喪失の果て
秋の夜である。夜はいっそう長くなりいっそう肌寒むくなった。
暖炉に火を入れた。暖かい火を見ると心が落ち着く気がした。
使用人にお茶を持ってきてもらい二人で一息ついた。
最初は当たり障りなく体調のことを尋ねた。彼女は曖昧に笑みを浮かべて「最近は落ち着いてきました。幻聴の方も」と答えた。しかし,やはりその表情に違和感を感じずにはいれらなかった。
「今のあなたは以前とどこか違う気がするのです」
どう話せばいいのか分からず結局率直に尋ねてしまった。
急にこんなことを言われれば普通の人間なら驚いた表情をするものだ。あるいは,馬鹿なことを言うなと怒ったり,何の冗談だと呆れたりするかもしれない。しかし,ファレンは違った。彼女は,まるで魂が抜けてしまったかのように,その顔面から色というものが抜けてしまった。
ファレンの表情は無気力なものだった。ずっと以前から感情を表に出すやり方を忘れてしまっていたかのように。その表情を見た途端理解した。症状が落ち着いた? 私は何を楽観的に考えていたのだ。
ファレンは落ち着き払った様子で口を開いた。
「何を楽しいと感じていたのか,どうやって心から笑っていたのか,思い出せないのです」
その言葉を聞いて私は背筋が凍る思いがした。やはりか,という思いだった。
「……今の自分のことをどう感じますか」
私は尋ねた。彼女は抑揚のない声で答えた。
「本当の自分というものがありません。別の誰かが,私の体を動かして,今も喋っている。私はそれを遠くから見ているような感じです」
「あなたの体を動かしているのは誰ですか」
彼女は首を振って言った。
「……分かりません。ですが私は彼女をよく知っている気がします」
「彼女? 女性なのですか」
「はい。きっと以前から知っていたように思います」
彼女の訴えは要領を得なかった。別人が自分の体を支配していて,しかもその人物を知っている気がするが分からないと言う。だが,要領を得ないのは当然なのかもしれない。私は質問を続けた。
「以前のように楽しいと感じられないのはその女性のせいですか」
「いいえ。彼女はきっと空っぽの私の体に入ってきただけなんです。私が世界の端っこに追い出されてしまったので,ちょうど空いた部屋に別の人が入るように,彼女がやって来ただけです。私は追い出されてしまったから,何も楽しめないんです。……以前は本を読んだりして,楽しいと感じていたはずなのに,今はただ記号の羅列があるだけにしか見えないんです」
ファレンは落ち込んだ様子で言った。私は彼女の訴えを十分には理解できなかったが“追い出された”という表現が気になった。
「世界の隅に追い出されたとは……なぜ追い出されてしまったのでしょうか」
私は苦し紛れにそう尋ねた。すると彼女はまるで虚無を見つめるような表情をした。
「それはきっと罰なんです。私は酷いことをしてしまった。とても許されないことをしたんです」
「それは一体……」
「分かりません,私は知らないんです。なぜ,そんなことをお聞きになるのですか」
彼女は声を荒らげて言った。突然の過剰な反応に私は驚いた。そして,同時に確信を持った。彼女は自分の罪の意識をある人物に結びつけている。彼女がそこまで自分を追い詰めてしまう人物は一人しかいない。
その人物の名を告げるべきか迷った。きっと彼女の心を乱すに違いない。
だが,事件を解決するためには必要なことだった。ファレンは真相を知っている。
「……パトリシア嬢ですね。あなたが罪の意識を抱いているのは」
ファレンは絶望を顔に浮かべ,手に持っていたカップを取り落とした。カップは音を立てて割れた。彼女は声にならない叫びを上げながら,自分の身を守るかのように頭を抱えてうずくまった。
「お嬢様……申し訳ございません。お嬢様……」
そして,すすり泣きながら,呻くように主人を呼んだ。
私はなるべく自分を落ち着かせて話しかけた。
「ファレン,私は何も知りません。本当に何があったのか全くわからないのです。ですが,パトリシア嬢のことはあなたのせいではありません。あなたがそんなことをするはずがありません」
私は一つの可能性を以前から考えていた。それは調査を進めるにつれ,そして,時間が経つにつれ確信に近くなっていった。
パトリシア嬢はその失踪した夜に死んでしまったのだ。そして,遺体が見つからないのは,誰かがそれを隠したのだ。
