フリードの迷い
「マリアナさんはまた喧嘩ですか,ダメですよ」
アニヤがわざとらしく怒った顔を作ってマリアナに言った。同年代に比べて幼い顔つきの彼女がそんな顔をするので,もし私が怒られている当人だったら反省するより和んでしまいそうだ。
だが,マリアナの意見は私とは違うらしい。
「いや,アニヤ……これには訳が……」
「訳があっても喧嘩はダメです」
「……すまん」
マリアナのいつものふてぶてしい態度はなりを潜めて,どうにかアニヤを宥めようと手を焼いている。我らが肉体派のマリアナでも,この少女には敵わないらしい。その様子を静かに見守っていたテトが思わずといった感じで笑い声をもらした。
「なに笑ってんだよ,テト」
「なんでもないよ」
「八つ当たりもダメです,マリアナさん!」
再び叱られるマリアナ。そんな彼女たちのやり取りを,私は苦笑しながら眺めている。いつもの地下室の風景だった。
ちょうど授業の休みが重なった私達四人は,もはや研究会の活動拠点となっている地下室でお茶をしていた。わざわざ寒くて暗い地下の資料室でお茶なんぞしているのにはわけがある。良くも悪くも有名人な私たち研究会のメンバーが居ると,人目を集めてしまってゆっくりと寛げないのだ。それに,地下の陰気さはどうにも出来ないが,寒さの方は何とかなる。最近,姉上が火の魔石を使った暖房器具を作ってくれた。そのおかげで,暖炉の無い地下でも暖かく過ごせるようになった。おかげで我々研究会は冬場でも地下室で活動できるようになったのである。姉上には感謝してもしきれない。
私はアニヤとマリアナのやり取りを見守った。アニヤはマリアナと仲良くしてくれている。マリアナはどこか危なっかしい所があるので,アニヤは放って置けないのだろう。一方のマリアナは彼女に恩を感じているらしいので,彼女の世話焼きを拒めない。
二人が一緒にいるところをよく見かけるようになった。こうしてアニヤが小言を言うのも,それに対してマリアナが素直に謝るのも,二人が気心の知れあった者同士だからだ。
一方のテトは,そんな二人とは少し距離を置いている。マリアナとは研究会の依頼で一緒になることが多いので仕事仲間という関係を築けているが,アニヤとはなかなか打ち解けられないらしい。いや,こう言うと語弊がある。アニヤの方はテトと積極的に関わろうとするが,テトの方が壁を作っている節がある。そのことで,自分はテトに嫌われているのか,とアニヤに相談されたことがある。単にテトが奥手なだけだと彼女には伝えたが,どうもテトは訳ありのようだ。お茶会に誘えばこうして参加はしてくれるが,私と一緒に一歩引いた感じで彼女たちと接している。それでも,先程からニコニコしながらアニヤとマリアナのやり取りを見守っている所を見ると,居心地が悪い訳ではないらしい。
私はそんな三人組をぼうっと眺めていた。
彼女たちの間柄が,何だか遠いもののように感じられて,眩しかった。アニヤとマリアナの仲が良いのは喜ばしいはずであるし,彼女たちの楽しげな様子は微笑ましいはずである。だというのに,私はこの場を楽しめていなかった。
それは三人に問題があるわけではなく,私の問題らしかった。
私はここ数日ユーフィアたちの問題で頭を悩ませていた。アニヤに言われたことがひどく心に圧し掛かった。
もしユーフィアがブロンストに下る決断をしても,私は構わないと思った。私の問題で彼女たちの人生を混乱させる気にはなれない。ましてや私の側はあのバヌカス・ヴェスターである。あの男の恐ろしい世界に,ブラドスキーのためとはいえ,彼女たちを引きずり込むことは出来ない。
だから,私の心を痛ませるのはバヌカスの依頼のためではない。
問題は,ユーフィアやフリードに対する,私の在り方だ。
ユーフィアはフリードと話したそうだ。ブロンストの誘いのことについて,一人で悩む必要はないのだと。彼女はきっとフリードを一人にすることはないだろう。私は彼女がフリードを大切に想う気持ちを知っている。自分の家族であるかのように,彼を見つめる彼女の優しい眼差しを知っている。
こんなにも彼女たちは真剣に,自分たちの問題に向き合っているというのに。
一方の私はどうだ。私は彼らを裏切り続けている。
