夏の終わり
それから三度の夜を越した。二人は乗り切った。
彼女たちの衰弱は甚だしく,三日三晩を明けても,すぐに動ける状態ではなかった。しばらくは療養する必要がある。
定着した封印の効果は覿面であった。姉上の魔力は非常に安定している。普段は腰を抜かして近づけずにいた使用人も,平然と姉上の世話が出来るようになった。たしかに,まだ膨大な魔力の気配を彼女の中に感じて威圧されないわけではない。しかし,それは恐怖を抱くほどのものではなく,しばらく傍に居れば違和感も無くなる程度のものであった。
これに喜んだのは母上殿である。彼女は「元気になったらたくさんお話をしましょう」と喜んで姉上に話しかけていた。姉上も少し照れながら嬉しそうに頷いていた。
封印が定着した後,施術をした術士は姉上の中指に黒色の指輪を嵌めさせた。どうやら,封印を制御するものらしく,これを身につけておくと,姉上の魔力の成長に合わせて封印の強さを調節してくれるものらしい。また,封印を正常に稼働させるためのものでもあるらしく,指輪を取ると術式が停止し,抑え込まれていた魔力が開放されてしまうそうである。なので,くれぐれも外したり無くしたりしないようにと術士にキツく言いつけられた。ただ,一度外してももう一度嵌めれば再び術式が起動して封印が再開するそうである。だったら時々外しても良いのではないか。
一週間の静養の後,二人は床から起き上がれるようになった。床上げの祝いに父上も呼び戻して家族でささやかなパーティをした。大叔母様やミリエル嬢も,その夜会に参加した。ミリエル嬢は今回の功労者ということで特別に参加を許された。
席上で,父上はミリエル嬢に感謝を述べ,引き続き家庭教師を頼むことと,今後の就職についても侯爵家が世話をすることを約束した。ミリエル嬢は大分恐縮していたが,これで彼女も本当にやりたい仕事に就く事ができるだろう。なにせ,侯爵家の推薦を受けた身なのだ。雇用者も”女だから”という理由で採用しないことは許されない。だが,彼女も義理堅い。アンとジーンたちが勉強部屋を卒業するまでは,家庭教師を続けるということである。
パーティは恙無く終わった。各々,自室へ戻ったり,書斎に向かったりと,散り散りになった。私はすることもないし,外の空気を吸いたかったので,中庭に出ることにした。
庭園はしんとしている。月のよく見える夜であった。
中庭には誰も居ない。
私は屋敷からの出入り口にほど近い談笑用のテーブルに座った。庭園を一望出来る少し土を盛った所である。天気の良い昼間などは,招かれたマダムたちが社交界の消息話によく熱を上げているのを見かける。母上殿などはよく応対しているものだ。私には誰それの動静について数時間も話に付き合っていられない。
屋敷から漏れてくる頼りない明かりは,テラスのこのテーブルまで届く間にさらに頼りなくなっている。きっと,廊下から見たら,ここに誰が座っているのか分からないに違いない。それにもかかわらず,目の良い使用人が気づいてくれて,お茶と燭台を持って来てくれた。
ロウソクの柔らかい光を浴びながら,品の良いカップに注がれた温かいお茶を飲んだ。白いカップのきめ細かい表面が,ほのかな明かりに濡れたように輝いている。
私は,何となく,そのティーカップの輝きが懐かしい気がした。デジャブというやつだろうか。しかし,懐かしさは思い出を呼び覚ましてはくれなかった。明確な記憶は,どこか遠くに行ってしまったようで,私の手元には戻ってこない。
そういえば,私の記憶も随分曖昧である。前世を日本という場所で過ごした意識はあるものの,では,どういう場所に住みどういう人々と交流を結んでいたか,確かな記憶は浮かんでこない。時々,浮かび上がってきそうな何かを感じはするが,まるで覚める前の夢のようで,はっとした時には何であったか正体すら掴めない。忘れてしまったのだろうか。それとも,私が忘れたいと思っているのだろうか。前世の記憶など,冷静に考えれば,今生を生きるには妨げになるかもしれない。きれいさっぱりに忘れてしまっていたなら,こうして,いちいち,感傷に浸らなくて済むだろうに。
そのまま,お茶を飲みながら,ぼうっとしていた。すると,扉の開く音がした。屋敷から誰かがこちらに歩いてくるのが分かった。
「ルシア」
規則正しい歩行と嗄れた声とから,それが大叔母様であることはすぐに知れた。私は椅子から立ち上がって彼女を迎えた。
「大叔母様,こんばんわ」
「ええ,こんばんわ。良い夜ね」
平坦な口調からは彼女のご機嫌を伺うことは出来ない。何用だろうか。今日は流石にお叱りを受けるような事は何もしていない。
大叔母様は私に挨拶を返すと,私の対面に座った。私は大叔母様の付き添いで一緒についてきた従僕に,彼女の分のお茶を頼んだ。
「それで,何か御用でしょうか」
大叔母様は悠々としてティーカップを傾けていた。私は堪りかねて用件を尋ねた。
「ええ。貴方に礼を伝えに来たの。ロゼッタのこと,よくここまで導いてくれました」
大叔母様の口から意外な言葉が飛び出てきた。
「礼などと。私は何もしておりませんよ。私よりもミリエル先生が頑張ってくれたおかげです」
「謙遜ね」
そう言われても本心だ。父上にも言ったことだが,この件では結局私は何にも力になれなかった。ただ,二人を見守ることしか出来なかったというのに。導いた,なんて大それた評価を貰っても,身に覚えがない。
「納得していないようね。まあ,いいでしょう」