これまで私の問いかけに対しては無表情しか見せなかった彼女がパトリシアのことについては強い反応を見せた。それは,彼女の言う“世界の端”で彼女が現実と結びつきを持てる唯一のことだからではないだろうか。私は呼びかけ続けた。
「ファレン,あなたの罰とはなんですか」
「……」
「聞いてください,ファレン。パトリシア嬢に何があったのですか」
「……」
ただ彼女は嗚咽を漏らしながら泣くばかりである。私の言葉は届かない様子だった。どうしたというのだろう。パトリシアの名を出した途端,こちらの言葉が聞こえなくなったかのようだ。
私は途方にくれてしまった。性急に過ぎたかもしれない。私は力なく呟いた。
「ファレン,あの夜に何があったのです……」
すると,彼女は急に顔を上げて,恐怖に染まった表情で一点を見つめた。
「分からない……どうしてお嬢様が倒れて,すごい血が……こんな記憶,私にはないのに! 助けなきゃいけなかった。私達は助けようと」
ファレンは震えながら独り言のように言った。様子がおかしい。急に取り憑かれたような必死さで彼女は何かを訴えた。その様子に私は心当たりがあった。自分の知らない記憶にまるで侵食されるかのような……。私は彼女の元に駆け寄った。
「いけません,ファレン! それはあなたの記憶ではない! 見てはいけない!」
「いや,いや,私は違う! こんなことは違う!」
まるで発作を起こしたかのようだ。私は彼女を抱き止めて動きを封じようとした。暴れてカップの破片で怪我をしないとも限らなかった。
暴れる力はどんどんと強まり,ついには私の拘束から逃れてしまった。そして私を押しのけると,まるで引き寄せられるかのように,カップの破片に目をやった。
直感的にまずいと思った。
「やめ……」
破片に手を伸ばそうとして……ファレンは急にガクリと力を失った。
「踏み込みすぎだルシア」
ファレンの体を唐突に姿を現したリネルが支えていた。
リネルと二人でファレンを彼女の部屋へ運んだ。物音を聞きつけてメイドが様子を見に来たが,彼女には急にファレンの発作が起きたと伝えて,部屋の片付けを頼んだ。
ファレンをベッドに寝かせた。疲弊した私はベッド脇の椅子に腰を落とした。彼女は明らかに自分の命を絶とうとしていた。もし,リネルが止めてくれなければ,どうなっていたか……。
私は黙ったままのリネルに問いかけた。
「いつから聞いていたのです」
「この娘を談話室へお前が連れて行った所からだ」
どうやら最初から付いてきていたらしい。彼は,私がなぜと問う前に,理由を言った。
「前からこの娘の正体については気になっていたからな。お前との会話で何か掴めればと思っていた」
「何か分かりましたか」
「パトリシアの名を出したとき娘の魔力の流れが変わった。それで見当がついた。この娘はレイメルの生き残りだ」
私はため息をつきながら項垂れた。
「確かですか」
「昔レイメルの者に会ったことがある。あの嫌な感じは忘れない。お前もその可能性を考えなかった訳ではあるまい」
「ええ。嫌な予想が当たりました」
そもそもファレンにはおかしな所があった。庶民にしては上品な振る舞いであること,ラングモア家に拾われる前の記憶がないこと,パトリシアの日記での年のズレ,ヴェスターが彼女をさらったこと。これらはファレンがレイメル家の令嬢だとすれば説明がつく。かの家が取り潰しを受けたのは三年前。それゆえ,ラングモア家に拾われた年を一年ずらすために認識改変の魔法をかの家の者たちに使ったのだろう。ヴェスターがファレンをさらったのは,ブロンスト家とともにレイメル家の生き残りを探していたからだろう。彼女の背格好や年頃がちょうど探していた娘の特徴に合致していたのだろう。
「ですが,ファレンは確かに記憶を失っています。彼女が嘘をついているとは思えません。レイメル家の者が記憶操作を施したとしても,その状態で大切な生き残りを外界に放り出すとは考えにくい」
「だから協力者をつけたのだろうな。この娘を守るために」
「エルフィ……」
リネルは頷いた。
「今まで姿が見えないところを見ると,どうやら認識をイジる魔法が得意のようだな。おそらく人間だろうが,魔族のようなやつだ」
「あなたが言っていた魔族の気配とやらは」
「ああ,その娘の可能性が高い。どういう外法を使ったのか知らんが,レイメルのことだロクでもない方法だろう」
