マリアの微笑
「愛を奏でるマリア」シリーズPART1に当たる作品です。
シリーズでご覧下さい。
そもそも、あいつの存在の噂を耳にした時から、酷く気にくわなかったのだ。
俺の通う音楽学校「松朋音楽学院」の高等部に、あいつが、ピアノ科一年の特待生として入学してくるという。
松朋は国内有数の名門故、特待生など採らない。
なのにあいつは、事もあろうか、我が日本が誇る大指揮者「世界の千堂」こと千堂明の特別推薦で入学を決めたらしい。
しかも、中等部から大学院まで生徒のレベルが特別に高い時にしか行われない、5年に一度とも言われる「松朋音楽学院内コンクール」に、今年度最年少の高等部一年生として、今年参加するというのだ。
もっとも俺とて、高等部へ主席で進んだあいつと同じ一年生の年に、4年ぶりに行われた同コンクールで優勝し、天才と謳われている。
俺は、日向遙希。ヴァイオリン専攻で、この春には高等部三年になる。
茶道「宗庵流」家元にして、「日向ホールディングス」の本家としても知られる家の生まれの俺には、歳の離れた兄二人に姉一人がいる。
家元を継ぐのは長兄、と決まっている。下の兄は事業を担う次期経営者のレールを敷かれ、唯一女性の姉は、ひたすら良き妻・良き母になるべく教育された。
そして、一人くらい芸術家がいてもよろしいわね、という母の実に気まぐれな発想の下、幼少時から英才教育を施された結果、今の俺がある。
実際のところヴァイオリンの腕前はというと、昨年、国内最高峰の日本音楽コンクールに第一位優勝し、国内コンクールの賞は全て総なめだ。
次にコンクールを受けるとしたら、チャイコフスキーかロンティボーか。いずれにせよ、最難関の国際コンクールだ。
ちなみに学院では、二期連続・生徒会長も務め、教授及び生徒共に信頼が厚い。
特に女子達の視線を集めて常に華やかな取り巻きに囲まれている。
その俺が、たかだか十五歳の女生徒にひけをとるなど俺の自尊心が許さない。
しかし、表の俺の顔はいたって温厚だ。
笑顔を絶やさず、誰にでも分け隔てなく柔らかな物腰で接する。激昂したりなどしない。特に弱い者には手を差しのべ、何より周囲の空気を大事にする。
成績も実技であるヴァイオリンのみならず、一般教養共に主席入学以来変わらないが、それらを鼻にかけたりする態度などおくびにもださない。
故に、178㎝のすっと伸びた長身と柔らかく外へ靡く茶色の髪に、知性を湛えたエキゾチックな彫りの深いフェイス……そんなルックスだけでは到底成り得えない皆の羨望の的となっているのだ。
そう、俺はまごうことなき二重人格。
或いは、精神的サディストとも言えるだろう。
しかし、そんな裏の俺の顔を知る人間は、実に少ない。
俺の逆鱗に触れた奴は陰で徹底的に叩きのめし、二度と俺に逆らったりなど出来ないようにしているからだ。
そうやって俺は、あいつ……小野真璃亜という生け贄をどう料理しようかと、春休みの間中、謀略を巡らせていた。
春四月。桜の花びらが舞う中、俺は理事長じきじきに理事室へと呼ばれた。
「やあ、日向君。来たね。紹介しよう。こちらが、我が校の名誉ある出身でもある千堂明先生ご推薦のピアノ科特待生、小野真璃亜君だ。函館で、私の古い友人でもあるお母上からずっとレッスンを受けていたのだが、この度、千堂先生の目にとまってね。ウィーン留学も視野に入っていたところ、高等部卒業までは日本で学びたいという小野君の意志を尊重して、うちで学ぶことになった」
椅子から立ち上がり、理事長は
「何分、単身上京してきて間もない身だ。外部新入生ということもあるが、今年は二年ぶりに伝統ある院内音楽コンクールが開催される。君は前回のコンクール優勝者として、また生徒会長としても、小野君のことには特に気を配ってやってくれないか」
そう滑舌に、上機嫌で俺に説明した。
「ピアノ科・高等部新入生の小野真璃亜です。よろしくお願い致します」
と、やや緊張気味に折り目正しく、小野は挨拶した。
これが、俺と小野との初めての出逢いだった。
「小野さん、入学おめでとう。ヴァイオリン科・高等部三年で生徒会長の日向遙希です。わからないことがあればなんでも相談してほしいね」
表向きはいつものように穏やかなまなざしで返すと同時に、俺は鋭く小野を値踏みした。
身長158㎝、体重45㎏といったところだろうか。
いかにも中等を卒業したばかりという感じで、そそられるものはないが、透けるように白い肌とは対照的に紅に近いピンク色の愛らしい口唇が目をひいた。
そして何より、まるでびっくりした時のような今にも零れ落ちんばかりの大きなすみれ色がかったその瞳に、俺は不覚にも吸い込まれそうになった。
美人や可愛い女子など見慣れているこの俺が!
