09 霧の魔物
ヨナたちは平原を走っていた。
イヌメルに乗ってルコン河を渡ってすでに二日たっていた。あれ以来、特に変わったことは起こらず、ただひたすら岱陸を目指して移動し続けている。
既に霧越えを始めてから七日たっているため、疲れを隠し切れなくなったものが出始めていた。みな「地篭り」と呼ばれる魔の霧の中で十日以上過ごす訓練をしていたが、それは慣れ親しんだ故郷の森での話だ。魔の霧の中、見知らぬ土地を移動し続けることは、想像以上に肉体と精神に負担をかけており、眼を使い霧を見通す班を交代する時間の間隔も短くなり始めていた。
平地であっても薄い霧がどこまでも広がっており、世界の低地がすべて霧で満たされているということを肌で感じ取ることができた。大陸では魔の霧のない平野が存在すると教えられているが果たしてそんな場所が本当に存在するのかとヨナとラビとダナンを交えて話し合っていた。
その最中、ふとヨナは左手に違和感を感じた。
熱い。薬指にはめた青い指輪が熱を放っている。その指輪にかかっている魔法を思い出すのと同時にそれは起こった。
後方、そしてわずかに遅れて前方から鋭い指笛の音が響いてきた。
はじめは短く、続いて長く。その意味は極めて危険。―――霧の魔物。
瞬間、少年たちの身体がこわばり、しかし自らの視界を限界まで広げた。
ヨナは後方の見張りのほうが気付くのが早かったという理由から左右に視線を走らせた。そしてそれを見つけた。
大角跳鹿。広がる枝木のように分かれた大きな角を持ち茶色い体毛と白い斑点が特徴的な獣がいる。体躯は頑強そのもので、そのたくましい脚で飛び跳ねながら駆ける姿はチャガ山脈の大角山羊にも似ている。ヨナも何度か森で見たことがあった。しかし、視界に飛び込んできたのは記憶とはあまりにも変わり果てた姿だった。不自然なほど肉が盛り上がり、白樺の枝のごとき角は黒く染まり、全身から湯気のように黒いもやが立ち上っている。口元からはより濃いもやが息とともに吹き上がっている。そのもやは、獣の速度を示すかのように、ふとい線の描いて後方に置き去りにされた。
「左だ!!」
その言葉に反応した少年たちがそれを見つけたときすでに二十メルトほどまで距離をつめられていた。しかし、少年たちは一瞬で弓を構え、十数の数の矢を驚くべき速度で抜き撃った。
中る!
確信が少年たちの脳裏に浮かぶ。
瞬間、獣が跳躍した。
・・・は?
巨体を軽々と見上げるほどの高さ運んだ異常な脚力に思考が追いつかず少年たちは一瞬固まり、その隙を見逃さず、獣は宙に身を躍らせこちらに踏みつけにせんと降下した。
少年たちは驚愕に身をすくませた。だが
「散れっ!」
ダナンの怒声に、少年たちは従った。直後、大地が砕けた。
ヨナは全力で横に身を跳ばした。直後に先ほどまで身をおいていた地面がえぐれとぶのを見た。その衝撃で何人かの少年が吹き飛ばされている。直撃は避けただろうが、跳ねた飛礫がさらされているため負傷はまぬがれないだろう。
獣は着地と同時にそのまま駆け抜け、自らの前方に逃れた少年たちにむかって突っ込んでいく。しかし、彼らも霧越えの資格を与えられた狩人だ。動揺しつつも体制を立て直した者は即座に矢を放つ。いくつかの矢がその胴体に命中したがあっさりとはじかれる。
そのとき、ヨナの向かい側に逃れたダナンが放った矢が胴に食い込んだ。だが獣は意に返さず、そのまま走りぬける。その進行方向の先、数人の少年たちの中にラビがいた。
