大姫
それから七日のちのことである。範頼は鎌倉の御所の縁側を歩いていた。
あの日、京の宿に帰るとすぐに景時を上座に迎えて平伏した。
「お役目、ご苦労にござる」
「いやいやいや、三河の守様。鎌倉殿の弟君にそのようにされては困り申す…」
景時が慌てた振りをして手を振った。これ以上他の御家人たちからの評判を悪くしたくないのだろう。
「して、遣いの用向きは」
景時の都合などどうでもいい。範頼は背筋を伸ばして鎌倉一と言われる美男の顔を見た。
「御所が、すぐに鎌倉に下向せよとのことです」
この男は、頼朝の命の恩人ということになっている。
石橋山の合戦のあと、命からがら落ちた頼朝が洞窟に隠れていた。そこを景時がみつけたが、見逃したのだという。
敗戦直後は数人の供しか連れていなかった頼朝だったが、その後家人になりたいという豪族が次々にやってきて、たちまち数万の兵の大将となった。
石橋山の恩があるため景時は頼朝にとって特別の者となったが、彼は決しておごらず、御家人たちの動向を探るための密偵のような仕事を努めている。それだけ頼朝に信頼されているということではあるのだろう。
しかし、範頼はこの男があまり好きではない。
「命を助けた」ことは事実だろう。しかし洞窟に隠れていたところを見ないふりをしてもらったなど、頼朝にとって名誉なことではない。
ならばなぜそんなことを自分たちが知っているのか。
頼朝がそんなことを御家人たちに言ったりはするまい。ならば景時が言ったということになるが、主君の恥をわざわざ人に言いふらすことはないだろう。自分と頼朝だけが知っていればいいことではないか。
そんなことを思いながら歩いていると、背後からいきなり声をかけられた。
「あなた…、義高さまがどこにいるか知らない…」
美しい少女である。しかし、豪奢な着物をひきずっている。足元がふらふらしている。目の焦点が合っていない。どこか遠くを見ているような気がする。
「義高さまは、どこ…」
何と返事をするべきかわからない。少女はいきなり激昂した。
「知らないのか! 知っているのか知らないのか! 言え!」
「存じませぬ」
「何でみんなそう言うんだ! うそだ! みんなうそをついてるんだ! わたしに隠しているんだ! おまえ、何を知っている! 言え! 言え!」
頼朝にとっては従兄弟の子であり、この少女にとっては、はとこにあたる源義高は、木曽義仲の嫡男であった。
少女の許嫁という名目で鎌倉に送られてきたが、実質は人質だった。義仲が頼朝と敵対し討ち死にすると、頼朝は御家人の藤内光澄に義高を殺させた。
「大姫! 何をしているのです!」
金切り声が聞こえた。女の大声を聞くというのは…、快くはない。
振り返った。
肌が大変黄色く、決して背が高い方ではないが顔の造作の一つ一つが大きい。この少女の母親、北條政子である。少女は政子にほとんど似ていない。父親の頼朝に似ている。
「御台様。ただいまもどりましてございます」
範頼は立ったまま頭を下げた。
平伏すべきであろうが、政子はこの場を早く収束させたがっている。
「蒲どの! ご苦労でした! すぐに御所さまとお会いになって下さい!」
政子が大姫の腕をつかんでひきずっていく。
形だけの許嫁だと周囲は考えていたが、義高の死を聞いて大姫は病に伏すようになった。
今では、起きあがっては御所の中をうろつき、誰彼となく義高の所在を尋ねる。
義高の死後、大姫を入内させようという計画があったが、あの乱心の姫を宮中に入れなどしたらいい笑い者だ。
もっとも「気がふれているのはこの姫ではないのではないか」という気もする。
義高が死に、政子は大姫の容態があまりにも悪いのを見て、頼朝の命によって義高を討った藤内光澄に腹を切らせた。
さらに、病床の大姫に「義高の仇を討ってやった」と、光澄の首を見せたのである。
大姫の両親は、こんなことをして病気が治るとでも思ったのか。
ただ悲しみにくれていた大姫が、完全におかしくなった。