これが日常
ミスった―――
もっと注意していればよかったと、クラド=ワーグスは思った。でも、もう遅い。彼の小さな身体を支えていた細い右足は、見事に石畳にめり込んでいた。
別に手抜き工事で足元が崩れたわけじゃない。むしろ丁寧に作られている……罠が。
壁から煙が噴出して薄暗いダンジョンの広い通路に充満していく。あわわわゎ、マズいよどうしよう。クラドは両手で足を掴んで引っ張った。しかし、抜けない。がっちりと足に石が食い込み、何度力を入れてもぴくりとも動かなかった。
巨大な石臼を動かすような、重い石と石が擦れて動く音がする。クラドはビクッと身体を震わせ、辺りを見回した。何も見えないが、煙の奥から低い唸り声がした。魔獣だ。クラドの顔が青ざめた。
やばいやばいヤバい。クラドは腰につけた道具袋に震える手を突っ込んで、魔獣除けの笛を探した。釘、鍵、石ころ……焦れば焦るほど、笛は見つからない。釘や石ころをそこらに捨てて、袋の中を探る。親指ほどの大きさの木の感触……あった。
クラドは笛を口元に運び、息を吸いこむ。左肩に刃で切られたような痛みが走った。手から笛がすべり落ちて転がる。上着に赤い染みが浮いてきた。必死に周囲に目を配る。何かがいる気配はするのに、煙で姿を見つけられない。手を伸ばしたが地面に落ちた魔獣の笛まで届かない。
素早い足音が近づいてくる。クラドは涙目になりながらも腰に付けた小型のハンマーを握りしめ、構えた。充満した煙を裂いて、鋭い爪が目の前に現われる。
「いやっ、ちょっ、わああああああああああああ」
叫び声を上げながらハンマーを振ったが横薙ぎで簡単に弾かれる。振り下ろされた爪はバランスを崩して倒れたクラドを掠め、そのまま地面に直撃。亀裂が走り、石畳が崩れて大きな穴が開いた。
鋭い爪を持つ魔獣が、石畳の破片と一緒に落下していく。クラドは体を捻って腕を伸ばし、断崖のような形で残った石畳の角を必死に掴む。釘や魔獣除けの笛、道具袋も底の見えない暗い穴に吸い込まれていった。 眼下にできた大きな穴を見てクラドは震え上がった。こんなの当たったら一発であの世行きだよ、あっ……。クラドの右足が軽くなっていることに気付いた。石畳が崩れ落ちたおかげで罠はすっかり外れていた。
ハンマーを腰に差し、両腕で必死に這い上がる。穴から抜け出す時に上着が石畳の角に引っかかり破れた。血の付いた上着を脱ぎ、穴の中に放り投げてからこの場を離れた。頭の中の地図を頼りに視界の悪い通路を走った。穴の方で、激しい叫び声と共に力任せに布を引きちぎる音が聞こえた。魔獣はクラドの匂いを完璧に感知できるようだった。煙が充満して視界は悪くても、クラドの左肩から出る血の臭いを嗅ぎつけて向かってくる。
クラドは頭をフル回転させた。どうすれば、どうすればいい…………そうだ! そうだよ困った時は相談しろって、先輩に今朝言われたばかりじゃないか。ジュウナ先輩、まだ同じ階にいるはずだ。あの人ならこの状況を何とかしてくれる。急いで報告だ。
傷口を手で押さえたままクラドは煙の充満した通路を進む。しばらく走ると、いきなり顔、続いて胸と腰に衝撃が駆け抜ける。痛たたた、何があったんだ?
ぶつかった場所を触る。冷たい、鉄の感触。指で擦ると、突起物に当たった。よく見ると、巨大な竜の装飾が分厚い鉄に施してある大きな二枚の扉がそこにあった。クラドの目が輝いた。
思いっきり力を入れて押した。しかし、動かない。顔を真っ赤にして血管も浮き出るほど押しているのに、全く開かない。扉には鍵が掛かっていた。クラドは膝から崩れ落ちそうになった。鍵、落とした道具袋に入ってた。
戦うしかないのか、と考えてもクラドは自分が戦って勝てるとは砂の粒ほども思えなかった。
膝は勝手にガクガク震えている。相手は防刃仕様の服を切り裂き、しかも一撃で石畳の床を軽く破壊できる腕力を持つ魔獣だ。非力なクラドじゃ勝負にもならない。ハンマーを振り回しても弾かれるだけだろう。
この扉の先のフロアにジュウナ先輩がいる。先輩に会うことができれば助けてもらえる。扉がなければ助けてもらえるのに、扉さえなければ…………クラドはハッとして扉を急いで調べた。扉を固定している蝶番が外に露出している。旧式の両開きの扉だった。
ここで何もせずに諦めて魔獣に生でおいしく食べられてしまうくらいなら、最後まで諦めないほうが絶対にいい。クラドはハンマーを振り上げ、扉を固定している蝶番を思いっきり叩いた。響く金属音。魔獣に聞こえるだろうがクラドは構わずに何度も何度も叩いた。蝶番が歪み、変形していく。手が痺れてきても叩く。
後方から邪悪な気配が迫って来た。早く開けないと追いつかれる。まだ十五年しか生きていないのに僕はここで終わるのか。勇者にもう一度会いたかったのに、世界平和のお手伝いをしたかったのに、いやその前に一度位おっぱいの大きい女性とファーストキスがしたかったのに…………感情が溢れ出てクラドは叫んだ。
