一ノ谷
強い潮の匂い。人馬ともに吹き飛ばされそうなほどの浜風。
喊声。馬のいななき。武者の叫び声。小者のわめき声。血のにおいが潮のにおいにまじり、強い風に吹かれて拡散する。
金属と金属が打ち合う音。金属が肉をつぶす音。金属が骨を叩き切る音。
これらの視覚、聴覚、嗅覚が入りまじって範頼の肉体に直接ぶちこまれてくる。
治承八年二月七日、摂津の国一ノ谷付近で平家勢約二万と源氏勢五千が激突した。
いや、激突したというより多勢の平家が小勢の源氏に襲いかかったといった方が正しい。
源氏勢の主将である範頼は、むろんこんな無策を採りたくはなかった。しかし抜け駆けの功名を狙った熊谷直実、直家親子と平山季重らがたった五騎で平家の陣営に突出し、それに土肥実平勢が呼応して攻撃。激戦が始まってしまったのである。
戦前には、義仲に都を追われた平家は西国の国人にも見放され、わずかな数が本営を守っているなどという楽観論も出ていた。しかしこちらを遮る平家勢は数十万にも見える。範頼のまわりでは敵味方が入り乱れて戦っているが、その向うの平家の本陣はぴくりとも動揺していない。
平家の背後は切り立った崖。源氏の背後には何もない。そして平家は左側に回転しながらこちらを海岸に追いつめようとしている。このままでは源氏勢全てが須磨の海に追い落とされてしまう。
海上には、赤旗を靡かせた数え切れないほどの大船、小舟が浮かんでいる。海岸に追われ陸と海から矢を射かけられれば、この平らに凪いだ海はたちまち源氏武者の血で地獄のように染まるだろう。
数、戦立て、地形、全てにおいて不利であった。
大軍に兵法なしという。しかし小軍にも兵法などない。今は声を涸らして味方を叱咤するしかない。
「者ども、押せやぁっ! 押せやぁぁっ!」
囲まれる前にいったん退くなどということはできない。今それをやろうとすれば退却は敗走になり、潰走になり、ついには味方からも捨てられ、義仲のように名もない武者に討ち取られてしまうであろう。
「平家の将がよりどりみどりじゃ。首を討って手柄にせい! 平家の公達の白粉首、鎌倉殿にお見せするのじゃ。金銀でも馬でも田畑でも、恩賞は思いのままぞ!」
多勢の敵に囲まれるのを防ぐ方法は一つしかない。押しつつもうとしてくる敵勢の一点を攻撃し貫通する。反転して後方から敵陣を抜く。裁縫針のように運動、これを幾度となく繰り返すのである。しかしこの狭い場所で突進力を利用した運動はできない。だいいち、頼朝にこそ臣下の礼を取っている後家人どもであるが、その弟でしかない自分の命によって、そんな全軍の生け贄になるような真似はするまい。
今はただ前に向かってひたすらに押していくしかない。
そう思って前に出過ぎた。
「鎌倉殿の弟君、蒲の冠者源範頼公とお見受けいたす。須磨の国の住人、板宿の十郎直高と申す。いざ、見参せん!」
さっそく出た。名もない武者が。となりで郎党の当麻太郎がのんきな声を出した。
「殿、みごとな敵ですなあ」
見事すぎる。名もないとはいえ雲つくような大男だ。しかし避けることはできない。この苦戦の中で主将が下がれば、敗色の濃い源氏勢は一気に瓦解するであろう。名前は忘れたが、目の前の大男に突進した。向こうも突進してくる。激突した。馬はこちらが優勢のようだ。衝撃で敵がふらつく。太刀を抜いて振り下ろした。剣術など生まれるのははるかな後世である。振り下ろす力と太刀ゆきの速さだけが生死を決める。敵はかろうじて太刀で受け止めた。しかし相手は姿勢を崩している。手綱を離して両脚で馬の胴をはさみつけた。両手で柄を握り、ひたすら押してゆく。鐙の上に立ち上がった。敵は体をひねって逃れようとする。左手を柄から離した。相手の太刀を押す力が減ずる。敵が一気に体を返した。空いた左手で脇差しを抜く。鎧の隙間から脇を突いた。
「ぐかっ…」
大男の敵が苦悶の声とともに落馬した。
「殿、首を…」
「放っておけ」
それどころではない。
「押せぇぇっ! 死ぬ気でおせえっっっ!」
とにかく前身の姿勢を捨てないことだ。一尺でも一寸でも前に出るしかない。
範頼の廻りを次々に武者が囲み始めた。
「やあやあ、遠からん者は…」
「われこそは摂津の国の住人…」
「いざ尋常に…」
「源範頼公とお見受け…」
名もない武者が雲霞のように現れた。同時に叫ぶものだから切れ切れにしか聞こえない。
しかしここで足を止めるわけにはいかない。抜き身の太刀を振るいながら突進する。前方の敵が斬りかかってくる。馬を止めない。太刀を太刀で横ざまにぶったたいた。討つつもりはない。敵をいなしながら囲みを抜けた。こんなことをしても壊滅の時を伸ばすだけだろう。それでも敵の本陣に向かって進むしかない。
本陣を見た。
遠い。かわらぬ静けさを保っている。範頼は死を覚悟した。
「合戦で死ぬのは武士のほまれ…」
心で言い聞かせた。
その時、平家の本陣の背後に何かが降ってきた。
それは範頼には「降ってきた」としか見えなかった。
人か? いや、人があんなところから降ってくるわけがない。天狗か? いや、人馬のようだ。人馬が次々に敵の後ろに降ってきて着地する。
本陣から火の手が上がった。どこかから叫び声がした。
「源氏御曹司じゃ!」
「九郎御曹司の手勢ぞ!」
九郎義経? あの異母弟の九郎か? あの、わずか七十騎を率いて別行動を取った九郎か? 敵に巡り会えなければ山中で自刃するとか言っていたあの男か?
そして、範頼たちがいくら攻めても指一本触れられなかった本陣が壊乱している。
小者たちが右往左往しているのが見える。主を乗せていない馬が走りまわっている。
一人、赤糸威の金ピカの大鎧を着た武者が、兜も被らず小者も連れずに飛び出してきた。そのまま岸に向かって走る。海に飛びこみ、船に向かって泳ぎだした。次々に本陣から武者が飛び出し、岸に向かって走る。
武士たちは大将に見てもらうために戦う。大将の前で敵を倒し、褒美を得るのだ。大将がいないのに討ち死にしたら死に損である。平家の武者たちが馬頭を返して船に向かう。そこを源氏勢がかさにかかって攻めたてる。最初は余裕があった平家勢だったが船に上る順番を巡って争いが始まり、そこに後からやってきた武者たちが加わり、混乱に拍車をかけた。混乱は壊乱となり、一ノ谷の勝敗が決した。