そう、控えめで大人しそうな佇まいをしていながら、小野には華があるのだ。
しかし、これは面白そうではないか。
俺はすぐに自分を取り戻した。
この純真無垢な「天才少女」を泥だらけに傷つけて、俺の前に跪かせる。それは久々のこの上ない快楽だ。
無論、コンクールでも負ける気など全くない。
むしろ、世界の千堂明お墨付きの小野に勝ってこそ、俺の真の実力が証明されるということだ。
それは即ち、俺のヴァイオリンが世界に通用するという何よりの証である。
それは俺の望むところでもあった。
俺は、小野に用心深く近づいていった。
自家用車通学している俺は、慣れない小野のフォローをするという名目で、毎朝わざわざ、小野が一人暮らしを始めたマンションのエントランスまで迎えに赴いた。
当然、他の女生徒達は一様に、にわかに気色ばんだ。
俺が一人の特定の女子だけを車に乗せて通学したことなど、今まで一度もなかったからだ。
お陰で小野は俺の思惑通り、瞬く間に嫉妬の矢面に立たされることとなった。
それは、まだ四月の或る朝のことだった。
「あなたね。あなた、日向先輩の一体何なの? 一体、どういうおつもり?」
「日向先輩はお忙しいのよ。日向先輩がお優しいからって一緒に車通学なんて、何様なの!?」
小野がマンションの前で数人の女子たちに囲まれている。俺は黒い笑みを押し隠し、声をかけた。
「君たち。これは一体何事だい?」
「日向先輩!」
俺の取り巻きは一転、身を翻し、俺に切々と訴えた。
「日向先輩。この娘が特待の新入生だからといって何も毎日送り迎えまでなさらなくても」
「そうです! 先輩は多忙な高等部最終学年で、生徒会長のお仕事もなさり、しかも栄えある院内音楽コンクールご出場の身」
「何もライバルのこの娘の面倒を、そこまでしてご覧にならなくても」
小野が困惑した面持ちで、俺と彼女たちのやりとりを見守っている中、俺はいつもの柔和な笑みで応えた。
「心配してくれて有難う。でも、僕は大丈夫。それよりやはり生徒会長として、内進者でもない特別な新入生である小野さんに心配りをするのは、当たり前のことだと思うんだ。だから、君たちの気持ちは有難いが、無用な気遣いだよ」
取り巻き連中は一瞬顔を見合わせたが、今度は口々に俺を称え始めた。
「さすがは日向先輩」
「そうですわね。日向先輩が一年生のこの娘ごときに負けるなんてこと、有り得ないわ」
「勝つとか負けるとかそういうことは抜きにして、いずれにせよコンクールには全力を尽くす。だから安心していてほしい。ああ、それから。小野さんのことは君たちにもよろしく頼むよ。この通り、か細い可愛らしい子だからね。僕は心配なんだ」
俺はにっこりと微笑んだ。二重の笑みで。
俺の思惑通り、噂は更なる噂を呼んだ。
俺が小野を庇えば庇うほど、陰湿な「イジメ」というやつを俺が手を下さなくても、取り巻き連中のみならず他の一般女子までもが、微に入り細に入りやってのけてくれたからだ。
小野は何も言わないが、靴箱にカッターナイフが入っていたこともあるらしい。
全くいやしくも「音楽」を志す者たちが、ピアニストの指を傷つけようなどとは。その陳腐極まりない発想には俺も鼻白んだが、それほどイジメはエスカレートしているということだ。
小野は日増しに孤立し、難しい立場に陥っていった。
そんな小野を表で庇い、労りながら、俺は内心笑いが止まらなかった。
やはり俺は、あらゆる意味で天才なのだ。
