第1章ー4
横須賀海兵隊が朝鮮の首都、漢城に大鳥公使と共に入ったのは6月10日のことだった。
土方少尉は漢城が平穏極まりないことに驚愕した。
「東学党の庶民が武装していて、漢城に入城した自分たちを襲ってくると思っていたのに」
土方少尉は思わず独り言を言った。
その独り言を聞きつけた黒井大尉が、横から口をはさんだ。
黒井大尉は砲兵中隊長であり、土方少尉は海兵中隊に所属する小隊長なので直接の接点はないのだが、横須賀鎮守府内で顔を合わせるうちに妙にウマの合う関係になっていた。
「朝鮮政府は、清国政府に東学党鎮圧に協力してほしい、と要請しただけのつもりだったからな。先に日本軍が来るとは想定していなかったんだろう。政府ですら、そんな状況だ。庶民にとっては意外過ぎて対応できないのだろう」
「そう言われてみればそうですね」
土方少尉は自分で自分を納得させた。
「それにこんな馬や大砲を連れて入城されてはな」
黒井大尉は自分の後に続く砲兵中隊を見やった。
大砲は土方少尉や黒井大尉にしてみれば山砲に過ぎず、威力不足にしか思えないが、日頃から大砲というものを見慣れているとは決して言えない朝鮮の庶民にしてみれば、大砲を6門も揃えて進軍する日本軍というのは大いなる脅威だろう。
馬にしてみても、土方少尉にしてみれば、物心つくころから見慣れている成長した馬の大きさに過ぎなかったが、黒井大尉には別の見解があるようだった。
「俺は米沢の出身だが、正直に言ってこんな馬がいるなんて海兵隊に入るまで知らなかったよ」
「私にとっては、馬というのはこの位大きくなるものです」
「土方少尉は屯田兵村の出身だからな。それに生まれたのも屯田兵村だから当たり前のことか」
黒井大尉は思わず笑った。
「私にとっては、陸軍が使っているような小さな馬は村を出るまで知りませんでした」
「俺にとっては、馬はあれくらいの大きさにしかならないものだ」
黒井大尉の笑いを含んだ声はますます大きくなった。
「全く間違っているぞ。陸軍よりも海兵隊の方が立派な馬を使っているというのは。馬を使うのがうまいのは海兵隊よりも陸軍の筈なのにな。土方少尉の父、土方提督のおかげかな」
「あれは大嘘ですよ。元新選組の面々である永倉新八さんや島田魁さんも否定しているではないですか」
土方少尉は思わず顔をしかめた。
「俺だってそんなことは知っている。でも、兵士の間では土方提督のおかげということになっているみたいだぞ」
黒井大尉は更に言った。
「勘弁してください。父がしまいには神様になってしまいそうです」
「いいではないか。神様の息子になれて」
黒井大尉の笑いはますます大きくなった。
「それくらい余裕があっていいものかな」
「これは林大佐」
黒井大尉は慌てて口をつぐんで敬礼した。
土方少尉も同様に敬礼した。
「余りにも余裕がないのも問題だが、余裕があり過ぎるのも問題だぞ」
いつの間にか傍にいた林大佐は言った。
「ここは外国だ。それに朝鮮の庶民から決して我々日本人は好意を抱かれていない。決して油断はするな。いいな」
「はっ」
2人は思わず声をそろえて返答してしまった。
「わしみたいな実戦経験者から言えば、この状況は平穏すぎる。嫌な予感がする」
林大佐は2人に半分言い聞かせるように独り言を言った。
海兵隊の馬については、次話を幕間ということにして少し説明します。