「そんなのいやだよおおぉぉぉぐはっ」
突然、鉄の扉は勢いよく開き、硬い装飾がまたクラドの顔面に当たった。あまりの痛さに顔を押さえて後ろに下がり尻もちをつく。
開かれた扉の奥から小柄なクラドよりも頭一個分、背が高い綺麗な女が姿を現した。腰まで伸びた長い髪、切れ長の目に服からはみ出そうな大きい胸。腰にはクラドと同じハンマーと道具袋を下げている。
クラドの先輩、ジュウナ=ルルフだった。
「ジュウナ先輩っ」
クラドは嬉しさのあまりジュウナに抱きつく勢いで立ち上がったが、その前に鍛えぬかれた白い細腕が埃で汚れたクラドの胸ぐらを掴んだ。
「ぐえっ、く苦しいですジュウナ先輩」
「うるせぇんだよクラド! 騒がしい音出しやがって。フロア中に響いてるじゃねぇか。ん? 何だこの煙は」
怒鳴り声が、後輩の鼓膜を激しく揺さぶった。これでは魔獣より先にジュウナ先輩にヤラレてしまう。クラドは慌てながらも今の状況を説明しようとした。
「あの、あのっ、ミスをしてしまって、ま、魔獣に襲われて」
「おい、後ろ」
「へっ?」
ガシッ! と、煙の中から現れた魔獣の腕を、ジュウナは片手で受け止めた。石畳をおもちゃのように簡単に粉砕した豪腕を軽々と。
「か弱い乙女をいきなり襲うなんて、無粋なやつだな」
ジュウナは軽々と魔獣を投げ飛ばす。勢いよく壁に激突し、石が砕ける音がした。そしてクラドから手を離すと、拳を構えて瞬時に突き出した。拳風で周りの煙が一斉に吹き飛び、視界が開けた。か弱い乙女ができる芸当じゃない、武道の達人の動きだった。
よだれを垂らし、ブロックを崩しながら壁から抜け出る魔獣が見えた。毛に覆われた筋肉質の細い身体。クラドの肩を切りつけた切れ味抜群の爪を持つ、鋭利な手足。指から伸びた鋭い爪の先は、赤く濡れていた。クラドが思わず一歩下がる。あれ、僕の血だ。
ジュウナは敵を確認すると平然と呟いた。
「なんだ人狼かよ。フロアに煙だらけでアイツがいるってことは、罠が作動したな。クラド、お前またやらかしたのか」
「すみません。ホンっトすみません」
「謝るのは後だ。下がってろ」
言われるままにクラドはすぐにその場から離れる。
全身の毛を逆立て、怒りをあらわにする人狼。開いた口から唾液で濡れた牙が顔を出す。両腕を地面に着け、低く構える。爪を伸ばしてジュウナめがけて突進してきた。速い!
人狼が突進の勢いそのままにジュウナの喉元めがけて刺突。首を傾けて避ける。左腕の薙ぎ払いもその場を動かず少し屈んで回避。彼女の長い髪が少し揺れただけだ。
次々と繰り出される攻撃を、顔色変えずにサラリと避け続けるジュウナ。その綺麗な顔に焦りや怯えは一切ない。危険な状況なのに、少し笑っていた。
「そらよっと」
重い蹴りが人狼の腹部に命中。後方に飛んでいくが空中で姿勢を立て直し、着地。でも、すぐに動かない。
人狼が苦悶の表情を見せる。その隙にジュウナ先輩は五指を開き、握り締める。かと思えば一気に魔獣との間合いを詰めていた。
「これで終わり」
一瞬だった。
人狼の身体に拳の跡が刻まれた。十二発分、凹んでいる。魔獣は呻き声も上げず、前のめりに倒れた。もう動きそうにない。クラドは、ほっと息を吐いた。なんとか助かった。
ジュウナが持っていた薬草を出してくれた。幸い、防刃服のおかげで傷は浅かった。薬草を傷口に塗っているとクラドの目が潤んだ。
クラドは勇敢で優しい先輩の行為に、感動で涙が出そうになっていた。心からお礼を言おう。そう思って深々と頭を下げた。
「ジュウナ先輩、助けてもらって本当にありがとうございます。これで安心して戻ることができます。迷惑かけてすみませんでした」
ジュウナの細い眉がつり上がった。
「は? 戻る? 何寝言ほざいてんだ。お前にはまだやることが残ってるだろーが」
ジュウナが指を突き出した。そこには倒れている人狼。
「アイツに薬草を塗って、元いた場所に戻してこい」
「えっ、え?」
「あと作動させた罠と壊れた箇所の修理もやれ、特に扉。それが終わったらアイツの代わりになる魔獣を一匹、森から拾って来い。一人でな」
ジュウナの目は本気だ。本気で言っている。
「そ、それはちょっと。修理はともかく、魔獣を捕まえるのは一人じゃできな」
ジュウナが壁を殴り、穴が開く。そして谷底へ突き落とすような眼光がクラドに放たれた。
「ク・ラ・ド・君。先輩の言うことは聞かないのか? もちろん聞くよなあ」
微笑みながら優しく言っていたが、その目は真剣そのものだった。これ以上断ったら、ヤラレル。クラドは首を縦に振った。
「あとここの壁も壊れたから、塞いでおけよ」
そこはジュウナ先輩が殴って開けた穴じゃ……なんてクラドは言えない。言えるわけない。むちゃくちゃな命令だが、やるしかないのだ。
それがクラドの仕事なのだから。