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「クラド=ワーグス君、すまないがちょっとこっちに来てくれ」
そう言いながら上司が手招きしている。クラドは急ぎ足で上司の元へ向かうと、一枚の紙を差し出された。
「悪いけど、転勤してもらうよ」
「ええっ!?」
差し出された書類を瞬時に受け取り、目を通す。そこには転勤先の住所も書いてあった。
魔王の里、暗黒街三番地。クラドは目が飛び出そうになった。
「な、なっ、何ですかこの転勤先は」
「ウチの支店がそこにできたんだよ」
「はいぃっ? 魔王の里なんて行ったらすぐに魔獣や魔族に食べられちゃいますよっ。無茶です無理です無謀です」
「もう決まったことだから変更はできない。絶対にね」
上司は顔色を変えることはなかった。他人事だと思って涼しい顔をしている。周りにいる他の社員達も一緒だった。同情など微塵もしていない。むしろ笑ってひそひそ話をしている。冷やかな視線がクラドにグサグサと突き刺さった。
「ワーグス、転勤だってさ」
「仕方ないさ。あの仕事ぶりじゃあな」
「だよな~。あんまり役に立ってないし。転勤になってホントよかったよ」
「でも、寂しくなるな」
「そうか?」
「だって、いじるヤツがいなくなるんだぜ」
酷い。みんな酷すぎるよっ。普段から僕のことをアゴでこき使いまくっていたのに!
クラドは悲しみを噛み締めてうな垂れた。力なく自分の机に戻ると、見慣れた靴が視界に入った。顔を上げる。そこにはジュウナがいた。
「クラド、転勤するんだってな」
ジュウナは俯きながらクラドに袋を手渡した。中にはお金が入っていた。
クラドは涙を流して感激した。ジュウナ先輩が、僕のことをストレス発散機としか思っていないあのジュウナ先輩が、餞別の品をくれる日が来るとは。先輩は、やっぱり他の社員とは違うんだ。クラドは心を込めて頭を下げた。
「今まで本当にお世話になりました」
ジュウナは、感動して泣きまくっている後輩の手を力強く握った。
「あっちについたら、魔族の特産品でも買って送ってくれ」
「は?」
「袋にある金の量だったら、けっこう高い物を買っても大丈夫だと思うから」
え、えっ? 混乱しているクラドの背中を、ジュウナは笑顔でポンっ、と叩いた。
「じゃ、頼んだぞ♪」
そ、そっ――
そんなああああぁぁぁぁ!
「ぐへっ!?」
背中に衝撃を感じて、クラドはふっと我に返った。周囲を見渡す。ベッドから転げ落ちたみたいだ。いつもと変わらない、自分の部屋。窓の隙間からは朝日が差している。今のことが全部夢だったと気づく。夢で本当によかった。
クラドは目を擦り、寝たまま背伸びをする。ボキボキッと鳴る骨が身体の疲れを知らせた。左肩はもう治っていたが、全身だるい。身体が疲れで重く感じる。休みたい。寝返りして枕に顔を埋めた。
会社休みにならないかな。通勤馬車の運転手が風邪で馬車が動かないとか、異常気象で家から出れないとか、魔王が攻めてきたとか、そういう理由で。いや、魔王が攻めてくるのはナシにしよう、仕事どころじゃなくて命の危機だ。みんなにもすごく迷惑かけるし、それはやめておこう、なんてね。と、クラドが現実逃避をしていると聞き慣れた声が耳に入ってきた。
「クラド、起きなさい。早くしないと遅刻するわよ~」
起きないと遅刻…………え、ちこくぅ!?
クラドは飛び起きた。ベットの上にある時刻石を見ると、太陽の色が浮かび上がっている。今日は朝礼がある日なのに!