私がフリードをからかって彼を怒らせた時も,それを見てユーフィアが楽しげに笑っていた時も,そうして一緒にお茶をしていた時にも。彼らにとって飾り気のない時間であったはずだ。彼らは本当の表情で笑ったり怒ったりしていたはずだ。もし,私とユーフィアが,ほんの少し違う出会い方をしていさえすれば,何の気もなしに,私と彼女たちはあの時間を過ごせていたはずなのだ。それでも私は。ユーフィアがフリードのことで真剣な眼差しで私に頭を下げた時でさえも,私は彼女を欺いていた。
隠し事は時間が経つにつれて私の心を蝕むようだ。本当の事を告げることが出来ないままの日々は,ますます彼らに真実を伝えることを難しくさせる。そもそも秘密を伝えることが正しいのかも,分からないままであった。
そうして私はどうすることも出来ないまま数日を過ごしていた。
「ルシア様,ご気分でも優れないのですか」
アニヤが心配そうに声を掛けてきた。一人物思いに耽ってしまったようだ。慌てて返事する。
「あ,いえ。すいません,ぼうっとしてしまいました」
「なんだ,なんか厄介事でも抱えてんのか」
マリアナがぶっきらぼうにそう言った。彼女のその素っ気ない物言いの中に,どこか人を心配する色があった。彼女にまで心配されるとは,よほど深刻な顔をしていたらしい。いけない,いけない。私の問題で彼女たちを煩わせるのは良くない。
テトは事情を知っているので何も言ってこなかった。しかし,気づかわしげな視線を寄越していた。
「ご心配をお掛けします。ちょっと個人的な問題でして。あまり気にしないで下さい」
そう当たり障りになく返事をするとアニヤとマリアナは何故か顔を見合わせた。そして,真剣な顔をしてこちらを向いた。
「私たちが力になれることはありますか?」
「そうだぜ,あんたがそんな顔すんのは珍しい。たまには手伝ってやってもいいんだぜ」
二人が言った。思いの外,彼女たちは真剣に捉えていたようだ。
彼女たちに心配されるというのは何だかむず痒い。まだ年若い三人からそんな視線を向けられると,中身はいい歳した大人である私としては情けないものがある。しかし,それと同時に,彼女たちのまっすぐな言葉は私の胸の内を暖かくさせた。
アニヤやマリアナまでこの件に巻き込むつもりはない。私には彼女たちの気遣いだけで十分だった。
「ありがとうございます。ですが,本当に大丈夫です」
二人は釈然としない様子だった。しかし,これ以上触れるつもりはないようだった。
「さて,場の空気を悪くさせてしまいましたね。お詫びに一つ,学院のとある噂話でも提供しましょう」
私は努めて明るく言った。三人は表情を緩めて聞いてくれた。
しばらく三人で話をしていた。私が暗くさせてしまった空気も会話が盛り上がるにつれて明るいものに戻った。
そうして和やかに時間を過ごしていたときである。突然地下室を訪れた者があった。
フリードである。何やら深刻そうな顔をしてやってきた。どうやら先程二人に誤魔化した件が顔を変えて再度やって来たらしい。
「フリードくん」
私が声を掛けると,彼は暗い顔をしながら我々のテーブルに近づいて来た。
彼は同席していた三人に突然割り込んで来たことを謝った。彼はどこか躊躇しながら私に相談があると言った。その様子が尋常でないので,私はひとまず落ち着かせるために茶を勧めた。
アニヤが用意してくれた紅茶を啜りながら,フリードは思いつめた表情をしていた。彼は何かを話そうとして,はっとして,アニヤたち三人に目をやった。
「この子たちなら大丈夫ですよ」
私は彼に言った。三人は聞いたものを口外するようなことはしない。彼は少し戸惑いながらも話をしてくれた。
彼の相談とは,もちろん,ユーフィアのことであった。ブロンストから誘いがあったことを話してくれた。彼は勧誘の経緯を詳しく話してくれたが,それは私が事前に知り得た情報の範疇から逸脱するものではなかった。しかし,今回は情報の分析はそれほど重要ではない。むしろ,当事者たちの感情が問題だった。
「それで貴方はどうなさりたいですか」
だから私は率直に尋ねてみた。彼もまだ自分でもどうしたいか分からないのだろう。だからこそ,私が話を聞いてやることで彼の心の整理を助けてやる必要がある。それゆえ彼はここに来たのだろうから。