そして、桜がその花びらを落とし、すっかり樹の葉が青々としてきた五月の或る放課後。
「日向先輩」
構内のA棟練習室・408号室でレッスン中に、小野が入ってきた。
「ああ、小野さんか。どうしたの。この時間、この練習室は僕が予約していたつもりだが、間違いだったろうか?」
「いえ……日向先輩が練習中のところを私がお邪魔して本当に申し訳ないのですが。コンクールのことでちょっと、ご相談にのって頂ければ、と」
小野が、一片の曇りもないまなざしで俺を見つめている。そして、先輩・同級問わずに虐められているという噂が嘘のように、愛らしい穏和な笑顔だ。
気にくわない。
不意に興が削がれた。
そして瞬間、小野のその可愛い顔をその躰を、ずたずたに引き裂いてやりたい衝動に、俺は駈られた。
そう。
茶番は終わりだ。
「小野」
「え……?」
小野が、一瞬、俺の顔を見つめる。
「俺に何を期待してるんだ」
俺の顔が次第にその仮面を剥いでいく。
「俺の彼女にでもなったつもりなのか?」
この瞬間、俺は完全に「真の素顔」を晒していた。
「ひゅ、日向、先輩……今。何て……」
小野の顔がみるみる蒼白となっていく。
「甘いんだよ。誰がライバルへそう簡単に助言して、手を貸したりなんかするもんか」
俺は、加虐の愉悦を楽しみながら
「俺の態度がいつもと違って、驚いているんだろう?」
クッと、俺は笑いを噛み殺した。
「俺はこの通り人望厚く、今までずっとお前の面倒を見てきた。だから、今更お前が何を言っても周りは誰も信じやしない。もっとも、今やお前は完全に孤立していて、俺だけが頼りなんだよな。その俺が素顔を見せたからといって、つれない態度はとるなよな。俺はお前が入学してくるずっと前から、お前を弄んで遊ぶことに決めていたんだ」
小野は一言も発さず、発せずに踵を返し、練習室から走り出ようとした。
とっさにその後ろ手を俺は掴んで逃さなかった。
「は、離して下さい……!」
「さっきも言っただろう。つれない態度とるなって」
小野の顔を真正面にして、俺は続けた。
「丁度もう下校時間だ。さ、帰るぞ。迎えの車が来ている」
「日向先輩……正気だとは思えません!!」
「生憎いたって正常だよ。俺にたてつくな。それがお前の為さ。そうは思わないか?」
壁際へと両手をつき、小野を追いつめて俺は言った。
じっと、耐えるようなまなざしで俺を見つめ返す小野。
ふと、その大きなすみれ色の瞳にまたしても吸い込まれそうな錯覚を覚えながらも、
「わかってくれたようだね。いいこだ。さあ、行こう」
俺はいつもの柔和な笑顔に戻っていた。
それからの日々。
相変わらず、俺は小野の送迎を続けていた。
表の顔で優しく接する時もあれば、本性全開で小野を困らせ、陰で虐め抜くこともあった。
しかし、小野は決して俺の素顔を他の生徒に話したりなどしはしない。
そして、それはもはや音楽の域だけに囚われない壮大な芸術について、送迎の間中、俺と語ったりしていた。
その会話の内容は濃く、深く、やはり只並の十五歳では決してない、異才の片鱗を俺にすら感じさせた。
だから、それは俺の予期せぬ展開だったのだ。
小野は一体どういう気持ちで俺に接し、何を求めているのだろうか。
何も求めてなどいない。恐らくそれが一番、正しい。
俺を改心させようなどとも思ってはいない。
そんなことは無駄なことだと、賢しいあいつは気付いている。
しかし、それでは何故、泣かない。
取り乱しながら俺を責めない?!