急いで服を着替えて靴を履く。髪の毛はボサボサのままだが、気にしている暇はない。
「まだ寝てるの? 朝ごはん冷めちゃうわよ」
母が料理を手に持ってわざわざクラドを呼びに来た。だけど、ゆっくり話をしている暇はない。鞄を持って部屋を出る。
「母さん、今日も飯いらないから」
「またあ? あんた最近顔色悪いよ。ちゃんとご飯食べてないからじゃない?」
皿の上には丸いパンと卵焼き、それにマコルの干し肉が乗っていた。卵の上に赤いソースでクラドの名前まで書いてある。クラドの顔が少し赤くなった。未だに小さな子ども扱いされてる。
「ちょっと待ってなさい。これお弁当に包んであげるから」
「いや、それは、時間ないからいいって」
断っているのに母は台所に向かった。その卵焼きが入ったお弁当じゃ、会社で開けるには勇気がいるんだけどなぁ。
隣の部屋から妹のリリがあくびをしながら出てきた。鎧を着た男の子の人形、ユート君を抱いている。丸い手は剣と盾を持っていた。
「ふぁ~おはよ。あ、お兄ちゃん」
リリがユート君の剣と盾を構える格好にした。
「でたな魔王。このユートが退治してくれようぞ」
時間がないんだけど、と思いながらもクラドは右腕を高々と上げ、蛇の形にしてから指を動かす。まさに魔王が喋っているように見えた。
「ふっふっふ、よく来た勇者よ。だが、ここでさようならだ。ここがお前の墓場になるのだからな。とああっ」
魔王の噛みつき攻撃。ユートはそれを盾で受け、剣で斬り返す。魔王はあっさり斬られた。
「うあああああ、やられたー」
右腕と一緒に倒れるクラド。リリは頬を膨らませた。
「ちょっと弱すぎ。お兄ちゃん、手加減してるでしょ」
「い、いや、そんなことないって」
いつもなら激しい戦いに突入して、ピンチになると真の魔王が出てきて加勢することが多い。時間がないから早く終わらせようとしていることは妹にバレていた。
「また家に帰ってきたら続きやろうな。じゃ、会社に行くから」
ささっと立ち上がって出ていこうとした時、リリが抱きついてきた。
「一緒に朝ごはん食べよう」
「いや、時間ないから母さんと食べて」
む~、っと不満を露わにするリリ。抱きついて離してくれない。
「朝ごはんくらい一緒に食べてお話しようよ。最近のお兄ちゃん、リリと遊んでくれなくなった。夜遅く帰ってきて誰も起こさずに一人で夕飯食べて、知らない間に寝てるんでしょ。リリ寂しいなぁ~」
リリ、潤んだ瞳でこっちを見ないでおくれ。気まずいって、会社行きづらいって。
「ごめん、本当に時間がないんだ」
クラドが意志を曲げないことがわかり、リリは弁当を包み終わった母に援護を求めた。
「ママぁ、お兄ちゃん遅刻しそうだからって、朝ごはん抜きで会社に行こうとしてるのよ。お腹減って仕事中に倒れたら大変なのに、ママから何か言って」
「ダメよリリ。お兄ちゃんを困らせちゃ」
母が膝を床につけて視線をリリに合わせる。そして優しい口調で言った。
「お兄ちゃんはね、早く会社に行ってやらなきゃいけない大切な仕事があるんだよ。リリも知ってるでしょう。兄ちゃんがどんな仕事してるのか」
母の真面目な顔を見たリリは、我慢を重ねた子犬のように小さく頷き、クラドから手を離した。
「ありがとなリリ」
「またお仕事のお話聞かせてね。お兄ちゃん待ってるから」
「起きていられたらね。でも、今日も遅くなるよ。母さん、一緒に朝ごはん食べてあげてね」
母が弁当と、水筒を持たせてくれた。
「今日も暑くなるわよ。ちゃんと飲んで倒れないようにね。塩も舐めるのよ。あと盗賊とか知らないおじさんに付いて行かないようにね。まっすぐお仕事に行くのよ。わかった?」
「わかってるって。じゃ、行ってきます」
いつも子ども扱いしてくる心配性の母と、無邪気にユート君を使って手を振る妹にクラドは背を向けて家を出る。元気の良い太陽が空の上から出迎えた。今日も暑い中、朝から全力疾走だ。
人通りの少ない狭い住宅路を曲がり、家と家の間を伝って干してある洗い立ての洗濯物の下を抜けて、勇者の格好をした子供の看板を横切る。
