幻覚
ファレンは薬を飲ませて眠らせた。暴れる彼女を拘束し何とか口に流し込んだのだ。驚いたことに,彼女は二日ほど飲まず食わずだったのにもかかわらず,拘束するのにマリアナとテトの二人の力が必要だった。薬湯を飲ませたのは私である。一体,その小さな体のどこにそんな体力が残っていたのかと思えるほどに,彼女は尋常ではない力で抵抗した。まるで悪霊でも取り憑いているかのような豹変ぶりに,私はゾッとしたものを感じずにはいられなかった。唯一幸いだったことは,彼女に水分を取らせることが出来たことである。多少は滋養もある薬湯だ。これでもう二三日は持つだろう。
ひとまずファレンを寝かしつけることが出来て一息つけた私は,アニヤたちにファレンの豹変について尋ねるのだった。
「ファレンさんが目覚めたのは,ほんのつい先程です」
アニヤは落ち着かない様子で答えた。いつもの元気さがなくどこか上の空な様子だった。無理もないだろう。ファレンの変わり様には私も驚いた。それを間近で目撃してしまった彼女にとってはショックも大きかっただろう。
「そのとき変わった様子は?」
「少しぼんやりしていました。体を半分起こさせましたが,こちらの呼びかけに反応がなくて。ただ目だけ開いて部屋をゆっくり見回していました」
「その後,急に豹変した」
「はい。部屋の隅をじっと見つめていたかと思うと急に叫びだして。マリアナさんとテトさんが来て抑えて下さらなければ,どうなっていたか分かりません……」
アニヤは少し震えながら答えた。見知った人間が急に豹変したら誰だって恐ろしい。
「彼女は何か言っていましたか。その,叫びだしたときに」
「近づかないで,と繰り返していました。ひどく怖がるように一点を見つめて。でも,そこには何もなかったんです」
「彼女は何かを見ていた,と?」
「はい。よほど恐ろしいものだったようです」
アニヤは困惑した表情で答えた。彼女にとっては訳の分からない状況だっただろう。
「その直後,様子はどうでしたか? 暴れたようですが」
「はい。ファレンさんは何かを振り払うような動きをずっとしていました。それが急に止まって,正面を見て何か見つけたような素振りをしたかと思うと,寝台の上を這いながら何かを掴もうと手を伸ばしていました。寝台から落ちてしまいそうだったので,止めようとしたんです。そしたらものすごい力で突き飛ばされてしまって。そのとき,マリアナさんたちが入ってきてファレンさんを止めてくれました」
「怪我はありませんでしたか」
私は心配になって尋ねた。どこか打撲してアザになってはいけない。
「大丈夫です。体はなんともありません」
「そうですか,よかった。……マリアナたちが拘束している間,彼女は何か言っていましたか」
彼女の返答に安堵した私は再び質問に戻った。
「ファレンさんはずっと,行かないで,と呟いていました。その声がなんだかとても気の毒になるほど寂しそうで……」
「なるほど,だいたい私が来るまでの様子がわかりました。幻覚を見ていたようですが幻覚の現れ方が普通ではないですね。ヴェスターたちが彼女に何をしたのか分かりませんが,薬物を使用した可能性もあります」
「そんな」
アニヤは悲しそうに表情を歪めた。
「……念の為に彼女を拘束しておきましょう。自分を傷つけないとも限らない」
私はその場に居たメイドに頼んで布を持ってきてもらった。いくつかに割いて,ファレンの四肢を縛るのにちょうど良いサイズにした。手首と足首に布を巻き寝台に縛る。まさか,彼女の拘束を解いたこの手で,彼女を再び縛り付けることになるとは。私はあまりの遣る瀬無さに怒りを覚えた。どうしてこんなことになるのか。
黙々と作業を進める私を,アニヤは悲痛な表情で見守っていた。
その後もファレンは何度か”発作”を起こした。あれから幻視はほとんど起こらなくなり,もっぱら幻聴が主な症状のようである。幻覚が出るのは主に目覚めの直後で,しばらくすると症状は落ち着く。発症中はこちらの声は聞こえなくなるようだが,落ち着くと意思疎通も可能となる。今の所,会話に違和感はない。落ち着いている時間には何不自由なく生活することが出来た。そのときは拘束も外して,屋敷の中で皆で茶会をしたりカードで遊んだりしていた。
幻覚の内容が変化したことが何を意味するか分からない。だが,幻覚そのものが消えないところを見ると,どうにも薬物の影響などではないようだ。古城から連れ出して数日経つ。薬を使われたとしても効果はとっくに切れている。となると今の幻覚症状は本人の精神的な問題のようだった。
症状が落ち着いているときに彼女に幻聴の内容を尋ねてみたことがある。彼女は苦しそうに顔を歪めながら声はパトリシアだと答えた。パトリシアが誰かに向かって話す声が延々と聞こえるのだという。内容はファレンの記憶にないものだった。ファレンは話の内容を言わなかった。理由を頑なに言わなかったが,私にはその必死な姿が主人の名誉を守るために秘密を守る忠実な使用人の姿に見えた。
ファレンは眠るのが怖いと言った。目覚めたら自分ではない別の誰かになってしまいそうな気がすると言った。自分がしたことのないはずのパトリシアとの会話が聞こえてしまう。自分のものではないはずの記憶が,どこからともなく現実に溢れ出てくるのは恐ろしいことだろう。私は慰めの言葉をかける他なかった。「あなたはあなたです。どうか偽りの声に囚われないで」。そんなようなことを言った気がする。