しかも、その白くしなやかな指が奏でる曲は、日増しに限りなく透明さと艶を増し、益々研ぎ澄まされていく。
その揺るぎない技術と、聴く者誰をも虜にしてしまう豊かな音楽性。且つ、楽曲に関する深い解釈。
ピアノに限らず楽器は、生の音楽というものは、考える以上にずっとメンタルな、そう生き物だ。
なのに、イジメにも俺からの加虐にも屈しないその類い希なる至高なまでの精神性。
俺は段々、日毎にわけのわからない苛立ちを感じ始め、そしてコンクールはもう直前まで迫っていた。
「日向先輩のお家って茶道家元らしい檜造りの、本当に素晴らしい純日本家屋なんですね。錦鯉の泳ぐ池といい、手入れの行き届いたお庭もすごく広くて綺麗。それに、こんな趣味のいい離れまであるなんて」
堂々たる母屋の入り口から入り、延々と続く渡り廊下を通り抜け、ようやくその日本庭園へと降り立つと、そこから更に遠くに位置する離れへ歩いてきた小野は、俺に誘われるままその中へと入った。
「ここが僕専用の音楽練習室だよ。小さいが、キッチンにベッド・デスク完備で、勉強も寝泊まりもできる。何より防音設備も完全だから、外にも家の者にも気兼ねなく、夜中・早朝問わずに思い切り練習できるからね」
小野はその離れの中で何が珍しいのか、きょときょと周りを見回している。
「君には気がついたかな。このピアノは「ベーゼンドルファー」だが、君のお気に召すかな?」
部屋の奥一角に位置するグランドピアノにもたれかかりながら、俺は言った。
「ええ、一目でわかりました。私のピアノもドルファーなんです。世に言う「スタインウェイ」じゃなくてたまに不思議がられるんですが、このキー独特の重厚さは、私の指の練習には丁度良くて。先輩、ピアノに触れてもいいですか?」
嬉しくてたまらないといった様子で、小野はウィーンが世界に誇るピアノの名器・ベーゼンドルファーへと駈け寄ってきた。
ピアノの話をする時、小野は殊に嬉しそうな顔をする。こいつには偉大なる音楽の前に屈服するイメージなど、かけらもないのかもしれない。
明日はもう院内コンクール本番の日だ。
そんな大事な一日に俺は無理矢理、小野を初めて自宅へと呼び出した。午後三時に迎えをやることを昨日の帰りの車の中で告げ、有無を言わせなかったのだ。
「で、先輩。大事なお話て何でしょう?」
ごく軽い指慣らしという風に、極めて高度な音階が展開するショパンの「練習曲・第一番」を軽々弾き終えると、小野は椅子に腰掛けたまま俺の方に向き直り、不可思議そうな顔で問うてきた。
「決まってるじゃないか。明日のコンクールのことさ」
俺は瞬間、鋭い眼光を放った。
「単刀直入に言うよ。出場を辞退してほしい」
「何ですって?!」
小野は珍しく大きな声を上げた。
そして、信じられないと言わんばかりの面持ちで、俺をただ見つめる。
「学院内では専ら、僕か君のどちらかが優勝するという噂で持ちきりなのは、君の耳にも届いているだろう? 高等部からだけでなく松朋音大生、院生から7名。その中にはフルートやクラリネット、チェロ専攻科などからも辣腕者が出るが、さして問題ない。勿論、僕は君に負けるつもりも更々ない」
「だったら……だったらどうして。そんな……」
「念には念を入れて、石橋を叩くのが主義でね」
俺は、わざと慇懃な言葉を吐いていた。