犬と散歩するおじいさんを追い抜き、ゴミ袋を持ったまま立ち話で盛り上がっている主婦を避けて左に曲がる。大通りに出ると、クラハの街はもう朝の混雑が始まっていた。
仕事に向かう人や学習用鞄を背負った子供、通学用の馬車や商売人が引く荷車。筋肉モリモリの戦士や剣を背負っている騎士、様々な人や物が目の前を流れる。馬車が通り過ぎた。クラドがいつも乗っている通勤馬車だ。
「すみません待って、乗りまーす」
汗だくになってクラドが追い駆けると、馬車は速度を落としてくれた。車輪の回転が緩やかなる。運転手にお金を払い、馬車の後部から飛び乗った。
いつもと違い、車内は大量の乗客でぎゅうぎゅう詰めだった。座席も全部埋まっている。クラドは汗を袖で拭きながら、少しでも空いている場所を求めて人の群れに潜った。車体が揺れて、鎧を着けた人の胸板に顔が押しつけられた。クラドの顔が歪む。後頭部にも鎧の感触。振り返るとそこには鉄の胸当て。車体が揺れる度に周りの人でぺったんこにされそうだ。会話が飛び交い、空中にもスペースはない位、騒がしい。みんな大きな声で喋っていて会話の断片が耳に嫌でも入ってくる。
「レオル様みたいな勇者になってやる」
「試験に合格すりゃ晴れて俺も勇者様だぜ」
「合格できれば、な。素直に勇者二級の試験にしとけよ。一級は無理だっての」
クラドは体をよじって、外の風景が見える窓際まで避難したが、ここも狭い。クラドの太ももに誰かの剣の鞘が当たっていた。視線を鞘の元へ辿る。クラドの隣にいた剣の持ち主は緊張した面持ちで、クラハの地図をじっと見つめていた。そういうことか。クラドは車内が混んでいる理由がわかった。
クラハは剣の国にある一番大きな都市だ。街の北には鉱山資源が豊富なリオイア山脈、南には隣国まで続くルアンダ川、東に向かうとオオル大地が広がっている。
人々の生活は物流と鉄鋼業が支えている。優秀な鉄鋼職人を抱える企業が多く、質の良い加工製品や武器、道具を買いに戦士や騎士、流通業者がクラハに足を運ぶ。
でも、隣にいる剣士は武器や防具を買う為だけにクラハに来ているわけじゃない。この街に人が集まってくる最大の理由は他にある。
それは、勇者だ。
クラハは剣の国で唯一、勇者試験を実施している。我こそはと思う勇者志望者が、己の可能性を信じてこのクラハに集まってくるのだ。
隣にいる剣士の地図には試験会場に赤い印がついていた。きっと他の町から勇者試験を受けに来たんだろう。装備を整えて馬車に乗っている他の乗客も目的は同じはずだ。街中では勇者を夢見て試験を受けにきた若者をよく見かける。勇者が関係する企業も多く、クラハの人口の三割は勇者に関わる仕事をしている。街には勇者を模した像やお店の商品、看板が至る所にある。
クラハの風景に、勇者が彩りを与えていると言っても過言じゃない。人々は親しみを込めて、クラハのことを勇者の街と呼ぶ。
馬車が大通りを抜け、街の外へ向かう一本道を走る。視界を横切る密集していた建物が数を減らし、野菜や小麦が実る農地がぽつぽつ現れた。視界が開けると街の外にある城よりも高い灰色の岩壁が見えた。
馬車が町はずれの停留所に着いた。鎧を着た騎士達が次々と降りていく。クラドも隣にいた勇者希望の剣士も降りる所は一緒だった。
剣士はさっきまで見ていた地図を畳んで懐に入れ、そしてゆっくりと深呼吸を始める。緊張しているみたいだけど、目には希望が満ち溢れていた。
この人も勇者になるのかな。クラドは幼い頃を思い出す。自分を守ってくれた大きな勇者。全身を包む銀色の甲冑に、風になびく炎のような赤色のマント。クラドとリリのヒーローだった。
「君も勇者試験受けるの?」
若者の剣士がクラドに声をかけた。
「え、いや、あの、ああっ」
気付かずに剣士の横を歩いて試験会場に行くところだった。
「し、失礼します」
クラドは顔を真っ赤にしながら剣士に背を向けて、試験会場の反対方向にある仕事場を目指して走り出した。仕事だ仕事。