政子
「御所様、ただいまもどりました」
板の間敷きの質素な床に安坐して平伏した。顔を上げると、整った顔が苦り切っているのが見える。
「この書状は何だ」
頼朝が一枚の紙を取りだした。
「わたくしは九郎を討つべきではないと存じます」
頼朝から、奥州に落ちていった義経を追討せよとの命令が来た。それに対して範頼は言葉を尽くして誰か他の者に命じるように書き送ったのだ。
「臆したか」
「そうではありませぬ。源氏の一族はそもそも…」
いきなり板戸が開いた。政子が入ってきたのである。
「蒲どの、あなたは何者か」
上座に座った政子に平伏しながら、「大姫についていればいいのに」と思った。娘を放り出してまで聞かなければならないことだろうか。こういうところが気ぶれの娘にさえ疎まれるのだ。
「くり返して問う。あなたは何者か」
「鎌倉殿の家人でござる」
「鎌倉殿」を強調してみたが、政子は気にしていないようだ。
「そうであろう。ならば、鎌倉殿の命に背くなど許されない」
「しかし、源氏の一族は…」
言いかけてやめた。政子に聞かせられる話ではない。
源氏の歴史は共食いの歴史である。
まず、頼朝と自分の父である義朝は、その父為義を殺している。
いくら戦乱の世の中だとしても、こんなことは滅多にあることではない。
義朝自身は平治の乱の敗戦後、年来の家人である長田忠致、景致父子に入浴中に惨殺された。
さらに、頼朝自身が従兄弟である木曽義仲を殺し、叔父の新宮行家を殺し…、長田忠致と景致など、義朝の墓前で土磔にしている。
言いかけてやめた範頼に政子が言葉を続けた。
「源氏には源氏のやり方があります。平家は一門の者を大事にあつかった。しかしそれが一族の者の甘えを呼び、ついに滅亡した。源氏においては、主はお一人。たとえ弟といえども家人の一人として鎌倉殿に忠節を尽くさなければなりませぬ」
しかし源氏一門は、平家のような、夕日が沈んでいくような荘厳な終わり方はできないだろう。
範頼もこの時代の武士らしく、仏道の知識は常識として持っている。「諸行無常」「盛者必滅」などといったことは、ごく当たり前のこととしてとらえている。当然のことだが、自分たちの一族もいつか滅びるだろう。
おそらく源氏の一門は、共食いの果てに、ついに一人もいなくなってしまうのではないか。
しかし、夕日のような終わり方はできない代わりに、家人、郎党をまきぞえにはしないだろう。源氏の一族が一人もいなくなった後でも、御家人どもは普通に生きているのではあるまいか。
「蒲どの! 聞いているのですか!」
政子が高い声で叫んだ。まただ。不快だ。
だいたい、政子に源氏のあり方について語られる筋合いはない。北條は平家の傍流である。
頼朝の顔を見た。さっきの苦り切った顔から、ひどく無表情になっている。何を考えているのか。
少なくとも妻が自分を庇っているとは思わないだろう。武家の棟梁として、それではあまりにも情けない。
しかし頼朝が、北條氏に気を使わなければならないことはわかる。坂東は源氏の基盤であったが、父親の為義が平治の乱で破れたため、坂東の豪族たちは北條氏も含めてみな平家についた。つまり、源氏と坂東武者たちのつながりが、一度は途絶えたのである。
西国からの権力である平家と戦うために、坂東の豪族たちは頼朝の下に集まったものの、これは先祖伝来の譜代の家臣としての忠誠心とは違うものだ。
権力とは味方の多さによって決まる。石橋山の敗戦のあと急に味方の数が膨れあがったが、本物の忠誠心があるなら戦う前から駆けつけるべきではないか。そして「源氏」に味方している御家人たちの本音を、範頼は屋島の滞陣でいやというほど思い知らされた。
頼朝と政子は相思相愛だと言われている。たしかに政子の父時政は、平家の支流にかかわらず源氏側についた。娘が愛した婿のためだと言われる。
政子はひどいやきもちやきだと言う。頼朝が亀の前という妾を囲っていたことに気づき、彼女が住んでいた屋敷を打ち壊した。
頼朝が、自分が面倒を見ている女一人も守れないことを満天下に知らしめた。
しかしそれは、女としての嫉妬や独占欲から起こした行動だろうか。
自分が義朝の六男であり、義経が九男である通り、もともと武将は子沢山である。
それは家督をつぐ男子が若死にした場合の予備という側面もあるが、有力な武将が多ければ一族の力になるからだ。
無論ひとりの女性が産むことができる人数には限りがある。妻のほか複数の妾が必要になる。
しかし政子は、自分以外の女が頼朝の子を産むのが許せないのではないか。
それだけなら人として当然の情だとは言える。
しかし北條一族は、富や位階には執着しないかわりに、力には妄執する。権力の亡者だ。
要するに政子は、北條の血をひかぬ女が源氏の子の母親になることを氏族のために警戒しているのではないか。
できれば、今いる源氏の一族で北條の血をうけついでいない者も全て排除したいのだろう。
源氏の一族の自分に弟の九郎を討てと叫んでいるのもそのためか。
もう一度頼朝の顔を見た。変わらぬ無表情だ。この頭のいい男は、今自分が考えたことなどとうの昔にわかっているのだろう。
しかしどうすることもできない。北條一族に見限られれば、蛭が小島の流人にもどされかねない。
だからこそ、自分の気がついていることを考えまいとすることで、矜持を保っているのではないだろうか。
範頼が黙ったままなのに郷を煮やしたのか、政子が声を放った。
「あなたの沙汰については追って御所さまから遣いを出します。それまで自邸で謹慎しているように!」
少し迷ったが、まず頼朝に向かって座礼をし、次いで政子に頭を下げて退出した。
あの、他氏族を一切顧みず、一門の者だけを大切にする姿勢を見ると北條氏はやはり平氏なのだという気がする。
この氏族が滅びる時は、相当な数の巻き添えが死ななければならないのではないだろうか。