魔法フルート
初投稿です。よろしくお願いします。
……時代背景は無視してください。
扉を押すと、そう広くはない部屋の中にカランカランと小気味の良い音が響いた。
壁の棚には、驚くほど小さな時計や表面に細工の施された小箱、そのほか何に使うのかわからないような道具が整然と並べられている。奥に目をやると、少年がカウンターの向こうで立ち上がるところだった。
「いらっしゃいませ。少しお待ちくださいね」
そう言うと、彼は奥の部屋に向かって声をかけた。
「レンツさん、お客ですよ」
壁の向こうで人が動く気配がした。少し迷った末、彼女は思い切って尋ねることにした。
「すみません、あの、看板が出ていなかったものですから……『ラーガル古物店』はここで間違いありませんか?」
「ええ、合っておりますよ」
そう答えたのは少年ではなく、奥から出てきた男だった。長い銀髪を後ろでひとつに纏め、布で押さえつけている。どうやら彼がこの店の主人であるらしい。男は小さく笑ってみせた。
「いろいろと面倒なのでね、看板を出すとなると」
そして彼は、彼女の見ている前で、少年の頭をべしっとはたいた。
「お客『様』だ、クー。それから、俺のことは値段が判らないときだけ呼べと言っているだろう」
「……すみません」
彼女はよく知らないが、商売を営むには、確か商業組合に所属し街にも税を支払わなければならなかったはずだ。そうして初めて身分を保証され、盗難などがおきた場合にも保護を受けられるのである。けれど、するとこの店は、それをしていないということか(窓に硝子を入れているような店なのに!)。
「それと、一応『古物店』と名乗ってはおりますが、私どもの本来の仕事は」
「修理屋、でしょう?」
「その通り。察するに、貴女のそれも売るつもりの物ではなさそうだ」
彼の目がちらりと彼女の持っている木の箱の方を向き、それからまっすぐに彼女を見つめた。
「あらためて。店主の、レンツハルト・ラーガルと申します。……とりあえず、物を見せていただきましょうか」
ほう、とレンツが息を吐いた。
細く繊細な蜂蜜色の管を、さらに細い支柱が支えている。支柱の色は黒に近い茶。それを受ける一辺20センチメートル程の台座は、よく磨かれたチーク材のような色だった。材質こそ違うものの、どうやら全て金属でできているらしい。
支柱のうちの何本かは台座の中に吸い込まれている。きっとこの中で手前の鍵盤と繋がっているのだろう。銀色の鍵盤は、三つ、台座の一面の左手に並んでいる。
その右上に目をやると、管の一方が吹き口となって宙に差し出されている。管はそこから緩やかな螺旋を描いて台座すれすれまで下り、最終的には吹き口とは反対側、台座付近のラッパ型へと続く。途中で複雑に曲がりくねって空間を埋めるその管は、しかし、全体として不思議な調和を保っていた。
「デリカ・ロレット……」
声に感動が滲んでいる。
「しかも、これは並みの職人の手ではない……ちょっと失礼」
そう言うと、彼はそれに手を伸ばし、両手で慎重に持ち上げた。
「ああ、ほら、ハントベルの刻印だ。これは?」
「父の作です」
クーと呼ばれた少年が、驚いたようにこちらを見たのが分かった。
「父、というと、貴女は」
レンツに問われ、職人の娘は居住まいを正した。
「申し遅れました。エルニーネ・ハントベルといいます。父の名はアレクサンデル・ハントベル」
「『銀の指』アレク。なるほど……なるほど」
何か言いたげな少年を目で制し、彼は続ける。
「しかし、彼ほどの人間の作品となると、我々でも直せるかどうか」
「いえ、実をいうと、直していただきたいのはこの楽器そのものではないのです」
「というと?」
それは、と言いかけて、彼女は首を振った。
「実際にお見せした方が早いですね」
そして彼女は、カウンターの手前の客用の丸椅子に腰掛け、楽器を自分の正面に滑らせた。
「心得がおありですか?」
「演奏することは難しくないんです。もともとが、デリカ・ロレットは曲を奏でることを目的とした楽器ではありませんから」
「なるほど」
彼女の左指が銀の鍵盤に、唇が吹き口に触れる。やがて、小さく控えめなベルからゆったりとした旋律が流れ出ると、それを見ていたレンツとクーは目を見開いた。
細く高いその笛の音は、綺麗ではあったが、その外見から想像されるほどには繊細でなかった。二人が驚いたのは音色にではない。彼女が楽器に息を吹き込んだ瞬間、その絡み合う管に取り巻かれるようにして、台座の上にぼんやりとした光のかたまりが現れたのである。
16小節ほどのメロディが奏でられる間、光のかたまりは揺らぎながらそこにあり――そして、消えた。
彼女が楽器から顔を上げた。