彼女の恐れはよく分かった。私も自分が自分でないような感覚を覚えたことは一度や二度ではない。黒フードの男に出会ったとき,まるで人体実験でもしているかのような不可解なイメージを私は見た。その時はあまりに現実離れしたイメージに,何故そのような映像をまるで自分の記憶のように持っているのかと強く戸惑った。そしてその時ほどでなくとも,昔から自分を他人と感じる感覚は時々覚えることがあった。その理由はまさしく私には前世の記憶というのがあるためで,この体が本来は私のものではなく“ルシア”という少年のものだったのではないかという疑いのためだ。この疑念は昔はよく私の背をぞっとさせたものだった。育った所が閉鎖的な環境のためもあったのだろう,学院に来てからはそのことを考えることは少なくなった。
「自分が自分でないのではという疑いほど恐ろしいものはありませんね」
眠れないというファレンに夜遅くまで話し相手として付き添っていたとき,彼女の何度目かになるか分からない「目覚めが恐ろしい」という呟きに私は咄嗟にそう答えていた。慰めの言葉にしては同情しすぎた物言いにファレンは戸惑ったようだった。私も口に出した後にしまったと思った。何とか誤魔化そうと必死に頭を働かせたが,結局言ってしまったものを有耶無耶に出来る方法は出てこなかった。私は仕方なく前世のことは伏せて過去の経験を話すことにした。
「変なことを言ってしまいました……。実は……私は昔から,自分のものではない記憶が頭をよぎることがあるのです。この世に生を受けてから今まで見たこともないような事柄を知っていることがあるのです。単なる妄想ならよいのですが,とてもそうは思えなくて。そんなときに,自分が他人のように思えて,ゾッとすることがあります」
「他人の記憶……」
「ええ。心配を掛けるので人に話したことはないですがね」
実際はユーフィアに前世のことを明かしてはいる。ただし,これは例外であり,そこまで付き合いの長くなかったユーフィアだからこそ秘密を明かせた。アニヤたちにも無理に明かす必要はないと思ってまだ言っていないし,ましてや,姉上たちやアンたちには尚更言えなかった。彼らに要らぬ心配を掛けたくはなかった。
「でも,ルシア様はしっかり生きておられます」
彼女は暗い表情で呟いた。その物言いは,まるで,自分は生きてなどいないとでも言うかのようだった。
「ファレン……何を仰るのです」
私は思わず問い返した。
「……世界が遠くなってしまったんです。何もかも,以前のように感じられないのです」
彼女は生気を失った声で訴えた。その悲痛な響きの中には,彼女の底しれぬ絶望があった。私はしばらく返事することができなかった。
「あの古城で何があったのです」
私がやっとの思いで口に出せたのはそんな問いかけだった。
「……薬を飲まされました。それから,夢心地のような気分になって……。レイメルという家について知っていることを話せと言われた気がします 。私はレイメルなんて聞いたこともないのに。それでも彼らはしつこく尋ねてきました。ですが,何度も尋問されるうちに,どうしてか,エルフィ,という名前を思わず言ってしまったのです。以前,ルシア様が見つけられたお嬢様の手紙に書かれていた名前です。その名前を口にしてから,段々と気が変になりました。その名前が頭から離れなくなって,意識がどんどんその名前で埋め尽くされて,それ以外考えられなくなってしまったのです。……その後は気を失っていたようで,気がついたらここで寝かされておりました」
それではまるでエルフィという名前が引き金となったかのようだ。私は慎重に質問を続けた。
「今はどうですか,その名前に心当たりは」
「分からないのです……私には何も……」
彼女は苦しそうに胸を抑えた。顔面が蒼白だった。私にはそれ以上質問を続ける勇気がなかった。話を打ち切ると,気分を落ち着かせる薬湯を人に頼んで持って来てもらった。ファレンは少しずつ湯を飲んだ。私は彼女にもう眠るように言った。
リンカーの屋敷に缶詰となっているものの調査は引き続き進めている。ファレンが拐われたことで一時保留となっていた,パトリシアの婚約者と思しきシザース家の嫡男のことである。洋湖亭にシザース家を調べてもらったところ,おそらく男子が一人居ただろう,という結論を得た。現在シザース家には子女は居るが子息は居ない認識となっているが,明らかに男子の服や持ち物があったという。かの家で男子が亡くなったという話は聞かない。おそらくは消えた嫡男のものと思われた。
加えて,推定されるパトリシアとの関係であるが,家同士の関係も良好であり,年の頃もちょうど合うだろうと思われ,さらに,パトリシアの日記の記述もあることから,やはり婚約者だったのだろうと思われる。もちろん,存在を消されてしまっている以上推測でしかないが,十分な証拠は揃っている。パトリシアとシザース家の嫡男はそのような関係だったと思って差し支えないだろう。
私はさらにレイメル家について調べることにした。腕の持ち主についてはだいたい見当がつき,パトリシアとの関係も見えてきた。おそらくパトリシアが失踪した夜に彼との間で何かが起きたのだ。しかし,その構図ではうまく事件を説明できない。まだ私が見つけられていないパズルのピースがあるはずだ。その手がかりとなるのが,やはりレイメル家と彼らの秘術“人でなしの魔法”だろうと思った。
そして,かの家のことを調べるために,私にはブラドスキーの獣憑きたちの集めた資料がある。レイメル家も古い家だ。散逸した資料なども山程あるだろう。獣憑きたちが集めた秘密の文書にレイメルの秘術の謎が隠されているはずだ。
書斎の一角を収集した資料庫にしてある。私は資料の山の中からレイメルという名前を検索するのだった。




