忌名
「狭い…」
当たり前だ。
「ここは配所だ。贅沢などできるはずがない」
板張りの部屋が一つに、何も入っていない物置が一つ。板戸で仕切られている。
「ここに住まわせてもらう」
「なぜ!」
女が物置を指した。
「わたしはこちらで寝る」
「ここには郎党を寝かせている」
「主従で部屋に寝ればいい」
当麻太郎が口をはさんだ。
「わたしはかまいませんよ」
当麻を無視して女に声を荒げた。
「だからなぜ!」
「おまえのせいだから」
「わしが何をした!」
「何もしなかった!」
「どういうことだ!」
「太刀で切り落としたのはやりすぎでも、男が強引に御簾の中に入ってくることはある。しかし御簾の中に入っていながらそのまま出ていく男など聞いたことがない!」
たしかにそうではある。範頼のしたことは女を裸にしてそのまま部屋を出ていったようなものだ。
「そちらの態度も良くはなかった」
「あれは、そういうものだ」
少なくとも京においては、まず男が女に言い寄り、女は手厳しくはねつける。そうしないとその女は「はしたない」ことになってしまう。それでも男が言い寄っていき、女がはねつけ…、をくり返して、なんとか落とし所を見つけていくのが常識だ。
武家の文化に育った範頼には、女にどんな恥をかかせたか、何よりも女の方から押し掛けてくることが彼女にとってどんなに屈辱的なことなのか、よくわかっていない。
「三河の守は、その女がよほどひどい面相だったから何もせずに帰ったのだと…。その女は、まるで猫にまたいでいかれた魚のようだと…。わたしは都中で『猫またぎ』とか噂されるようになった! こんな評判が立ったら婿取りなんかできやしない!」
「しかし、家族は…」
「散り散りになった。侍女たちが我が家を見限って出ていったからだ」
武家の主従とは違う。主のほうでも勝手に暇を出すかわりに、家来も「この家は駄目だ」と思えばさっさとよそに移る。そういうものだから仕方がない。範頼にはいいこととは思えなかったが、少なくとも主家のまきぞえで多くの人が死ぬことはなさそうだ。平家の滅亡を話したときの彼女の反応を思い出した。
「それで、京からこの伊豆まで歩いてきた。おまえのせいなのだから当然わたしの面倒を見なければならない!」
女がひとりで、どうやってここまで旅してこられたのか…。さすがにそれを聞くことはできなかった。
「しかし、そのうちかけは…」
「この土地には温泉がある。堀川の大臣の三の姫が湯治に来ていた」
「まさか…」
「湯に浸かっている間に拝借した」
入浴中の若い女の衣服を盗むなど、若い女のすることだろうか。
「その…、猫又の姫君」
「わたしは妖怪ではない」
「猫またぎの姫」
「その呼び名は嫌いだ。わたしには名前がある!」
……。
待ったが、女は黙ってこちらをにらんでいる。なぜ次のことばを出さないのだろう。
「あの…。もし嫌でないのなら、殿から聞いてください」
当麻が口をはさんだ。
「だまれ下郎!」
女は、こちらを睨みながら当麻を怒鳴った。
「きさま…」
武家の主従関係は公家とは違う。目の前で女に己の郎党を罵倒されて黙ってはいられない。
「殿! まず名前を聞いて下さい! それからです!」
この男はなぜ必死なのだろうか。
「名をなんという」
「今まで通りあちらには郎党を寝かせればいい。わたしはここで寝る」
そういう名前ではないだろう。この女は何を言っているのか。
「わしはどこで寝ればいいのだ」
女は目をそらした。
「自分で決めればいい」
それは、そうだろう。
「殿…」
当麻が疲れた声を出した。範頼はまるで無頓着であるが、公家の社会では、女子の名前は家族しか知らない。うかつに本名をひとに知られると呪にかけられると信じられていたからだ。
鎌倉でも、頼朝の妻の名前は現代に伝わっているが、娘の名は知られていない。「大姫」というのは「大きい姫君」つまり「長女」という意味の普通名詞でしかない。
家族しか知らないのなら、男が女の名を聞くのは「おれの家族になれ」という意味だ。無論、女が聞かれもせずに男に名を言うことなどできないのである。
「それで、名前は…」
「後で言う」
女は、当麻をちらりと見た。
女は名を「ふうし」といった。「風」の「子」と書くそうだ。
だが風子は、当麻のいるところでその名を呼ばれることを嫌がった。
そこで再会した場所にちなんで、彼女を「楓」と呼ぶようになった。
無論範頼自身が流人であり、贅沢などさせられるはずもない。
しかし自身が京からここに来るまでに辛酸を嘗めさせられたためか、楓は食事などに文句を言うことはなかった。
もっとも、着物だけはあの盗品を着ていた。
「殿の前では、身なりだけはしっかりしたいんですよ」
当麻は笑って言うが、窃盗はよくない。
風子は生活に不満を言うことはなかったが、やはり公家の元姫君だけあって仕事をしようとはしなかった。
もっとも、範頼の世話は当麻太郎ひとりで十分なため、何かしてほしいということはない。毎日、部屋に座ってしゃべっているだけだ。
「楓、ここはいいところだろう」
「絵も琴も物語も、雅たものは何もないが」
修善寺だけではないが、風子にとっての「文化」は、このころには京にしかない。
「合戦もなければ気苦労もない」
「若い男もいない」
「若い女もいない」
「わたしがいる」
失言だった。
「わたしはもはや若い女ではないのか?」
「悪かった。怒るな」
「退屈だ」
「戦や政で本当に苦しい時は、退屈など感じなかった」
「わたしもそうだ。京からここまでの道中では退屈どころじゃなかった」
「退屈なのは平穏な証拠だ」
「やはり、もっと若い女がいたほうがいいのか」
「くどい。妬いているのか」
「うぬぼれるな。若い女なら、ずいぶん前に湯治に来た女がいたな」
窃盗の被害者である。
「その女は服を盗まれてどうしたのだろう」
範頼は風子の着ている豪奢な着物を見た。これだけのものを着ていた女だ。侍女がすぐ着替えを持ってきただろう。
「侍女たちは姫が強盗に遭ったと巻き添えを恐れ、姫の着替えを持って逃げ散った」
やはり、公家の主従関係などそんなものかもしれない。
「下着は残しておいたのだろうな」
「全て持ち出した」
「その前におまえが着ていた着物は…」
「捨てた」
「残しておかなかったのか」
「そんなことをする必要はない」
「では、その姫は…」
ひとりで、見知らぬ土地で丸裸で取り残されてしまったのか。
その時の絶望感を想像して胸が痛くなった。武士は名誉を重んじる。見も知らぬ他人のことでも、屈辱に苛まれる話など聞きたくない。
「それで、姫君はどうなった」
「そこまでは知らない」
この風子は、お姫様育ちのせいか苦労をした後でも、ひとの気持ちを想像できないところがある。
「おまえに、女の気持ちを推し量ることなどできるか」
風子は、金糸銀糸をふんだんに使ったうちかけのまま、範頼の横にごろりと横になった。
「寝る」
まだ昼間だぞ。