「お分かりになりましたか?」
「ああ……」
レンツはゆっくりと楽器から視線をはずした。
「……魔法の品だ」
「はい」
「素晴らしい。デリカ・ロレットで、しかも魔法がかけられたものなど、聞いたこともない。さすがはハントベルといったところか……」
興奮に輝いていた彼の顔は、しかし、次の瞬間には翳ってしまった。
「しかし、彼は今」
彼女が表情を硬くする。
「父は、死にました。牢の中で」
「お聞きしました。つくづくアルテーンは惜しい人を失ったものだ」
「……いえ」
答える彼女の声は、むしろ冷たい。
「ここ数年は、病になる前から父はほとんど楽器作りをやめてしまっていましたから。鎚の感覚が違う、と言って……。どのみち、もう限界だったと思います」
「それで、あんなことを?」
「分かりません。ですが、これから作るものに期待することができなくなったから、これまでのものをできるだけ高く、ということはあるかもしれません」
沈黙が降りた。売り物の時計が時を刻む音だけが小さく響いている。
「……この、笛は」
レンツが呟いた。
「つまり、こういうことですね? 笛を吹くと、演奏者の体内から管にエーテルが流れ込む。管の端から端まで――つまり、魔法を発動させる陣を描くのに十分なまでにエーテルが行き渡ると、描かれた陣が空中に像を投影する。曲が進むにつれ、管は形を変えるから、陣が示す術式も変わって像を動かす……それなら」
言葉を切って、彼は彼女を見た。
「きっと、正しいスクリプト、というのがこの場合正しいのかはわからないが、それを示したもの――楽譜、があるはずだ。きっと、正確に意図された結果を導く術式の進行手順、つまり『曲』は一曲だけでしょうから。この楽器と一緒に、それらしきものは渡されませんでしたか?」
「それが」
彼女は顔を引き締めた。本題は、これからなのだ。
「ご存じの通り、あんなことがあったので、家も厳しく調べられることになりました。これが置かれていたのは工房ですが、そちらも同じです。結局どちらも没収となったのですが、その時の取り込みで」
「……まさか、紛失してしまった?」
愕然とするレンツに、無言で頷く。
「もともとそんなものがあったのかどうかはわかりません。実を言うと、この楽器は父が遺したものであって、私が贈られたものではないので。……依頼したいのはそのことなのです。
どうか、このデリカ・ロレットに隠された正しい曲を見つけていただけないでしょうか」
そう言うと、彼は腕を組んだ。難しい顔で黙り込む。
「……今は?」
唐突に、彼は口を開いた。
「え?」
「工房には官憲の手が入り、その後は領主の預りとなった。それでは、今はどちらにお住まいですか?」
「ああ……」
彼女は頷いた。
「カルゴ運河が荷車通りと交わるところから、少し西に行ったあたりの、煉瓦通りという通りの集合住宅です。扉がすべて青色に塗られているのでわかると思います」
「お一人で?」
「いえ、住み込みで働いてもらっていた女中が一人いるのですが、彼女が一緒に住んでくれています」
「なるほどね。いや、おいおい尋ねたいことが出てくると思うので、その時にはこいつを遣らせます」
「……では、引き受けていただけるのですね?」
「ふむ」
顎に手をあてて、彼は尋ねる。
「期限は?」
「いえ、特には」
「それなら……」
ぶつぶつと、様々な条件を挙げながら考えているらしい彼の横で、クーが何やらぼそりと呟いた(300、と言ったように彼女には聞こえた)。
「……まあ、250クローナほどですか」
クーが悔しそうな顔をするのを端目に見ながら、レンツはそう結論づけた。
「いかがですか?」
「はい、よろしくお願いします」
「わかりました。
『銀の指』アレクサンデル・ハントベルのデリカ・ロレット。お引き受けいたしましょう」
***
三月ほど前の話である。
アルテーンの商業組合に名を連ねる貿易商たちのうち、何人もが捕縛・処刑されるという事件があった。罪名は、国家背信。彼らは隣国レーディンの商人たちと契約を結び、新しい流通のルートを拓こうとしていたのである。
無論、相手が他の国であれば、勝手に通商を成立させただけのことでこれほどまでに咎められることはない。そもそも、内部のことへの他からの影響を避けるためにも、組合は存在しているのだ。
レーディンは大国だ。成立当初から大きな国などあるはずはないが、件の国はこの50年から60年ほどで急激な成長を遂げたのだった――接する国々を次々と併呑していくことによって。アルテーンは規模こそ大きな都市ではないが、周辺の諸国との間では重要な交易の拠点となっていた。もし、この街がレーディンの支配を受けるようなことになれば、主要な市場を失ったフィクトホーンは国力を大きく損なうことになるだろう。国が丸ごと隣国に吸収されるのも、ありえない話ではなくなる。王宮が慌てふためいたのも無理からぬことではあったのだ。彼らが犯そうとしていたのは、それほど重大な行いだった。
