少女の日記
調査の焦点はシザース家に存在していたであろう嫡男の彼とパトリシアとの関係に絞られてきた。
調べるにしても人の記憶に頼ることはできない。世界の誰からも忘れられてしまっているのだ。試しにファレンにシザース家とパトリシアとの関係を聞いてみたが有力な情報は得られなかった。それゆえ必然的に物理的に残されている記録,とくに手紙や日記などに頼らざるを得なかった。
私とテトは再度,貴族寮のパトリシアの部屋を調べた。同室のエリーゼが心配そうな表情で見守る中,私達は彼女の日記を発見した。装丁がよくある恋愛小説に偽造されていたためマリアナたちが探したときには見逃されたのだろう。
日記は地下に持ち帰った。年頃の少女の日記を盗み見るのは大変罪悪感があったが,致し方なく内容を検めさせてもらった。学院に来る前からつけていたものらしい。少女らしい筆致で屋敷で起きた些細なことを書き付けている。ファレンがラングモア家に拾われたばかりの頃のことも書いてある。流石にこの出来事は幼いパトリシアにとっては大事件だったようで興奮した様子で事件を綴っていた。
――今朝,お屋敷の前に女の子が倒れていました。その朝はみんな大騒ぎです。こんなことは以前には一度もありませんでしたから! 私は騒ぎをいち早く聞きつけてからというもの,すぐにでもお屋敷から飛び出して行きたかったのです。でも,あの口うるさいマーシャに見つかって,その大きな腕でがっしりと掴まれてしまったからには,どうすることも出来ませんでした。きっとマーシャは使用人である前は屈強な戦士だったに違いないわ。私は泣く泣くお部屋で待ちぼうけでした。お父様が様子を見に行かれました。戻ってこられたお父様は,ボロボロになった白い長襦袢を着ただけの一人の女の子を運んできました。茶色の髪の可愛らしい子で,眠っているようでした。お父様は,行き倒れの孤児だろう,これも何かの縁だろうから,と仰って女の子を一階の客間に運ばせました。私は気になって仕方がなかったので,こっそりお父様の後をつけて行こうとしました。でも簡単に見つかってしまい、しばらく近づいてはいけないと,お父様に怒られてしまいました。それでも何とかして客間に入れて貰おうとしましたけれど,最後はマーシャに抱えられてお部屋に戻されてしまいました。本当にマーシャは容赦ないんだから! でも,せっかくお屋敷に来られたお客様です。それも私と同じくらいの女の子。ご挨拶をしないわけには行きません。お昼頃,私はマーシャの目を盗んで一階の客間に忍び込みました。白いベットの上に小柄な女の子がすやすやと息を立てて眠っていました。お父様は孤児だと仰っていたけれど,私にはそうは見えませんでした。教会でいつもお祈りする聖女様の像のお顔のようだったのです。私が近づくと女の子は目を覚ましました。名前を訊くと彼女はファレンと名乗りました。とても綺麗な声でした。私も名乗り返さなければいけませんでしたが,マーシャにまた見つかってしまいました。私は挨拶もすることが出来ずお部屋に戻されてしまったのです。明日はちゃんと私の名前も教えてあげなくてはいけません。
日付は今から四年前となっている。その後はファレンという新しい友達が出来たことを楽しそうに語っていた。
大方が私の興味を惹く記述ではなかったが,読み進めていくと件の謎の少女,エルフィのことも書いてあった。
――今日は踊りのお稽古が遅くまで続きました。踊りの先生は厳しくて,いつも稽古の時間が伸びてしまいます。あんなに完璧主義の人は見たことがありません。彼女を満足させるのはきっと天界の踊りだけですわ。卑賤な人の身である私に何をお求めなのかしら。おかげで,この頃は日が沈んでも蒸し暑い日が続くので,すっかり汗でびしょ濡れになってしまいました。マーシャに頼んで湯を用意してもらう間,体が火照って仕方がないので,お庭に涼みに出ました。今夜は眼を見張るような星空で,東の空の不動星エリカも一層の輝きを誇っています。