大叔母様は二の句を告げる前に,小休止とばかりに,カップをゆっくりと傾けた。自然に正しい作法でお茶を嗜む姿には,ただただ感嘆するしかない所作の美しさがある。細部まで気を配りながら自然体でなければこうはいくまい。気を抜くと貴族の子弟にあるまじき態勢となる私などでは,とてもではないが真似できない。
カップをテーブルに置くと,大叔母様は神妙な顔つきで口を開いた。
「不思議なものね。貴方の周りでは,私にはどうすることも出来ないと思えていたことが,次々に前へ進みだしていく。止まって居た時間は貴方を中心に動き出したのよ,ルシア」
「そんなことは,ないと思いますが」
私は過剰な評価に恐れ入るばかりであった。私は,大叔母様の言葉を何となく気後れしながら否定した。私の言葉尻の弱さをおかしく思ったのか,大叔母様はニヤリと笑った。
「貴方もきっと無意識には分かっているのでしょうね。自分がどういう人間なのか。立ち止まっている人間を見て見ぬふり出来ない性分はブラドスキーの血がためでしょう」
何やらお節介な人間と言われた気がした。それにしても,ブラドスキーの血とはなんだろうか。
「それはどういう意味ですか? ブラドスキーの血というのは」
「貴方,我が一族の始祖である”青の人”のことをご存知かしら」
「いいえ,聞いたことありません」
「そう。今では知る人も少なくなったようね。この屋敷の書斎に伝承を記したものがいくつかあったと思います。機会があれば読んで御覧なさい」
「はい。それで,青の人とはどういう方ですか」
「始祖様は,人をして前進せしめる者,と称されたといいます。この国の建国にも関わったお方です。初代国王より,その言葉を賜り,ブラドスキーの家を興したと伝えられているのです。彼の逸話はたくさんありますが,ただ,彼自身が何かをした,という話は少ない。どれも周囲の人間が行動を起こすことが多いのです。眼前人跡なし,傍らに彼の人ある。これも始祖様への評です。困難な時に傍に居る人,そういう御方であったようです。ルシア,貴方を見ていると,不思議と”彼の人”とは貴方のことのような気がしてくるのです」
大叔母様は再びティーカップに手をかける。
何やら壮大な話だ。ブラドスキーの先祖と私が似ているなどと。それは似ている部分もあろう。気の遠くなるような昔々の先祖とはいえ,血のつながりがあるのだから。
しかし,大叔母様が言いたいことは,そういうことでは無いらしい。お茶を一口飲むと,何やら難しそうな顔をして言った。
「気をつけなさいルシア。前に進むことが,必ずしも幸福とは限りません。他人の妬みや不和を生み,争いの種となることもあります。貴族の世界では特にそのような感情を招きやすい。では,こうした負の感情に対抗するにはどうすれば良いと思いますか?」
突然,試されるかのような質問に,私は思わず戸惑った。
「ええと……」
「戦うのです。侯爵家の名の下に。敵は完膚無きまでに潰しなさい。そうでなければ,容易に足元を掬われるでしょう」
大叔母様は毅然と言い放った。そこには威厳があった。侯爵家の歴史を背負い,その在るべき姿を体現せんとする者の言葉の重みがあった。
ブラドスキーの血が長い年月脈々と受け継がれて来たからといって,今後も同じく続いていくとは限らない。数十年後,あるいは,数年後,政変が起こり侯爵家が滅んでいてもおかしくはない。血を絶やさぬこと。そこに,一切の油断があってはならない。大叔母様はその一点において厳格なのだ。
そして,その覚悟は,私には備わってはいない。価値観が違う以上に根本の発想が異なるのだろう。受け継がれてきた血を絶やせない,という気持ちは分かるが,だからといって,絶やしたからといって何とも思わない。まあ,多少は悲しく思うかもしれないが,それだけである。
大叔母様はそんな私の内心を見透かすかのように,じっと私の顔を見つめた。
「侯爵家の人間として我が一族の血に忠誠を捧げること。それが貴方にとって最大の善行となるのです。いかなる時も侯爵家の名誉を先にすること。それが貴方にとっての最大の自愛となるのです」
大叔母様は言い聞かせるように続けた。
「分かっていますか」
「ええ。分かってはいます」
そう聞かれたら私は肯定するしかない。しかし,どこか他人事のような気がしてならなかった。
「本当に,分かっていますか」
大叔母様はどこか悲しそうに,あるいは哀れむように,そう聞き直してきた。私は今度は答えなかった。大叔母様は私の瞳をじっと見つけて,視線を逃さないと言わんばかりである。それがしばらく続くと,私は何だか居たたまれなくなって,目を逸してしまった。
大叔母様の息を吐くのが聞こえた。吐息は中庭の暗闇に紛れていった。
姉上の騒動が過ぎ去ると,打って変わって,穏やかな晩夏の日々が続いた。
日差しは未だ強い。しかし,最近は,ふとした景色の陰影に,夏の終わりをありありと見い出し始めた。それでも,我々の日常は,何事もなく平穏に,空に漂う大きな雲のように,ゆったりと秋に向かって動いていった。
日差しに負けず元気に外で遊ぶジーンも,日光を嫌って図書室に入り浸るアンと姉上とミリエル嬢も,几帳面に変わらない毎日を過ごす兄上も,姉上と最近距離の縮まったことを喜ぶ母上殿も,皆何事もなく刺激の少ない毎日をこの美しい屋敷で過ごしていた。
大叔母様が倒れたのは,そんな気怠い毎日に慣れきって,気づけばもうすっかり日の落ちるのが早くなっていた,ある日の午後のことである。