「それにしても、あそこまでする必要はあったのかな」
過去の記憶をひっぱり出して、クーは首を捻った。
事件に関わった商たち人の中でも、首謀者に近い立場にいた者は、その多くが縛り首となったはずだ。そうでなくとも、ある者は市民としての資格を剥奪されて街を追放され、またある者は今もまだ牢に繋がれている。想定された最悪の事態は避けられたかもしれないが、この対処によって街が負った損害も無視できるものではないのに。
「聞いてないか、エフタ=ミナの話?」
レンツが尋ねる。クーは半眼を向けた。
「ぼくの街の外の知識は、ほとんどレンツさんを通した話なんですからね」
「ああ、そりゃ悪かった」
そう言って、彼は説明を始めた。
フィクトホーンでは近年、主だった都市に王都からの役人を派遣して、それらを直接支配しようという動きがある。特にこの国に限った話ではなく、同じくらい発展している国では程度の差はあれ行われつつあることだが、どうしても、全ての都市で成功するというわけにはいかない。どうやらエフタ=ミナは「失敗」の例になるようだった。
エフタ=ミナは金属、主として銅の精錬で栄えた都市だったが、統治権の移行と共に、徐々にものの流れが悪くなってきたようだった。衰退しつつあるのだという。
「アルテーンにしてみれば、少しでも王宮につけ入られる隙を作るようなことは避けたかった。その怒りの矛先を避けるために、領主は捕らえた人間に過剰な罰を与える以外に方法がなかったのさ」
……そしてその中にアレクサンデルも含まれていたのである。
事件の中枢にいたわけでない彼は命を取られることこそなかったが、投獄され、幽閉されたまま半月前に長年の病により死んだ。かくして彼は、一切の釈明をすることなく姿を消したのだった。
「……しかし」
件の楽器を矯めつ眇めつしていたレンツが、ぽつりと言った。
「彼女は、この裏を見てないんだろうな」
「裏?」
尋ね返すと、彼はゆるゆると首を振った。
「いや、なんでもない。……クラフタロッカ(エーテルを人工的に集める道具)取ってくれ」
そう言うと、まあそうだな、重いしな、と口の中でつぶやきながら、彼は工房の隅をごそごそと探った。
「問題が二つあるんだ」
「二つ?」
言われた通りにクラフタロッカを用意しながら、おうむ返しに尋ねる。
「デリカ・ロレットなんて触ったことはないからな、経験のないことになるべく手を出したくはないんだが」
触るというのはこの場合、直すということだ。興奮はしていたくせに、とクーは思った。
「でも、見たことはあるんですよね?」
「ああ、師匠がいっぺんだけ引き受けたことがあったからな。だから、どっかにノートがあるはずだ」
「見つからないですよ、それ」
壁の本棚に詰められた記録を見る。分類ごとに整理されてはいるが、なにしろこの量だ。
「それで、二つ目は?」
「正しい曲を見つけてくれ、とあの女の子は言ったがな」
目的のものを探し当てたらしく、レンツは膝に手を置いて立ちあがった。
「俺は楽譜なんて読めんし書けん。突き止めたとしても、それを伝える方法がないわけだ」
「……」
考えてもみなかったが、言われてみれば、そうだ。もちろんそれはクーも同じで、虚を突かれて言葉を失った彼に、レンツは構わず手の中のものを投げてよこした。片手に収まるほどの革の札。焼き付けられた文字に、割り印、星が三つ。
「まさか、今から勉強するんですか?」
「そんなわけねぇだろ」
今度は金貨を数枚取り出して、投げる。
「エルニーネ嬢は、確か煉瓦通りだったか。お前、明日は彼女の住んでるところまで行ってきてくれ」
「それはいいですけど……」
「資料は多い方が良いからな、師匠のノートが一件分だけじゃ心許ない」
「図案とか、草稿とか借りてくるわけですね」
「ああ。だが家を移ったということだから、少しでも怪しい書きつけやらなにやら、全部押収されてるんじゃないか」
「それで、これですか」
クーは取り落とした金貨を拾い上げた。
「そういうこった。ハントベルほどの人物なら、それこそ本人の作品の記録なり、他人の評価とか評論なり、納められているだろうからな。それと当然、この術式を読み解くための手がかりも欲しい」
「わかりました。で、なんですけど」
結局、楽器の裏が何だったのか。ずっと気になっているのだ。
「自分で見てみろ……って、いや」
「落としそうなんですけど」
「だな。あー、まあ、なんだ」