お母様の自慢の庭園は月明かりの下でも見事な姿を見せてくれます。その時は何という名前のお花だったか分かりませんでしたけれど,小さな白い花弁の可愛らしい二輪の花が咲いていました。一つの茎から花茎が二つ伸びて寄り添うようにして,月光を浴びて静かに花をつけているのでした。庭園には私一人かと思っていると,その二輪の花を一人眺めている先客が居るようでした。背格好が似ているので最初はファレンかと思って「何という花だったかしら」と声をかけてしまいました。その子はびっくりした様子で私の方を振り向きました。ファレンではありませんでした。見知らぬ女の子だったのです。彼女はしげしげと私の顔を見つめて「エルフィ」と言いました。花の名前はエルフィというのでした。その時,私は,何故見知らぬ少女が屋敷の中にいるのか,少女が何者なのか,そして忍び込んだ庭園でどうして一人で花を見つめていたのか,という他の方であれば当然抱く疑問が思い浮かびませんでした。ただ彼女の名前が知りたくなったのです。私は名前を尋ねました。彼女は自分のことをエルフィと名乗りました。二輪の花と同じ名前。私はちっとも不思議に思いませんでした。月光に輝く白い高貴な花の名は,どうしてでしょう,私を見つめ返すその不思議な少女にぴったりだと思ったのです。
――エルフィは一所に咲く花というより気まぐれな猫のようでした。いつお屋敷にやってくるか分かったものではないのです。会えるのはいつも夜でした。皆が寝静まった夜中になると,彼女はふらりと庭の片隅の東屋に現れて,彼女が決して手放さない一冊の本を読んでいるのでした。明かりがなくては読むのに苦労なさるだろうと蝋燭を持っていったことがありますが,魔法が使えるから要らないと突き返されてしまいました。エルフィは誰にも見つからず一人で読書をしたいのだと私をも追い返そうとします。それでも,私が梃子でも帰らないのを知ると,仕方がないわね,と言って私の話に付き合ってくれます。無愛想だけれど本当は優しい方です。夜の東屋での会話は私にとってとても大切な時間でした。エルフィに会えない日が続くと私は目に見えて落ち込んでしまいます。彼女の姿がしばらく見えなくて憂鬱な顔をしているときなどは,ずいぶんファレンにも心配されてしまいました。夜中に東屋へ彼女の姿を探しに行くのが日課となっていました。今日こそは,と思って部屋を抜け出し,足音を立てないように一階に降りてお庭に向かう時は,いつも胸が高鳴ります。でも,彼女の姿が東屋のどこにも見えないときは,とてもがっかりしてしまいます。そして不安な気持ちで床に戻るのです。やっぱりこの前の物言いが良くなかったのだわ,きっと彼女を怒らせてしまったのだわ,彼女はもう来ないのかもしれない,とどんどんと悪い方へ考えてしまい毛布にくるまって悶々としながら眠れぬ夜を過ごすのです。ですから,彼女と同じ名前の花の生け垣を抜け,月明かりに照らされた東屋がかすかに草木の間から透けて見えるくらいまで近づいた時,静かにページを捲る音と衣擦れの音がかすかに聞こえたなら,たちまち天にも登るような気持ちになるのです。ですが,彼女の姿が,暗闇の中に溶け込んでしまいそうな彼女の辛うじて魔法の光で仄かに浮かび上がった姿が目に映ると,それまで急いで飛び出して行って言葉を交わしたい気持ちも忘れて,しばらく目を奪われてしまいます。まるで月の女神が天上より降り立って我が家の東屋で憩うようでした。我に返って東屋に近づくとき,私の頬はきっとあの太陽よりも真っ赤に染まっているに違いありませんでした。
――どうして結婚なんて。お父様もお母様もなんて酷いことを仰るの。家のためだの,貴族に生まれた娘の定めだの。お父様たちは何にも知らないで私から大切な人を奪おうとするのだわ。エルフィ……。私は誰とも知らない方と添い遂げなければいけないのでしょうか。あなたを置いて,どうして傲慢な彼らの家に嫁がなければならないのでしょうか。どうして見知らぬガレイラの土地で鬱々とした毎日を過ごさなければならないのでしょうか。どうして悍ましい男と肌を重ね子を成さなければならないのでしょうか。どれほどの価値がありましょう,あなたの傍に居られない人生になど。エルフィ,どうかここから連れ出して。私をここではない何処かに連れて行って。そうでなければ,私など生きている価値もないただの人形になってしまいます。