獣が迫ってくるのを見た少年たちは背を向け全力で退避したが、ラビは逆に獣に向けてそのまま突っ込んだ。二つの影が交差する瞬間、獣は頭を低く構え獲物をその鋭い角で突き殺さんと振りぬいた。ラビはその小さな身体をさらに縮め、ひざをたたみ、のけぞりながら滑り込むようにその凶器を潜り抜けつつ、その手に持った猟刀ですれ違い様に前足を切りつけた。
ラビはそのまま跳ね起きるようにして獣の後方に抜けていった。
してやったりと切りつけた猟刃を見やると刃が欠けていた。
「硬すぎる・・・!」
ラビはうめくように言った。
それでも、ラビの曲芸じみた動きに動揺したのかわずかに動きを獣はわずかに動きを乱した。その隙を逃さずダナンやマジナなどの強弓を使う少年たちの矢が次々と命中する。だが動きを止めず再び少年たちの周囲を円を描くように走り始めた。
「硬い・・・いや厚いのか?」
いつのまにかヨナの横に立っていたラビが答えた。
「骨が鉄みたいに硬くて、その上脂肪がぶ厚いんだ。至近距離から矢を急所にぶち当てなきゃとまらんぜ。あれは」
「めんどうだな」
欠けた刃を見せながらラビは鼻を鳴らした。
「狩猟頭は?」
そういって、ヨナは少年たちにまぎれてたたずんでいる狩猟頭をみたが、彼らは弓は持っているものの矢を構える様子もなく少年たちの動きを見守っている。
「手を出す気はないということか」
少年たち、年長組が放つ強弓でなければしとめられないと考え、獣の目を狙ってけん制の矢を放っているが、高速で跳ね動く獣は的を絞らせない。
(突っ込んできたときに脳天に打ち込めばさすがにしとめられるかもしれない、だがその後にひき潰されて殺されたら意味がない。・・・まてよ)
ヨナは先ほど、ラビを突き殺さんとして角を振りぬいた後、わずかに硬直したのをおもいだした。
そのとき、視界の端で一人の少年が突然うずくまった。手で頭を抱えており、見れば衣服に血がにじんでいる。
先ほど吹き飛ばされた少年の一人か、ヨナがそう思い至った瞬間、獣が突然その少年を目指して突っ込んできた。その進行上に立っている少年たちが逃げるなか、うずくまった少年は明らかに精細をかいた動きで身をかわすために走り始めたが、あれでは逃げ切れないと悟った瞬間、ヨナはとっさに前に出た。
少年に突進する獣に向かって斜めから割ってはいる。だが獣はヨナの動きに気付いていたのだろう。ラビのときと同じように、―――-否、さらに深く頭を沈め前方に向けられた角が地面を削り取りながら振りぬく。
(あれでは、おれがやったようにはかわせない!)
それをみたラビが思わず悲鳴を漏らす。
「横に跳べ!!!」
槍ののような鋭い角がヨナに直撃した。
獣は苦しんでいた。
全身を焼く熱から逃れるために駆けていた。その苦痛の中、声が聞こえた。その声が言っている。人間を倒せと命じている。だから、従った。そうすれば、この痛みが消えるような気がした。人間はあっさりと死んだ。硬い甲羅ごと貫いて振り回せば、血を撒き散らしながら吹き飛んだ。逃げたやつもどいつもこいつも鈍い動きであっさりと捕まえることができた。後ろから突き殺せばすぐに動かなくなった。
―――熱が引かない。
そんなことを、何度も繰り返していると、今までにないほど大きい人間の群れを見つけた。数が多いが先ほどのように追い散らして一人ずつ殺してしまおうと思った。
―――しぶとい。
これまでとはまるでちがう。同じ姿のはずなのに、別の生き物だ。すばしっこくて捕まえられない。身体に突き刺される鋭い角がうっとおしい。
―――だがその場所から痛みが引いていく気がした。
一匹、動きが鈍った人間を見つけた。あれなら殺せる。そう思った。そのまま速度を維持しながら進路をかえて突っ込んだ。そのとき、目の前に他の人間が現れた。
―――関係ない。こいつを殺す!