がしがしと頭を掻いて、レンツはデリカ・ロレットの台座を指さした。
「刻印と一緒に刻まれてんだよ、味も素っ気もない字体で『最愛の娘へ』」
そう言って彼は目を逸らす。どうもこのおっさんは、この齢になって、愛だのという言葉を口に出すのが気恥ずかしいらしかった。
***
「ニーナちゃん、お客様がいらしてますよ」
階下からオルガに呼ばれ、ニーナはペンを走らせていた手を止めた。
「お客様?」
階段を降りる。引き受けた手紙は明日までのはずだけれど。それとも、新しい指名依頼だろうか。まさかな。
「『ラーガル古物店』からだそうですけど」
「……ああ」
頷く。何かあれば訪ねてくると、そういえば言っていた。
「ありがとう、オルガさん」
「いえいえ」
そう言い置いて、洗濯籠を持った彼女は奥へと消えた。
玄関扉を開けると、昨日の少年が手持ち無沙汰そうに立っていた。出て来たニーナを見て、にっこりと笑う。
「おはようございます。レンツさんの遣いで来ました」
「クーさん、でしたっけ?」
「はい、クーと呼ばれてます。……今、時間はよろしいですか?」
「ええ」
もう少しで出かけようとしていたところだ。書いている手紙もそろそろ終わるし、用事がある時間までにはまだ時間がある。
「それはよかった。実は、今日、ええと……伺ったのは、あの楽器の修理に欲しいものがありまして」
彼は説明した。デリカ・ロレットの修理のため、何かハントベルのメモのようなものがあれば借りうけたいこと。
「父が書いたものが残っているとすれば、元の家、工房の方だと思うけれど、でも……」
「全部、持って行かれてしまった?」
「なにもかも」
小さく頷いて、彼はさらに尋ねた。
「他に、どこかありそうな場所は思い当たりませんか?」
「他に……ああ、そういえば」
ニーナは顔を上げた。
「図書館なら。確か父が、数年前から自分の業績を寄附し続けていたから」
他ならぬ『銀の指』の著書だ、さぞかし喜ばれたことだろう。
「今から思えば、あの人はこうなることを見越して、残しておきたいものを工房に置いておかなかったのかも……って」
なにやら満足げに頷いていたクーが、その言葉を聞いて僅か、表情を曇らせたのを見て、ニーナは口を噤んだ。
「……ごめんなさい、そんなわけないわね」
父は貿易商たちの商売の尻馬に乗っただけだ。何年も前から今日のことを予測できていたわけがない。今のは完全に邪推というもので、目の前の彼が気を悪くしたなら、否は間違いなくこちらにある。
しばらく俯いて何事か考え込んでいたクーは、ややあって、顔を上げて唐突に尋ねた。
「この後の用事っていうのは?」
「え?」
思わぬ問いに戸惑いながら、それでもニーナは答えた。
「新しく働き口を紹介していただけることになったから、今日から伺おうと思っていたのだけれど」
「時間は」
「今から、とは考えていたけれど、約束の時間は正午過ぎだから、まだ時間はあるわ」
「それなら、その」
躊躇う様子を見せながら、少年は言った。
「歩きながら話しませんか。もう少し、お父上の話を聞きたいので」
少しの間、驚いていたニーナだったが、ふと笑いだしてしまった。どこか必死そうな彼の様子が可笑しかったのだ。
「ちょっと待っていて」
苦笑しながらそう断わって、彼女は一度、部屋に戻った。部屋の机の上を軽く片づけてから再び扉を押すと、背中にオルガの声が飛んできた。
「いってらっしゃい、ニーナちゃん」
「いってきます」
狭い外階段を並んで降りる。二人の足が煉瓦通りの敷石を踏んだ頃、クーが口を開いた。
「ニーナって呼ばれてるんですね」
「そうよ。あなたの名前だって愛称でしょう? 本名はなんというの?」
「あー……」
彼は急に言い淀んだ。ここで? 内心、首を傾げた彼女に気づいたのか、彼は肩を竦めてみせた。
「クロック(ロープの先に結わえる鉤のこと)というんです。……変な名前でしょう?」
「……少し」
「だから、いつもはクーって呼んでもらってるんです」
そう言って彼は笑う。運河の辺に出ると、風が急に強く吹き抜けた。
「ぼくを拾った人がいたところでは、名前がない子供にそういう名前をつける習慣だったらしくて、短刀とか、針とかね」
「拾った人、って、ラーガルさんではなくて?」
「いや、また別の人です。その人にいろいろ教わって、それからまたいろいろあって、レンツさんのところに来たんです」
その「いろいろ」について話す気は、どうやら彼にはないらしかった。
「そういう話は誰にでもするの?」
「いいえ? そもそも、ぼくの名前を知ってる人がそんなにいないですから」
「それなら、どうして、そんな話をわたしに?」
「うーん」