エルフィという少女はパトリシアにとってよほど特別な子だったようだ。しかもパトリシアの気持ちはもはや崇拝に近い。これほど一人の令嬢を魅了した彼女は一体何者だったのだろうか。パトリシアは気にしなかったようだが,エルフィというのは偽名であろう。何故偽名を使ってまでラングモア家の庭に忍び込んでいたのか。やっていることとしたら本を読んでいただけらしい。彼女の目的は今は知ることが出来ない。
謎が深まるエルフィという少女のことも重要だが,日記から分かるもう一つの事として,やはり婚約者が居たらしい。婚約が成立したことをパトリシアが両親から聞いたのは学院へ入学する直前だった。その頃にはすでにエルフィとの関係もかなり深まっていたから,余計にショックは大きかったに違いない。道ならぬ恋は貴族の定めの前にあっさりと引き裂かれた訳だ。十代の少女にとっては身を引き裂かれる思いだろう。彼女の痛切な思いが文面から伝わってきた。
婚約者はおそらくシザース家の嫡男だろう。パトリシアは彼の名前すら日記に書くことを嫌ったのかシザースの名前は一度も出てこないが,おそらく間違いないだろう。彼女の日記にも出てくるガレイラという土地はシザースの本拠地である。
となると,パトリシアとシザース家嫡男との間に何かが起きたのだ。そこにどのように人食いの化け物が関係してくるのか。
エルフィに関する記述も気になるところだが,加えてもう一つ日記には気になる箇所があった。
「テト,何か気づきますか」
「ええ。日付が入れ違いになっていますね」
彼女も目ざとく気づいたようだ。
「さすが,よく見ていますね。ファレンが拾われた日の直前の日記は三年前となっているのに,当日の日付は四年前になっていますね。それ以降しばらく一年ずれたまま書いていたようですが,途中で気づいたのか直したようです。単なる書き間違えでしょうか」
「どうでしょう。ただ年の間違いがファレンさんが拾われた日からというのが気になります」
テトは首をかしげながら言った。私も同じことが気になった。
ラングモア家に拾われたのは四年前だとファレンは語っていた。彼女の記憶違いだろうか? あるいはパトリシアから間違った日付を伝えられて,そのまま勘違いが続いていたのだろうか。記憶違いや勘違いなどは十分可能性はありうるが,日記の日付をよりにもよってファレンが拾われた日に一年も間違えてそのままにして置いたというのは奇妙だ。だが,ここで首を傾げていても答えは出そうにない。
「日付の件は横に置いておくとしましょう。とにかく,パトリシア嬢の婚約者であった可能性のある人物を調べましょう。まずはシザース家を調べねば。テト,手配をお願いできますか」
「はい。要員を派遣します」
そうして,日記を手がかりに調査の方針が決まった。
しかし,私たちが調査の準備に動こうとしたところで,にわかに階段の方が騒がしくなった。ずいぶん慌ただしく階段の上から駆け下りてくるものがあった。
息を切らして私達の下に飛び込んできたのはアニヤだった。息も絶え絶えに青い顔をしてその小柄な体を震わせていた。
彼女の尋常でない様子に私は良くないことが起こったことを知った。
「アニヤくん何があったのです」
彼女を落ち着かせるために努めて冷静に尋ねた。すると彼女は私にすがりつくように言った。
「ファレンさんが……ファレンさんが」
彼女はうわ言のようにそう繰り返した。今まで見たこともないほどに憔悴し切った彼女の表情に,私は起こってしまった何事かを恐れた。
私とテトは膝から崩れ落ちるように座り込んだアニヤを,ただ,介抱する他なかった。




