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侯爵家次男は転生の夢をみる  作者: 半蔀
ルネス邸、ある夏の出来事
1/85

ブラドスキー侯爵家

「ルシア! そんな所に居たら危ないぞ! 降りてこい!」

 我が兄マリウスの幼く甲高い声が屋敷の中庭に響く。

 この敬愛すべき幼年の兄上がご立腹なのも,ひとえに,やめるよう何度も叱られているのにも関わらず,庭の大木に登り,その太い腕に寝そべって,読書なんぞしている私のためだ。

 兄上は大変お怒りだが,今日は初夏のさわやかな天気の日。こんな日には外で読書でもしなければ勿体ない。この大木はそのためには打ってつけの場所なのだ。

「おい,聞こえているのか!」

 それにしても子供の声というのは非常によく通るものだ。とくに兄であるマリウスは端正な綺麗な声をしている。たとえ喧騒の中にあっても,彼の声を聴き分けるのは容易だろう。

「ルシア!!」

「わかっているよ,(にい)様」

 私は観念して木から飛び降りる。

 目前(もくぜん)に飛び降りたものだから驚いたのだろう,彼はその美しい青い瞳を大きく見開かせた。

「おっと,ごめんよ兄様」

「あ,危ないじゃないか! まったく……」

「それで,何用です」

 小言を貰いそうだったので,さっさと話題を本題に戻した。案外素直な兄上は,言い返すこともなく,本来の用を伝えて来た。

「母上がお呼びだ。はやく屋敷に戻るぞ」

「はあ,そうでしたか。しかしどんな御用でしょう」

「皆でお茶をしようということだ」

 兄上はどこか他人事のように素っ気なく言った。私は「なるほど,それは楽しみですね」と当たり障りなく返して兄と一緒に屋敷に戻ることにした。



 この世界に生を受けてからの九年このかた,私はたしかに「ルシア」という名の男子として存在してきた。しかし,私には自分がルシアだという意識以外に,別の世界で過ごした別人としての意識がある。記憶は定かではないが,日本という国に住み,一定の教育を受けて職につき,それなりの生活を営んでいたように思う。それが何故このような世界にいるのかは分からない。

 このルシアという少年はブラドスキー侯爵家の次男で立派な貴族の一員である。この子には兄が一人と姉が一人,そして腹違いの弟妹が一人ずつ居て計五人兄妹の一人である。

 ルシアの年は九つ。背は同世代に比べて低め,顔は幼い割に美人である。思えば,兄妹みんな端正な顔だちをしている。兄のマリウスは二つ上で十一,姉のロゼッタは三つ上で十二。弟のジーンと妹のアンは双子で二つ下の七つである。

 私ことルシアは兄上と姉上とは同腹である。これから会いに行く現母上殿であるアンジェリカはいわゆる継母というやつで,ジーンとアンとの実母である。年はなんと二十四である。嫁いだ年に身ごもったので,十七で結婚し十七で子を産んだことになる。日本では信じられないことであるが,この世界の貴族では珍しいことではないらしい。現母上殿はお優しい方で,血のつながりのない我々にもわけ隔てなく慈愛を注いでくれている。今日もこうして茶会に誘うなどして,気にかけてくれているのだ。


「あら,いらしてくださったのね!」

 屋敷のテラスで我が弟妹と仲睦まじくテーブルを囲んでいた母上殿は,我々が姿を現すとすぐに気がついて嬉しそうな声を上げた。相変わらずよく気が付く人である。

「お呼ばれに参上いたしました,母上」

 私が気軽に挨拶をすると,彼女は「はい」とにこやかに笑った。

「マリウスさんも,よくいらっしゃいました」

「ええ。ご機嫌麗しゅう,アンジェリカ様」

 我が兄は取ってつけたような挨拶を返して素っ気なくしている。そんな返事をしては母上殿が困るだろう。現に,彼女は困ったような目をして笑みを浮かべている。

「にいさま! 早くこっち来て!」

 と,ジーンが待ちきれなくなって私たちを呼ぶ。テーブルには綺麗に盛り付けられた果物や焼き菓子が各人分置かれていた。

 まったく,母上殿が長兄に困らされているというのに,この坊やは目の前の菓子にしか興味がないらしい。ただ,そこは流石に貴族の(せがれ)で,一人で勝手に食べ始めるようなことはしない。ちなみに,可愛い我が妹の方は無表情で黙りこくっており,まるで人形がそこに座っているかのようである。昔から表情の少ない子だった。というより,表情のない子だ。彼女の表情筋が微動したことさえ,私は目撃したことがない。少し心配になる。というより,とても心配である。