貨物船や客船が運河を行き来している。水路が隅々まで張り巡らされているこの街では、船は物運の要であり市民の足だ。その様子を眺めながら、彼はもどかしげに口を開いたり閉じたりしていた。
「お父さんのことが嫌いですか」
悩んだ挙句、彼は訊いた。迷いながらニーナは答える。
「そうね、あの人がしたことで、これまでの仕事がしづらくなったのは事実ね」
「これまでの仕事?」
「代筆。でも、だからといって、嫌い、ということではなくて……」
ニーナの中で父はずっと楽器作りだけに人生をかける人だった。小さい頃から構ってもらった覚えはほとんどないけれど、彼女はその背中に確かな誇りを感じて育ったのだ。少なくとも彼女が知る限り、父は自分の作品を売るために決まりを破るような人ではなかったのに。
「幻滅、したのかも」
無意識に、そんな言葉が零れていた。少年の視線でそのことに気づき、ニーナは慌てて言葉を探した。
「父がこの街に来て……三十年も経たないはずだけれど、その間に母と出会い、わたしが産まれた。故郷ではないにしても、あの人もこの街を愛していると思っていた。
でも、あの人がしていたのは、この街をないがしろにするようなことだった! まったく利己的に、組合の取り決めを犯して、あまつさえ他所の国に隙をつくる原因にもなるところだった……」
言葉を切る。運河沿いの道が広場に出ると、家々の向こうに尖塔が見えた―—この街の象徴だ。
「わからないですよ」
そちらに目をやることもなく、石畳みを見つめたまま少年は言った。
「ぼくを捨てた両親にはなにかやむにやまれぬ理由があったのかもしれない。もしかしたら、一家揃って首を吊るところをぼくだけ助けてくれたのかもしれない。ぼくに盗みを教えたあの人も、あ、いや」
さっきの「いろいろ」って、本当は何があったのだろう。
「とにかく、皆、ぼくのためを思ってのことだった。悪い人、ええとその、利己的な人なんていなかった。……そう考えることはできませんか。お父さんがしたことは、どうしてもそうしなければならない理由があってしたことだったと、そう考えることはできませんか」
呆気にとられた。この少年は、自分にこのことを伝えたいがためだけに、わざわざこれまでのことを話していたのか。修理屋という彼の立場では必要がないはずのことを。こんな小さな提案をするためだけに。
「……そんなこと、わからないわ」
「わからないですよ。確かめようがないことなんだから。だからこそ、考えることは自由じゃないですか。エルニーネさんがそうだと決めれば、それが真実なんですよ」
「……」
塔の天辺の鐘が鳴った。正午だ。吹き抜ける風は生温い。
「そう……」
真昼の風が、水路の街を覆っていく。
***
図書館は大きく二つの種類に分けられる。閉架図書館と、開架図書館がそれである。
活版印刷の普及と製紙技術の向上により、本、書物というものは以前よりある程度は貴重ではなくなっている。そのため新興のスティペンディアムやイスフェルトの図書館では開架方式が採用されているというが、ここアルテーンでは伝統的に閉架方式――利用者が直接書架には触れられず、館内の人間が指定された書物を探す、という形――を採用してきていた。字を読むことがまだあまり得意ではないクーにとっては、時間をかけて背表紙を見て回らなくてよい分、こちらの方が都合がいい。
大陸中の知識の集合地、アルテーンの市立図書館。
「楽器職人のハントベルの目録と、魔法の発動理論について書かれたものを」
受付で、革の身分証明を差し出しながら、頼む。少し考えて、クーは付け足した。
「それから、デリカ・ロレットを扱った書物があれば、それも」
しばらくして棚の場所を教えられた彼は、本を持って机に向かった。かつて利用者が借り出した書物の内容を手元に書き写していた頃の名残で、図書館内には今も本を読むための空間が残されている。
……今を遡ること127年の昔、一人の楽器職人が、当時のフィクトホーン国王にとある小さな楽器を献上した。繊細に作られたこの模型は、十分に鑑賞に堪えるだけの音を鳴らし、何よりその精緻な動きは多くの宮廷人たちを魅了したという。――これが、デリカ・ロレットの起源である。
その小さな吹き口・細い管の打ち出しには、職人の腕が大きくものをいう。そのため、彼らの技術を表すものとしてたびたび作られてはきたものの、もともとデリカ・ロレットは楽器ではない。十分に音を響かせるには、管が細すぎるのだ。「そんなもの」を作ることを自分の工房の弟子に許さない職人も多いだろうし、多くの楽器職人に白眼視される風潮があるというのもまた事実だった。そんな中で、ハントベルがこの制作に打ち込むことができたのは、彼自身の立場ゆえのことだったかもしれない。