「君は知らないだろうが、明日のコンクールの優勝者は、なんとあの千堂明の指揮で、コンツェルト・デビューができるらしい。一般生徒にはまだ知らされていないが、僕は面倒な生徒会役員の役得でね。確かな筋から情報を得た」
息もつかず、俺は続ける。
「僕は来年卒業したら上へは進まず、ウィーン音楽院への留学を考えているが、こうなったら話は別だ。一足飛びでデビューが出来る上、千堂指揮で世界的な箔もつく。こんなうまい話を逃せるはずがないだろう? だから、優勝候補の君は、辞退してくれないか」
アルカイックスマイルを浮かべながら俺の目は、暗闇の中の獲物を狙う蛇のように、妖しく光った。
「そんなこと本気で仰っているとは思えません!」
「本気だとも!!」
「では……」
いつもは綺麗なソプラノをしている小野が、アルトがかった低く、擦れた声を絞り出した。
「嫌です!……と、言ったら……?」
「仕方ないね」
俺は大仰に溜息をつくと、静かに呟いた。
「それなら。君には明日の夜までずっとここで過ごしてもらうことになる」
俺のその一言で、小野はばっと椅子から立ち上がった。
そして、小刻みに躰を震わせている。
「どうしたんだい? 小野さん、そんなに震えて。ああ、肌寒いんだね。春が過ぎて間もない夕刻だから」
俺はベーゼンドルファーの上にじわじわ小野を追い詰めながら、遂に小野の上半身を押し倒して言った。
「心配しなくても、俺がこれから暖めてやるよ」
「いやっ……!!」
小野が身をよじる。
「泣けよ。騒げよ。ここは母屋から遠く離れた、しかも防音設備の整った部屋。どんなに叫ぼうが外にも母屋へも届かない。……ああ、なんだ。夜の帳が恐いのか。心配しなくても明日の朝まで、俺が抱いていてやるよ。眠らせやしない。朝が来たらぐっすり眠りに落ちるといいさ。明日中ここで一人で、な」
小野はもはや無抵抗だった。
じっとその瞳を閉じている。
観念したかと思った、その時。
「……可哀想な」
「何だと?」
小野の小さな呟きを、俺は聞き逃さなかった。
小野は、ゆっくりと息を吐いた。
そして再び深く息を吸うと、おもむろに語り始めたのだ。
「先輩のヴァイオリン……前回の院内音楽コンクール優勝の記念に特別に入手されたというあの世界の「ストラディヴァリウス」が、いつも哀しそうな音で鳴いている。何よりその冷たい音。温厚なお人柄に反していて、とても意外でした。技術は群を抜いて確かだし、解釈も洗練されているのに、何かが違う。それが先輩の演奏に対する私の率直な感想でした。程なくその理由はわかりましたが、私なんかが何をしようが無駄。それもすぐに悟りました。だから純粋に、至高の芸術の話だけを先輩とはお話ししたんです。先輩は間違っているけれども、先輩なりに音楽を、ヴァイオリンを心から愛している。それも私には伝わってきましたから。先輩の奏でるその、ストラディヴァリウスの弦の、響きで……」
訥々と、小野は続けた。
「だから。コンクールに出ると決まった以上、日向先輩とは純粋に競いたい。こんな……卑怯なやり方ではなくて」
小野は、出会って以来初めて、俺の前で大粒の涙を零していた。
今まで、俺や他の誰からどんなに虐められようともじっと耐え、いつでも微笑みを絶やさなかったあの、小野が。
「俺は……」
俺は固まったまま、雷に打たれたような衝撃を受けた。
俺の愛器……母がつてを頼り、苦労して手に入れてくれたあのストラディヴァリウスが哀しんでいる?!