 不安を押し込んで妹に挨拶した。

「ごきげんよう,アン。今日はいい天気だね」

「うん」

 私が声を掛けると彼女はこくりと頷いて,小鳥の囁きのような愛らしい小声を聴かせてくれた。思わず聞き返しそうになるのは毎度のことだ。

「かあさまも! マリウスにいさまも!」

 もはや我慢の限界の来たジーンが声をあげる。母上殿は「はしたないですよ」とジーンを(たしな)めつつ席に着いた。兄上も彼女の後に従った。


 子供たちとテーブルを囲う時間は,母上殿にとって息をつける貴重な時間の一つだ。そこに私と兄上のような異分子を混ぜて良いものだろうか。現に,我が兄マリウスは憮然とした態度で菓子を黙々と食して母上殿を困らさせている。彼女は兄上とどうにか会話を続けようと色々な話題で話しかけるが,暖簾に腕押しという状態だ。そんな態度を取るくらいなら誘いを断ればよいものを。

「マリウスさんも,もうそろそろ十二になられるのですね。再来年には学院に入られるのね」

「ええ」

「来年はロゼッタさんで,立て続けですから,さみしくなります」

「どうでしょうか」

「わたしはさみしいのです。そうだ,ロゼッタさんはお元気ですか? お誘いをしたのですが,また断られてしまって」

「さあ,姉上は私にも会って下さいませんから」

 こんな調子である。それにしても,母上殿のメンタルの強さには驚かされる。こんなクソ生意気な小童(こわっぱ)にも笑顔を崩すこともなく会話を続けるなど,私には無理な芸当だ。ただの貴族のご令嬢ではこうはいくまい。なんとなく,彼女の苦労の経験が垣間見えるような気がした。

 さて,このまま一方向のコミュニケーションを続けさせるのも双方にとって利益にならない。質問ついでに兄上はこちらで引き取ろう。

「兄様,学院とはなんですか」

 彼の意識は自然こちらに向く。私は気づかれないよう母上殿の様子を伺うと,彼女はどこか落ち込んだような表情を浮かべてジーンたちの世話に戻った。やはりしんどかったのだろう。

 私が話しかけたことにより,それまで憮然とした態度を崩さなかった兄上の表情がようやく和らいだ。

「ああ,ルシアはまだ知らなかったな。貴族の子弟は十三になると王都の学院に入って学ぶ決まりとなっている,姉上は,今十二だから,来年入学だな。私は再来年だ」

「じゃあ,私はずいぶん先になってしまうのですか」

「そういうことだ。おまえは九つだから四年後ということだ。そのころには私も姉上も上級生だな。おまえとはあまり関われないだろう」

「そうですか……残念です」

 これは本当に残念だ。我が兄マリウスだけでは姉上の支えとしては心もとない。というか,引きこもりの彼女が学校なんぞに素直に行くだろうか。登校拒否とかになったらまずいだろうなあ,貴族として。

「それはそれとしてです。どんなことを学ぶのですか」

「ああ。王の臣下として恥ずかしくない教養を学ぶのは当然として,卒業生は王国の要所で活躍することが期待される。どのような部門を専門とするかは三年次で選択することだ」

「部門ですか。どんなものがあるのですか」

「大まかに言って,武人と文人と二門だ。ただそれぞれも細分があって,武人の方は兵法か魔法を学ぶ道が用意されている。文人の方は色々ある。そうだな……。幾何学や天文学,倫理学,神学,詩学といった必須のものに加えて,自然学や歴史学,政治学,法学,果ては美学や機械学などもある。何を選ぶかは好みだな」

「ははあ。ちなみに兄様はどちらに?」

「倫理学をとって,政治学に進むつもりだ。貴族の嫡子は大体この道を通る」

「なるほどお。ちなみに姉様は?」

「……姉上のことは分からんが,おそらく武門で魔法を学ばれるのだろう」

「そうですよね。姉様は大変な才能をお持ちですから」

「……そうだな」

 兄上は何とも言えないという表情で言った。まあ,姉上のことを考えたら,仕方ないことだろう。


 と,そのときである。我々の会話を遮るように,がしゃんと皿の割れる音がした。

 音のした方を見ると,美しい青釉(せいゆう)をかけた平皿が無残にも破片と化していた。それはどうやらアンのソーサーらしかった。

「アン! 大丈夫ですか,ケガはありませんか!?」

 アンジェリカが驚いて声をあげる。

 一方のアンは,ティーカップを手に無表情のまま固まっていた。その白い服の前には茶色の斑を作っていた。ソーサーを落としたときに手元が狂って紅茶をこぼしたらしい。その姿勢のまま,相変わらず何を考えているのか分からない顔をしている。しかし,どうしたことだろう。普段とは異なり,彼女からは僅かばかりの感情の起伏が感じられた気がした。憤り,だろうか。だがなぜだろう,彼女がそんな感情を抱いたと思ったのは。

 給仕の人間が慌てて片付けに駆け寄って来た。アンは侍女に促され,汚れた服を着替えに席を立った。ジーンは席に座ったまま,訳もわからず事の成り行きを眺めている。

「……このような粗相,侯爵家の人間がするものではない」

 せっかく表情の柔くなっていた兄上は,再び厳しい表情に戻って席を立った。その言は暗に母上殿を責めていた。

 テラスを後にする兄上を母上殿は呆然として見送っていた。

 彼女は,可哀想なことに,悲しそうにその美しい顔を歪めて,ただ兄上の背を見つめているばかりだった。

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