アレクサンデル・ハントベルは、王都ストルフィクティブで当代最高と呼ばれた職人、モルクトの工房で楽器作りを学んだ。二十二年の歳月を師の下で過ごした彼は、しかしある時、作品に対する意見の違いから袂を別ってしまう。ストルフィクティブにいられなくなったハントベルは、アルテーンに自分の工房を置いて独立した。『金の指』モルクトに対して『銀の指』と彼が呼ばれ始めるのは、これからさらに十年が過ぎてからのことである。
人並み外れた技術を持ち、かつ、師や他の職人の評価というしがらみにとらわれることなく活動に打ち込める人間。アレクサンデル・ハントベルは、まさに条件に適合する職人だった。
……本をぱたりと閉じて、クーは大きく伸びをした。硝子の入っていない窓の外はもうすっかり暮れてしまっている。もうすぐ閉館だ。追い出されないうちにと、彼は思ったより多くなった本を抱えて立ち上がった。
***
鈍色の小人が自分の身長ほどもある輪っかをぶら下げている。その奇妙な形をした戸叩きを掴み、クーは三度、それを鳴らした。
「こんにちは、ラーガル古物店から来ました、クーといいます」
中から出てきた男に言う。背が高い。レンツよりは若いだろう。男はクーを見て首を傾げた。
「古物店?」
「はい。ですけど、品物の修理やなんかも請け負っていまして、というかどちらかというとそっちが本業というか」
いつも、この辺りを説明するときには苦労するのだ。いっそのこと店の名前を変えればいいのに。「ラーガル修理店」とか。いいじゃないか。
「アレクサンドル・ハントベルと知り合いですよね? 実は、うちに一週間ちょっと前に持ち込まれたものが、彼の作品で」
「ああ、アレク。……なるほど、それで、うちへ」
「ご存知ですか、何か?」
クーが訊くと、彼は笑みを浮かべた。
「おそらくね。とにかく、まずは上がってください。立ち話もなんですから」
「……それじゃあ、お邪魔します」
他人の家に上がり込むようなことはするなと、レンツには言われているのだけれど。まあ、せっかくの好意を無碍にすることもないだろう。
最後にちらりと目をやったのに、どうやら彼は気づいたらしかった。
「ああ、これですか」
「珍しい形の戸叩きですね」
「面白いでしょう、ノッカー(鉱山に住む妖精)の戸叩きですよ」
そう言って彼はくすくすと笑った。
「さあ、どうぞ」
最初に気づいたのはクーだった。術式の解明に悪戦苦闘するレンツを見ていて思ったのだ。彼と同じように、ハントベルもまた魔法には詳しくなかったはずだ――ただの楽器職人だったのだから。それなら、誰かこの術式を組み、ハントベルに教えた人が他にいるのではないか。
生前からあまり人づきあいのなかったハントベルの、こんな頼み事ができるほど親しい魔導士――しかも、かなりの技術力のはず――の知り合いを見つけるのは、難しいことではなかった。
というようなことを説明して、クーは図々しくお茶をすすった。店では雑用は全て任されているから、他人の淹れてくれるお茶は貴重なのだ。
「そういうことでしたか」
奥から戻ってきた魔導士が言った。手に数枚の紙を持っている。
「ずっと気になってはいたんです。あの事件が起きたのは、僕がこの図案を渡してしばらくしてのことだった。アレクが言っていた作品は完成したのか。彼には娘がいたはずだが、その娘はどうしているのか……」
アレク、か。
「よくご存知だったんですね、ハントベルのことを」
「……そうですね、もう十数年の付き合いになりますか。そのせいであれのときにはこちらまで官憲が調べに来ましたよ。なんだか、僕の方まで関わっているんじゃないかとか言ってね。まあ、いい迷惑といえばその通りですが」
そう言う割には、彼の表情はそのことを恨んでいるようには見えなかった。
「どんな人だったんですか?」
「どんな人、と言われても」
彼は首を捻った。
「気難しい人だったとしか……けっこう、他人のことなんか構わない人だったから」
「あんなことをしても不思議じゃない?」
「いや、そういうことはなくて」
言葉を探している。クーはもう一口お茶を飲んだ。
「他人なんかどう思おうと、というのが正しいかな。あの人にとって大事なのは、自分の楽器が誰かに使われること、ただそれだけだった」
「わざわざ街を売るようなことはしない、と」
「そう思いますよ。そもそも、アレクはこの街を愛していたはずですしね」
まったく同じことを言っていた人をクーは知っている。もっとも、彼女の信頼は揺らいでいるようだったけれど。
「だから、きっと何か理由が、事情があったんじゃないか。少なくとも僕はそう思っているんですよ」
