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「お兄ちゃん、どうしたのその傷?」
静けさ漂う暗い夜更け。クラドは誰も起こさないようにそ~っと自宅に帰ると、リリがまだ起きていた。お帰りの挨拶もなしに妹は兄の顔をずいっと覗き込んだ。
「なんでもないよ。仕事中にちょっと転んだだけだって」
「パパ、ママ。お兄ちゃんがケガしてるよ」
何だって、と部屋の奥から父が足を引きずりながらもダッシュで飛んできた。母も速足でその後に続く。クラドは腫れた頬を鞄で隠した。それでも父はぐいぐい寄って見てきた。
「ああ、ワシの可愛い息子の頬がパンッパンに膨らんでるじゃないか。リスみたいだぞ。あれ、リスか。それはそれで可愛いかもしれんな」
「パパ、のん気な事言ってないでクラドの服を持ってきて。リリはお兄ちゃんを水場に連れていくのよ。手当てはその後ね」
「いいよ大した傷じゃないし」
「だめだぞクラド。放っておくと中々治らない。パパの足みたいに動かなくなったら困るぞ」
「そうよお兄ちゃん、さあ」
リリに背中を押され、クラドは水場まで連れて行かれた。今だにガナーガの臭いが残る汚れた作業着を、リリは嫌な顔を一つせずに受け取って洗濯カゴに入れた。
クラドは水場で汚れと汗を流した後、用意してくれた寝間着を着て居間に向かう。家族が濡らしたタオルと薬草を持って待ち構えていた。
「三人でやらなくてもいいんじゃ」
「お兄ちゃん、いいから座って」
イスに座らされるクラド。父、母、妹が同時に濡らしたタオルで腫れた頬を拭き、薬草を塗っていく。
「ちょっとパパ、塗り過ぎだよ」
「リリだってお兄ちゃんの唇、だんごみたい分厚く塗ってるじゃないか」
「二人とも薬草の塗り方で張り合わないの。はい、これで大丈夫よ」
薬草の塗り過ぎで顔はすごい事になっている。でも、せっかく心配して塗ってくれたのだから、とクラド笑顔でお礼を言った。
「ありがとう。痛みが引いてきたよ」
ぐうぅぅぅう。お腹が文句を言うように鳴った。クラドは昼から何も食べてない。母がクスっと笑った。
「すぐご飯にしましょう。みんなお腹減ってるわ」
「え、誰も食べてないの?」
「あんたが帰って来るの待っていたのよ」
母が台所で鍋を火にかける。次第に食欲を誘ういい匂いが漂ってきた。唾液が口の中を満たす。早く食べたい。クラドが我慢して待っていると、父と妹が食卓に料理を並べた。ふわふわのパンと湯気が立ち上る温かそうなスープだ。クラドが見たことのない肉もある。珍しくお酒まで用意されていた。
「さ、みんな席について。食べましょう」
「うん。いただきます」
父と母は酒を、クラドとリリには果実のジュースをコップに注ぎ食事が始まった。
クラドがスープを口に運ぶ。熱っ。でも、美味しいや。数種類の野菜と大きめのお肉が沢山入ってて食べ応えがある。疲れた身体に温かいスープが染み渡った。肉もちぎって食べた。なんだこれ、口の中でとろける。始めて食べた見たことのない肉は、信じられないくらい美味かった。空腹が満たされていく。あぁ、生き返る気分だ。
「ママと一緒に作ったんだ。美味しい?」
「うん。特にこの肉、初めて食べたけどすごく美味しかった」
「それお肉屋さんで特売だったのよ。アイディンミートっていう会社のお肉でね、ここら辺じゃ生息してない動物を遠くで仕入れているそうよ」
「へえ、そうなんだ」
もう一口食べる。何度口に運んでも美味かった。
「リリは料理も上手だね」
リリが嬉しそうに笑った。
「それにしても今日はすごく豪華だね。誰かの誕生日ってわけじゃないのに」
「ふっふっふ。それね」
急に父が胸を張りだした。
「発表します。本日、パパは再就職先から内定をいただきましたー」
「マジで……ほんとに、ホントに…………おめでとう!」
クラドは思いっきり拍手した。母も妹も。父は心の底から嬉しそうだった。
「みんなには苦労かけたね。思えば前の会社が魔獣被害に会って倒産して、それから故郷を離れてクラハに引っ越して、職がなかなか見つからずにクラドが先に就職して助けてくれて……パパ、本当に家族がいなくちゃ生きていけなかったよ」