私はファレンの寝顔を横目で見た。今はリネルの魔法で眠らせている。うまく魔法を掛けてくれたのだろう穏やかな表情で眠っている。普段は従者然として大人びた感じの彼女であるが,こうして眠る姿を見ると年相応に幼い。こんな娘に一族の命運を背負わせるなど以ての外だ。
「ファレンはどこまで分かっているのでしょうか。記憶の混濁が見られました。その上,彼女は自らの命まで絶とうとした」
「さあな。短期ならともかく,長期の記憶操作などロクでもないものに決まっている。精神が不安定になってもおかしくはないだろう。それこそ,貴様の不用意な発言で安定を欠くぐらいにはな」
そう言ってリネルはいつものように意地悪く言うが,今の私には言い返す気力もなかった。
「……調子が狂うな。何をふさぎ込んでいるのだ,貴様らしくもない」
「あやうく彼女を死なせるところでした」
一歩間違えれば,今私が見ているのは彼女の死顔だったかもしれない。そう思うと鉛のように頭が重たくなった。
「案外神経質なのだな。……どんな人間であれ,生きるも死ぬも運次第だ。この娘は運が良かった。貴様が今生きているのと同じくらいにな。それだけのことだろう」
リネルはなんでも無いかのように言った。彼らしいはっきりした物言いだった。しかし,そのぶっきらぼうな言い方の中に気遣いを感じて私は少し気分が軽くなった。
「……そうかもしれませんね」
「ふん」
彼は鼻を鳴らすとスタスタと部屋を出ていった。
リネルが帰ってしまった後,私はファレンの様子を見守るために部屋に残っていた。しばらくすれば魔法の効果も切れて目覚めるはずだ。
「……あれ,私」
ファレンが目を覚ました。良かった発作は起こっていないようだ。
「お目覚めですか」
「ルシア様……申し訳ございません,いつの間に眠っていたのか……」
どうやら彼女は眠らされる直前のことを覚えていないらしかった。
「発作を起こしたのですよ。覚えていませんか?」
「……そうでしたか,またご迷惑をお掛けしてしまいました」
「よいのです,ファレン。私にはこのくらいしか出来ませんから」
そう言うと,ファレンは少し暗い顔をした。
「ですが,私には……ここまでして頂く価値などありません」
「そんなこと。貴方は貴方であることに価値があるのです」
ファレンは不思議そうな顔をした。急にこんなことを言われて驚いたのかも知れない。だが,ファレンを目の前で失いかけた私にしてみれば,紛れもない本心だった。
しかし,彼女の表情は優れなかった。
「私が発作を起こす前にお話ししたこと覚えていらっしゃいますか」
「……自分の体が他人に乗っ取られてしまったような感覚,でしたね」
私は慎重に答えた。
「はい。だから私はからっぽで,存在しないのも同然なんです」
「……ファレン」
「私がばらばらになってしまったのです。粉々に砕けた陶器みたいに。昔はあんなにちゃんとした形をしていたのに,今は無惨で惨めな破片となってごみ捨てに山積みにされている。もう,かけらを集めても元には戻せない,そんな屑の寄せ集めが私なんです」
彼女は抑揚のない声で言った。それは世界が大きく変わってしまったことの告白であった。どんなに恐ろしいことだろう,自我が粉々に砕けてしまった喪失感というのは。私は掛ける言葉が見つからなかった。
ファレンの手を取った。その細い手は氷のように冷たかった。
「……どうかあなたに救いがありますように」
祈りを聞き届けてくれる存在など依然として知らない。私に信心などない。それは前世の頃から変わらない。
かつて思い知ったことがある。それは,どんなに祈ったところで,神は我々を救いはしないということ。求める者に彼の者は与えないこと。そうでなければ,なぜ……。私はかつての家族の,顔も思い出せない彼女らのことを思った。
ファレンは複雑そうな顔をした。世界に見放された今の彼女に祈る行為は意味をなさないだろう。
しかし,もはや私にはこんなことしか出来ない。
壊れてしまった心はどんな力であっても,もう元に戻すことはできない。ここまで彼女の心が無惨にも打ち壊されたのは,ヴェスターにさらわれたことが原因ではない。古城でされた尋問のせいでもないだろう。ましてや,薬のせいでもない。それらはおそらくきっかけに過ぎなかったのだ。彼女の残酷な定めがそうさせるのだ。
人は絶望の中にあっては祈ることしかできない。……ずっと昔に同じような気持ちで祈ったことがある。そのときも,やはり,願いを叶えてくれる者はいなかった。