先ほどとは違う。下に逃げれないように深く角を下げ、人間にぶつかる寸前、一気に振り上げた。
―――何故。
角は当たった。しかし貫けず、振りぬいた頭の上、己の角に足をかけて人間が立っている。その手に弓矢が握られているのが見えた次の瞬間、放たれた矢が己の頭を貫いたの感じた。
己の体が倒れ付すまでの短い間、もはや物を考えられなくなった頭で確かに獣は体から熱が引いていくのを感じた。
―――ああ、やっと・・・。
その後はもはや、何も思うことはなかった。
ラビは横からその様子を見ていた。
獣が地面を削り取るように角を振りぬきヨナを貫かんとした瞬間、ヨナは角の又に足をかけてそのまま一緒に弧を描くように跳びあがったのだ。次の瞬間、振りぬいた右の角の上、二股に分かれた場所に足をかけてヨナは弓を構えていた。
(あれだ、木登りで高く登れたことに満足して下にいるやつを見下ろす感じだ)
とほうけたようにラビが考えたとき、ヨナが放った矢が獣の頭蓋を貫抜いたのを見た。
びくりと痙攣した獣が倒れる前にヨナは飛び降りた。つづいてあたりに巨体が倒れこむ音が響きわたった。
ラビはヨナに駆け寄ると全身をくまなく観察したがわずかに衣服が汚れているだけで怪我は見当たらなかった。
「どうした?」
「どうした?…じゃねーだろ! なんなんだよおまえはよぉ!」
「おまえのやり方を見て思いついたんだぞ」
「おれのとおまえのはぜんぜん違うだろうが、なんてこと考えてんだ―――」
そのとき、いつの間にか近づいてきたダナンがラビの背中をたたいた。
「驚いたよ。ヨナ」
「ダナン。なんで俺の背中を叩くんだよ?!」
ラビの抗議を無視してダナンは続けた。
「よくあんなことできたな。一歩間違えれば串刺しだったよ」
「ラビがよけるのを見たときに振り上げる速さは見て取れたから、あとは拍子をあわせれば上手く乗れると思ったんだ。ラビでもできると思うぞ」
「ああ、できるさ」
練習すればな、とラビは後に続く言葉を飲み込んだ。絶妙な間で、同様の速度で飛び上がれば振りぬかれた角に乗ることはできないだろう。こんなことをいきなり実践で試すのはよほどの馬鹿か大物のどちらかだが果たしてこいつはどっちだろうか。
「たしかに、ラビはできそうだな」
あっさりと納得したダナンにあきれたような目を向けてラビをため息をついた。
いつの間にか他の少年たちも集まってきた。ヨナを胡乱な目でみるもの、素直に驚嘆するもの、なにがおこったのか理解していないもの、反応はさまざまだった。
ヨナはさっきうずくまった少年を見たが、数人の少年に囲まれて介抱されている様子が見て取れた。その少し離れた場所にマジカが立っていたが、ヨナと目が合った瞬間、不機嫌そうに顔を背けた。
故郷の村で子供のころ弓競をしてまけたときやヨナのほうが大きい獲物をとったときと同じような仕草だった。そして、時が過ぎるにつれて何かと悪態をつくようになったのだ。
あの子はおまえが妬いのだ、とカロンはいったがヨナにないものをすべて持っている人間が何故自分を妬むのか理解できなかった。
「おい、見ろよ」
その声にヨナは視線を向けた。
倒れた獣を少年たちが取り囲んでいた。すでに息がなく動かなくなった獣はそれでも、その他者を圧するような威容を示していた。
「かなり大きな霧の魔物だな?」
「おっかねぇ姿してやがる」
「こいつの元は大角跳鹿だったわけか」
「おれ、はじめてみたぜ」
「これが霧の魔物・・・」
少年たちが話し合う中にトナン狩猟頭が進み出て、大角の一部を黒檀柄の猟刀で切り取った。狩猟頭となったものにだけ与えられる特別な猟刀だとおもわれた。少年たちがもっている猟刀ではおそらくあのように切り落とすことはできないだろう。
感嘆の声が上がるなか、狩猟頭は切り取った大角を火の猟刀なら切り取れるか考えていたヨナに手渡してきた。
「おまえの勲だ。受け取れがいい」
あわてて受け取ったヨナにうなずくと、他の少年たちにも自分が霧の魔物に傷を与えたと考えるものは進み出て、証を受け取るように告げた。マジカやダナンのほか何人かの少年が進み出て、角の一部をもらうことになった。
そのあと、ヨナたちは少し離れた場所で小休止することになった。
それぞれ、自身の怪我の具合を把握するように努めた。介抱されていた少年も飛礫が頭に当たった影響で立ちくらみを起こしていただけで、重い怪我はなくしばらくすると十分に動けるようになった。
霧の魔物と戦うために限界まで広げていた視野を閉じることを忘れていたヨナは奇妙なものを見つけた。遠く平原の向こうにある山々、その背後に巨大な影があった。影は輪郭が平で視界の端から端まで続いていた。
(おかしい・・・地平線にしては位置が高すぎる。・・・なんだあれは?)
その翌日、疑問の答えはあっさりその姿を現すこととなった。
描写が相変わらず難しい。要勉強