それは、クーがエルニーネに言ったこととまったく同じことではあった。ひとつ違うとすれば、この魔導士はハントベルのことを知っていて、クーは知らない、ということだった。ただの想像ではない、確信から来る言葉には、相手の揺らぎなど封じ込めてしまう力があった。
「この術式は僕の自信作です。どうぞ、お持ちになってください。ハントベルにとってもきっと渾身の作だったはずですから」
『あの人がしていたのは、この街をないがしろにするようなことだった! まったく利己的に、組合の取り決めを犯して、あまつさえ他所の国に隙をつくる原因にもなるところだった……』
『アレクはこの街を愛していたはずですしね。だから、きっと何か理由が、事情があったんじゃないか。少なくとも僕はそう思っているんですよ』
彼をよく知る、二人の人間の言葉。どちらかが正しくて、どちらかが間違っている、ということでは、ないのだろうけれど。
***
「エルニーネさんは」
クラフタロッカがゆっくりと、集めたエーテルを魔法の楽器に送り込んでいる。椅子に逆さまに座って、作業の様子を眺めながら、クーは呟いた。
その言葉を聞き流し、レンツは鍵盤を触っては手元の紙に書きつけるということを繰り返している。普段なら作業中に声をかけると怒鳴られるのだが、どうやら最近は順調に進んでいるらしくそんなこともない。
「混乱しているんだ。事件からもう四ヶ月は経とうというのに、未だに心の整理ができないで、途方に暮れている」
「お前、何も彼女に余計なことは言ってないだろうな?」
「なんですか、余計なことって」
片目だけをこちらに向けるレンツにクーは言い返した。ひとつ肩を竦め、彼は再び作業に戻った。
「あの人はお父さんを嫌っているんじゃない。憎んでいるんです。理解できない苦悩と、父親がしたことに対する罪悪感とが、ない交ぜになって憎しみとしてぶつけられるしかないでいるんですよ」
そういえば、あれから仕事がしにくくなったとも、彼女は言っていた。
「レンツさんも、ストルフィクティブに親がいると、言っていたじゃないですか。家族を憎まなきゃならないなんて、そんな辛いことってないんです」
彼は答えない。その指が鍵盤を押す度に、光のかたまりはデリカ・ロレットの上で形を変えるが、一瞬として像を結ぶことはない。
「あの魔導士は言っていました。ハントベルがあんなことをしたのは、きっと何か理由があったからだって。もしそうなら、エルニーネさんはその答えを与えられるべきじゃないですか」
クーは昂っていた気持ちがゆるゆると萎んでいくのを感じた。所詮、自分にはわからないことなのだ。ハントベルのことだけでなく、家族を憎むということ――クーに家族はいない。溜息をつき、椅子の背に顎を預ける。
「……エフタ=ミナの黄銅は、質が落ちてきていたらしい」
「え?」
すると、それまで黙っていたレンツが、唐突に口を開いた。
「正確なことは分からないが、噂じゃ近くの銅坑が枯れてきたという話だった。これまで通りなら規模を縮小するなり産業の方針を転向するなり、いろいろ方法はあったんだろうが」
「あの街は今、領主が変わったばかりで勝手がわからないから……。でも、それがどうしたんですか?」
「忘れたのか、あの娘が言っていたろう」
『ここ数年は、病を得る前から父はほとんど楽器作りをやめてしまっていましたから。鎚の感触が違う、と言って……』
「……ああ」
そういえば、言っていた。彼女はそれを老衰のせいだと思っていたようだったけれど……。
「もしかして、打っていた金属の質が変わっていた?」
レンツは頷いた。
「楽器作りに使う真鍮はどこから仕入れていたか。十中八九、エフタ=ミナだろう。この街から近い分、安く済む。質も良かったんだ――これまでは」
「でも、そうではなくなってしまった……。待ってください、それじゃ、ハントベルがあんなことに関わったのは」
「ああ、きっと彼は、レーディンからなら良い銅を得られると思ったんだ。それが商業組合の規則に抵触することをおそらくは知った上で、それでも銅は彼にとって命の水にも等しかった……」
クーは思い描いた。決まりに背くことになることを承知しながら、それでも手を出さずにはいられなかった一人の職人……。
「そんなこと、あるはずないのに」
レーディンは大国だ。市場もフィクトホーンよりはるかに多くの場所に持っている。もちろん品物はアルテーンにも入ってくるだろうが(何せこの街は交易の拠点だから)、その価格は一人の楽器職人にはこれまでのようには手を出すことができないものになるだろう。そのぐらいのこと、彼にもわからないはずないのに。
「夢を見たのかもしれないさ。ハントベルがこの街に来て、銀の指と呼ばれるようになるまで、苦労は技術のことだけじゃなかっただろうからな。もう一度誰かと、どこかと安定した関係を結ばなければならないとなれば、そりゃ途方に暮れただろう」