「次は何の仕事なの?」
「生鮮食品店のレジ係りだよ。計算ニガテだから練習しないといけないな。クラドはどうだ、仕事は順調か」
「え、あっ、ああうん順調だよ」
「お兄ちゃん、私も聞きたい。今日はどんな仕事をしてきたの」
「ママも聞きたいわ」
家族が身を乗り出して聞いてきた。妹はキラキラ光る目でクラドを見ていた。それは幼い頃、クラド達兄妹を落石から助けてくれた勇者に送った眼差しと同じだった。う~ん、尊敬されるような仕事なんてできてないぞ。でも、心配させるようなことは言えないよな。クラドは席から立って大きく両手を広げた。
「リリ。これ位でっかい蛇に会った事あるかい?」
妹は首を横に振った。
「兄ちゃんな、今日は逃げ出したでっかい蛇の魔獣を捕まえる仕事をしたんだ。ダンジョンの中に広がる森の中でね。
いや~、とんでもなく長くて太い凶暴なヤツだったよ。兄ちゃんを食べようと大きな口を開けて襲い掛かってくるんだ」
両腕をガナーガの大きな口に見立て、リリの前で閉じた。そして身体を捻り、攻撃を避けた時のように床を転がる。精一杯の演技であの時の様子を表現した。
「でも、兄ちゃんは勇気を出してその猛攻を避けて、ヤツを罠の位置までおびき寄せたんだ。危なかったよ。ジュウナ先輩が罠を作動させなかったら、捕まえるどころか今頃あいつのお腹の中で栄養になっていたな」
「顔の傷はその時にできたのか。すごいな息子の仕事は」
「えっ。う、うんそうだよ」
言えない。ホントはハンター班と乱闘になった時にできた傷だけど心配させるから言えるわけなかった。
「すごいなぁお兄ちゃん。他にはどんなお仕事したの」
クラドはこの前、ワーウルフに襲われた事を話した。リリは部屋からユート君を持ってきて抱きながら聞いていた。父も母も驚いたり、感激したり、時には息を飲んで耳を傾けていた。
お兄ちゃん、すごい。何度もリリはそう言ってくれた。心が、苦しかった。すごいわけない。使えない新人と言われて、失敗するといつも人からバカにされて笑われている僕が、すごいわけないのに。
それなのに、リリはクラドの事を尊敬していた。勇者に関わる会社に就職できた時、飛んで喜んだのはクラドよりリリの方だった。勇者を目指す人が訓練するダンジョンを作るお兄ちゃんは私の自慢だよ、って。すごいのはジュウナ先輩で僕じゃない。何度も言おうと思ったけど、一度も口からは出なかった。
食事が終わり、仕事の話を続けていると、次第にリリの頭がゆらゆら揺れた。ユート君が手からすり抜け、床に落ちた。もう限界みたいだ。
「さぁ、これで仕事の話はおしまい。もう寝ような」
「えー……もう少しいいでしょぅ…………」
「リリ、お兄ちゃんは明日仕事あるから、もう寝かせてあげましょう、ね」
母が言ったのが聞こえたのか、リリは頷いた。赤い顔の父はテーブルを枕にして既に寝ている。いびきが口から漏れていた。
「クラド、リリを部屋に、お願いね」
母がお皿を片付けながら言った。リリのまぶたは重そうで、さっきから閉じかけていた。ユート君を拾い上げて、リリと一緒に背負う。妹の部屋まで運び、そっとベットに寝かせた。
「ねえお兄ちゃん。お願いがあるの」
「何だい」
「ママのお手伝いとかお勉強がんばるからね、あのね、いつか勇者に会わせてほしいの」
「えっと、それは」
「だめ、なの?」
返答に困る。リリの視線がクラドの心を掴む。クラドにはもったいない位の羨望の眼差しだった。…………つい言ってしまった。
「うん。いいよ」
「やったあ! お兄ちゃん、ありがとう」
「じゃ、お休み」
喜ぶ妹を背にして部屋を出た。やっちまった。どうやってこの約束を守ればいいんだ。勇者に関わる仕事をしていると言っても、そんなコネ持ってない。入社してから一度だって本当の勇者に会ったことがないのだ。
クラドは困った。勇者に知り合いなんていない。世界を救うという使命がある多忙な勇者とどうやって知りあえばいいんだ。あぁ、守れるか分からない無理な約束しちゃった。明日ジュウナ先輩にでも相談してみよう。
はあ。無意識に出たため息は、今日で一番大きかった。