幻影
山を歩いている。
山は山だ。道などはない。秋が深まっているのだろうか。暖国とはいえ早朝の山は肌寒い。
歩く。歩く。歩く。
歩きにくい斜面を進む。行く当てなどはない。歩きたいから歩く。蒲の冠者は、ずいぶん前から目当てなど持って生きることをやめてしまった。
前方に赤いものが見えた。
久しぶりに好奇心が湧いた。あそこまで歩いてみよう。
目的ができるとともに、玉のような汗が噴き出した。さっきまでの肌寒さなどもう感じない。
雑木に囲まれてそれはあった。
みごとな楓が燃えるように紅葉している。
ここの空間だけが切り取られているような気がする。
一陣の風が頬を撫でた。
目の前に女が出現した。
無論、樹上を見ている間に幹の陰から出たに違いないのだが、幻のように現れたようにしか見えなかった。
女は、美しかった。
京で女たちが着ていた装束のようなものを身につけている。
雛のものとも思えない上品な顔立ち。透き通った肌は吸い込まれそうなほどに白い。しかしその眼ははっきりとした怒りをこめてこちらを見ている。
その衣服は外を出歩くためのものとは思えない。
人間ではないだろう。
狐狸か。亡魂のたぐいか。
腰を落として右に回転させる。左手で太刀を引き寄せ親指を鍔に当てた。
桜の花びらのような唇が動いた。
ちぎりきらぬ仲を修善寺御簾のうらきりし男に責めをおはさむ