そんなことはどの教授をして、誰一人からも指摘されたことなどなかった。
何故なら、俺は。
俺は確かに音楽を、俺の愛器を、何よりヴァイオリンを……。
俺は全身全霊かけて愛しているからだ……!!!
なのに、俺は。
深い、懺悔のような後悔の念が、生まれて初めて俺を静かに貫いていた。
まんじりともせず、ただ息詰まる時間が流れてゆく。
しかし。
氷のように冷たい俺の性が、雪解け水のように溶解していくのを、俺はしみじみと感じていた。
そして、俺は。
多分。
きっと、こいつを────────
俺はようやく我が身から小野のか細い躰を解放した。
我が手を見つめる。
その掌には、他人を欺き、貶んできた己の性が垣間見えるようだった。
俺はそっとゆっくり、小野の、その小さな肢体を抱き締めた。
「先輩……?」
「手荒なことはもう、しない。ただ、もう暫くこのままでいさせて、くれ」
「日向先輩」
小野はようやく躰の力を抜くと、俺に抱き締められるまま穏やかに、どこまでも温かく優しい慈愛の微笑みを、その透き通った白い頬に浮かべていた。
夕暮れ時の構内。
B棟練習室・205号室を俺は訪れていた。
小野が、今し方閉幕したコンクールで奏でたばかりのその曲を弾いている。
俺は入り口のドアから緩やかに拍手した。
「優勝おめでとう、小野さん」
「日向先輩!」
びっくりしたらしく、小野はその手をすぐ止めた。
「どうして此処へ……?」
「君を探していたんだ。練習好きの君のことだ。コンクールが終わった今でもきっと練習室だと思ってね。君の紡ぎ出す音は何より君の居場所を教えてくれるから、迷うこともない」
俺は小野の許へと、歩を進めた。
「まさしく完璧なリストだった……! しかも特筆するに値するのは、あの曲の本質を突く甘やかなその叙情性。「ブラーヴァ!」の一言に尽きた。そう、まるで音楽の精が舞い降りてきたかのような……稀に聴く、素晴らしい演奏だったよ」
「先輩……」
感に堪えない様子の小野を前に、俺は続けた。
「しかし、まさか「愛の夢」とはね。正直いささか拍子抜けしたんだ。君の実力だ。同じリストなら、「ハンガリー狂詩曲」でも「メフィストワルツ」でも。或いは、君の得意とする重厚なベートーヴェンのソナタ、例えば「テレーゼ」でも。いくらでももっと灘曲で挑んでくると思うじゃないか。おかげで自滅させられたようなものだ。もっともこちらも技術には確たる自信があったし、今日の僕の演奏。ヴィエニャフスキ「スケルツォ・タランテラ」が、解釈・表現力その他の面においても劣っていたとは思わない」
黙ってこくりと、小野は頷いた。
「……強いて言えば。姑息な手段を使おうとした昨日の天罰だな。実に僅かな寸分の気の乱れが、優勝を逃す結果となった」
俺はあっさりと自嘲気味に、苦笑した。
「日向先輩……」
「どうした?」
「何故、私が「愛の夢」を選曲したかおわかりになりませんか?」
「いや。さっきも言った通りだ。まあ、若干十五歳の夢見る少女には、存外相応しい選曲だったのかもしれないがね」
「私……私、そんなコドモじゃありません!」
突然小野は、絞り出すように叫んだのだ。
「あの「愛の夢」は、いつも……。いつでも日向先輩のことだけを想いながら奏でていたんです」
まさ、か……?!