「俺は,どうしたらいいか,分からない……」
「大丈夫です。少しずつ話してみて下さい。貴方はユーフィアにブロンストの下へ行ってほしいですか」
「あいつが行くのは,嫌だ」
「それは,なぜですか」
「あいつが本気で望んでいるとは思えないからだ。だって,あいつは普通の暮らしを望んでる! 今更また傭兵に戻るなんて」
フリードは悔しそうな顔をして言った。私も同意見だった。フルーレティを抜け出してきて,わざわざ学院まで来たのには何か理由がある。彼女は団長の勧めがあったからと言っていたが,それは本当の理由ではない気がした。
「しかし,ブロンストは見返りに貴方の父の復職を約束しています。ユーフィアも貴方のためなら否とは言わないでしょう」
「そんなのは,ダメだ!」
私の提案はあながち間違いではないだろう。ユーフィアはフリードの頼みとあれば,ブロンストの条件を飲む可能性が高い。それゆえ,これもありうる現実的な案の一つだ。しかし,それに対するフリードの反応は過剰であった。
「それはなぜですか」
その反応に対して私は先ほどと同じ質問を投げかけた。彼の本心を引き出してやらねば,彼自身どうするべきか分からないだろうと思った。
「ユーフィアを利用するような真似は出来ない!」
「どうしてですか? 彼女も同意するのであれば,何の問題もないように思えますが」
「違う,あいつは,その……過保護だから。俺のことになると自分を犠牲にしてしまう。そんなのは誰も幸福にならない」
「もし,ユーフィアがそうすることが幸福だと言うなら,貴方はどうしますか? それでも拒みますか?」
きっとユーフィアならそう言うだろうと思った。短い期間であるが,彼女と接して思うことは,彼女はフリードのことを本当に弟のように思っていることだった。彼女はフリードの幸せのためなら喜んでその身を投げ出すだろう。
「あいつは,そう言うかもしれないけど! ……でも,違うんだ……」
だから,そのことを分かっているフリードは泣き出しそうな顔をした。
私は彼のその表情を見て一つの確信を抱いた。彼がユーフィアを大切に思う気持ちは確かである。しかし,今回彼がブロンストの誘いに戸惑う理由は,どうやらユーフィアのためではなく彼自身の気持ちが問題らしい。
「それは,何が違うのですか」
私はなるべく穏やかに言った。きっと最初から答えは決まっていたのだろう。彼には強い気持ちが備わっている。最初から何の問題もなかったのだ。だから私が出来ることは,少年の繊細な心の躊躇を取り払ってやって,その本心を言葉に吐き出させてやることだろう。
「それは……」
彼は口ごもる。それはそうだろう。私の他にアニヤとマリアナ,テトの三人が聞いている。だから,言いやすいように促してやる必要があった。
「きっと問題はユーフィアではないのでしょう。これは実は,貴方自身の気持ちの問題なのではありませんか?」
そう彼に告げると,フリードは驚いた顔をしてすぐに俯いてしまった。表情は見えないが,しかし,その耳は朱色に染まっていた。そんな彼の様子を見たアニヤは,急に何かを察した様子で,頬を紅潮させて目を輝かせた。小声で「ヴぁ」とか言って歓声を上げている。テトも感づいて彼女にしては珍しく身を乗り出して話を聞いていた。流石に年頃の娘ということか。一方のマリアナは頭の上にハテナを浮かべていた。鈍い奴め。
「君は彼女の傍を離れたくないのですね」
「な,なんでだよ!」
突然顔を上げた彼の表情は真っ赤だった。童顔なのも相まって可愛らしい反応だ。きっと彼にとっては他人に言うのは初めてなのだろう。そうでなければ,ここまで初心な反応にはならないだろう。
もはや答えは分かりきっているが,私は核心をつく質問を彼に投げかけた。
「ユーフィアのこと,どう思っていますか?」
彼は言葉をつまらせ,赤い顔をしながら少し潤んだ瞳を泳がせた。どうにか言い逃れをしようとするかのように。しかし,私達の視線が自分に集まっていることに気がつくと,ついに諦めた表情をした。そして彼ははっきりと告げた。
「……好きだよ,悪いかよ」
彼は不機嫌そうな表情を作って不機嫌そうな声で言った。しかし,その頬は誰が見ても分かるほど朱色に染まっていた。