しがらみなく生きるってことは、どこにも支えられずに生きるってことだからな。レンツが呟く。そうだ、彼はどの商業組合にも、楽器組合にも所属していなかったのだ。突出した才能というものは、組合の存在理念にはそぐわない。
レンツのペンが止まった。紙を持ち上げ、全体を眺める。
「クー」
「はい」
「お前の知り合いに、音楽家はいないか」
呆れた。何を言っているのだこの人は。
「いるわけないでしょう」
レンツは肩をすくめた。
「仕方がないな、探すとするか。これを楽譜に起こしてもらわなけりゃならん」
「それじゃ」
「ああ」
完成だ。そういう彼の顔には会心の笑みが浮かんでいた。
エルニーネ・ハントベルが依頼に来た日から、およそ一月が経っている。
***
扉を押すと、そう広くはない部屋の中にカランカランと小気味の良い音が響いた。
壁の棚には、驚くほど小さな時計や表面に細工の施された小箱、そのほか何に使うのかわからないような道具が整然と並べられている。奥に目をやると、少年がカウンターの向こうで立ち上がるところだった。
「いらっしゃいませ、エルニーネさん」
「お久しぶりです。頂いた手紙に、曲が突き止められたとあったけれど……」
「はい。レンツさん」
彼が奥の部屋に声をかけると、壁の向こうで人が動く気配がした。やってきたレンツは、両手で木箱を抱え、左手には楽譜らしきものを挟んでいる。
「ずいぶんお待たせいたしました。なにしろ関係する知識を一から集めなければなりませんでしたので」
「いえ、まさかこんなに早く突き止めていただけるとは思いませんでした。それが、そうですか?」
「はい、どうぞ」
楽譜を受け取り、勧められた椅子に腰を下ろす。知識がなかったと言う割には、楽譜は形式として完全なものだった。彼女の疑問を見透かしたようにレンツは言う。
「実を言うと、その楽譜はそちらの方面の人間に頼んで作ってもらったものなんです。私の描いたものはとても人に見せられるようなものではありませんでしたし、それではハントベルと、この楽器に対しても忍びなかったのでね」
「この曲は……」
「ええ、そうです。……どうぞ、演奏してみてください」
レンツが取り出したデリカ・ロレットは、よく磨かれ、いっそう美しく輝いているように見えた。おずおずとその楽器に手を伸ばし、彼女はそれを引き寄せた。
楽器に息を吹き込む。二つ、三つ、鍵盤を押したところで、管の絡み合う上に実体のない姿が現れた。古ぼけた靴。とがった帽子。驚いた彼女が顔を離すと、像は現れたときと同じように消えてしまった。
「小人……?」
「ノッカーじゃないかな」
クーが誰にともなくつぶやいた。なんだろう、それは。レンツが視線で続きを促す。彼女は再び唇を楽器に触れさせた。
耳に馴染んだ曲だ。歌ったことも、演奏したことも何度もある。軽快で、それでいてどこか気だるげな三拍子。再び現れた小人はメロディに合わせ、彼女の眼の前でステップを踏んだ。滑稽なその踊りは見ている者を元気づけるようだ。
そして、曲が終わる。小人は洒落た動きで宙返りをすると、最後に帽子をとって優雅に一礼し、消えた。後には演奏の余韻だけが残った。
「ブラウニー、だ」
レンツがぽつりと言った。途端に部屋の空気が動き出した。
「言うまでもないことですが」
「……はい」
「『真昼の風』は、ヨハン・リュードが作曲した、この街で最も親しまれている民謡の一つです。客船の唄い手で演奏できない人はいないだろうし、図書館の鐘も正午にはこの曲を鳴らす。当然、アレクサンデルがこの街に来て最初に馴染んだ曲でもあったでしょう。アルテーンに住むすべての人にとってそうであるように、きっと彼にとっても故郷の――第二の故郷の――象徴だったはずだ」
何より、結ばれ、子を授かるという彼の人生の中心は、この街だったのだから。
「彼がデリカ・ロレットの制作を始めたのは、病気になってからだった。このまま自分が死ねば、娘は独り残されてしまう。
ブラウニーという妖精は、古い家、温かな家庭に棲み、その家の住人を守ると言われています。そして、そのお辞儀を受けた者には、最大の幸福のまじないがかけられるという」
その言い伝えは彼女も聞いたことがある。もちろん、ただのおとぎ話にすぎないけれど……。
「彼は幸福を祈っていた。この楽器を受け取る相手、残される一人娘の幸福を」
目の前の小さな楽器を、彼女は再び見つめた。今は亡き父の最後の作。その繊細な管は、窓からの光を弾き、優しく光る。
「彼は愛していたんですよ。この街のことも、あなたのことも」
頬を涙が伝うのを感じた。