小野の思いも寄らぬその告白に、俺は耳を疑っていた。
狼狽する俺から視線を外すと、小野はまた夕べのように語り始めた。
「私、松朋に来てからずっと、ずっと辛かった。学校なんか行きたくない。行けばイジメが待っている。帰れば慣れないマンションに独りぽっち。でも……日向先輩だけは必ず毎日迎えに来て下さって、唯一人、私を庇って下さった。それだけが私の心の支えだった」
「でも、俺は」
「ええ、まさに青天の霹靂でした。以来、帰宅してからは一人、泣いてばかりいました。でも、私にはいつでもピアノが。函館から一緒にやってきたベーゼンドルファーが、すぐ側にいてくれたから」
その言葉に、俺は今更ながら、小野の音楽に対する深い本当の愛を見る思いだった。
「そして私は。芸術のお話をする時の日向先輩には、心から尊敬の念を抱きました。先輩の音楽に対する理解は本当に、深くて。そして……」
小野はその時、初めて言葉を飲み込んだ。
何かを逡巡するように
しかし、再び、ゆっくりと口を開いた。
「そして……。その、麗しいお姿で……優しくされると、たまの気まぐれだとわかっているのに、私は……・。惹かれていく自分が、どうしても抑えられなかった」
小野は一瞬、遠くを見つめるような瞳をして言った。
「その想いを昇華する為にあの、「愛の夢」を選んだんです」
凛と澄んだ小野の声色に、俺は言葉を失っていた。
齢十五にしては深すぎる。そう、ある種、恍惚とした官能すら漂わせていたあの解釈は、俺のことを。
散々な仕打ちをしてきたこの俺を……!
「私……私は。日向先輩のことが……」
「ストップ」
俺は人差し指を立て、小野の愛らしい口唇を塞いだ。
「この先は言わなくていい」
それだけは充分心得ていた。
そして俺はここに来た本来の理由を口にしていた。
「君が、僕のことを想って「愛の夢」を弾いてくれたというのなら尚更だ。折り入って一つお願いがある」
「何でしょう……?」
「僕と一緒に今から一曲合わせて欲しい。君から真の音楽性たるものを教わった今、是非共に、奏でてみたい曲があるんだ」
小野の顔に、ぱっと笑みが浮かんだ。
「私、合奏大好きなんです! この松朋入学以来、コンクール一辺倒でどなたとも音合わせ出来なくて。淋しく思っていたんです」
小野がピアノの前で呟いた。
「それも、日向先輩のヴァイオリンに合わせられるなんて……。ずっと、私の夢だったんです。ずっと」
そんな小野の様子はやはりどこか夢見がちで、俺には今となっては唯、いじらしかった。
「ところで何の曲でしょう? 大抵の伴奏は出来ると思うのですが」
小野は、小首を傾げながら問うた。
「グノーの「アヴェ・マリア」だよ」
「ああ、あの優しい旋律の! 私も大好きなレパートリーの一つです。でも。何故この曲を?」
その混じりけのない瞳を見つめながら、俺は今度こそはっきりと小野に応えていた。
「聖母マリア……常に微笑みを絶やさず、僕の罪すら赦してくれる、僕の理想の女性だ。即ち小野」
俺は優しいまなざしで、小野の瞳を見つめて言った。
「君のことだよ」
「日向先輩……」
小野の大きなすみれ色の瞳が潤んでいる。
「その呼び方はもう卒業だね。今度からは、「遙希さん」とでも呼んでくれ」
「はる、き……遙希さん……」
小野はうっすらと頬を染め、口籠もりながらも噛みしめるように、小さく俺の名を呟いた。
「そう。愛しい……愛しくて、愛してやまない僕の」
俺の……。
「俺だけの真璃亜」
歌うように、囁くようにその名を初めて口にすると、俺は真璃亜の額に優しいキスをひとつ落とした。
そして俺と真璃亜は、真の芸術性に恵まれ、美しい音楽に彩られた輝かしい未来を予感させる「アヴェ・マリア」を、愛に満たされたこの上ない幸せな音色で、共にいつまでも奏で続けた。
至福のままに──────────