第4章ー14
「台湾民主国は降伏し、劉永福将軍は大陸に亡命したというのに、台湾の住民の抗戦意欲は旺盛なままですね」
土方中尉は、斎藤少佐に言った。
暦は11月も終わり近くになっていた。
台湾民主国の降伏は、10月22日に日本に事実上受け入れられた(台湾民主国を日本は国として認めていなかったため)。
台南市に日本軍は入城して、ここに台湾の主要な都市は日本軍の完全な制圧下におかれた。
だが、多くの台湾住民が自発的に武装して抗日独立闘争を続けている。
近衛師団と海兵隊は全部隊の日本への帰還が認められたが、第2師団は1個旅団を台湾の武装闘争鎮圧のために残置することになった。
第4師団から派遣された1個旅団は当然のように引き続きの台湾駐留を命ぜられた。
更に日本から台湾鎮圧のために1個旅団が派遣されるらしい。
朝鮮半島とえらい違いだ、と土方中尉は思った。
朝鮮半島は、先日、朝鮮軍があらためて再編制を完結したこともあり、佐世保海兵隊の本国帰還が認められ、今や舞鶴海兵隊しか日本軍は残っていない。
それに対し、台湾は3個旅団が駐留して、武装勢力の鎮圧を続けることになっている。
「日本本国からは、台湾鎮圧はいつになるのか、矢のような催促らしいがな。小松宮大将が言うには、一応、来年の元旦をもって台湾鎮圧の宣言だけするつもりらしい。実際の鎮圧がいつになるのかは、目途が全く立たない状況だがな」
斎藤少佐は言った。
「これだけ豊かな土地ですからね。台湾の住民も死に物狂いで戦いますよ」
土方中尉は言った。
故郷の屯田兵村とはえらい違いだ。
1年中暖かく、年2回も米が採れる。
野菜類も豊富に採れる。
こんな土地で農業を行っていたのなら、父は戦場にまた赴くこともなかったのではないか。
いや、血が騒いで、結局は戦場に赴いていたかもしれない。
土方中尉にとって父はそんな思いをさせる存在だった。
「とりあえず、我々は本国に帰れることになった。それを喜ぼう。土方中尉は妻子に無事に会えることになりそうでよかったな」
斎藤少佐は言った。
「はい」
土方中尉は答えた。
劉永福将軍は、その頃、広東にいた。
台湾に止まるつもりだったが、幕僚たちの説得に負けてしまい、広東行のドイツ船に半強制的に乗せられてしまったのだった。
いつか、台湾にまた行きたいとは思っていたが、清国からも監視がつく有様で、とても無理な状況だった。
台湾のことを思うと、劉将軍の胸は痛切な痛みを覚えた。
あそこには多くの子飼いの部下が眠っている。
そして、自分を指導者として仰ぎ、懸命に闘っていくれた人たちがいる。
「いつか、台湾に行き、台湾の独立を見届けたいものだ」
晩年の劉将軍はそれを口癖にした。
後日談を少し書く。
劉将軍は1917年に病死した。
遺言で、遺骨を台湾の新竹に埋めてほしいと希望したが、時の日本政府は、その遺骨を埋めた墓が台湾独立運動の象徴になることを怖れ、劉将軍の遺言を拒絶した。
WWⅡ後、台湾民主国の独立が日本政府に認められてすぐ、台湾民主国は劉将軍の遺骨を迎え入れて、新竹全体を望める丘の上に改葬して墓を建てた。
21世紀の今も劉将軍の墓はそこにあり、台湾人が手向ける香華は絶えない。
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