第1章ー1 日清開戦
いよいよ日清戦争を前に朝鮮へ海兵隊が動きます。
6月5日の朝、土方少尉は、横須賀港を目に焼き付けておこうと船尾近くに立って、1人で後ろを眺めていた。
大鳥公使が朝鮮に戻ることになり、横須賀海兵隊は、大鳥公使の護衛と朝鮮に滞在している日本の居留民の保護のために日本から派兵される陸海軍の第一陣として、大鳥公使と共に出発することになったのだった。
生きて日本に帰れるだろうか、父は結局、2回目は帰ってこなかった、自分はどうなのだろう。あの父でさえ戦場では死ぬのだ。
それに病に倒れることもありうる。
土方少尉は、ふと不安を覚え、物思いに沈んだ。
「おい、しっかりしろ」
「林大佐」
土方少尉は、いきなり林大佐に後ろから声をかけられ、思わず敬礼した。
「初めての出征で不安か」
「はい」
「不安なら、それでいい。ただし、一つだけ言っておく。部下の前ではそれを出すな。部下まで不安になって、いざという時に戦えなくなる。いいな。海軍兵学校で習わなかったか」
「はっ、言われる通りです」
「それに今からそこまで思いつめるな。まだ、戦争が始まったわけではない。12年前と同様に清国軍と睨み合うだけで帰国することになるかもしれんのだ。今からそんな精神状態だと、本当に戦争になってから身が持たなくなるぞ。いいな」
「はっ、そのとおりです」
「よし、部下の下に行け。指揮官が部下の傍にいなくてどうする」
「はっ」
土方少尉は所属の海兵小隊の部下たちの元へと走った。
ま、無理もない、と林大佐は土方少尉の後姿を見ながら思った。
土方少尉は、あの土方提督の長男だ。
父が戊辰戦争で戦った頃には生まれていなかったが、台湾出兵や西南戦争のことは覚えている。
それに屯田兵村はあの2つの戦争で村から出征した兵士の2割近くが戦死や戦病死で帰ってこなかったし、その後で農業を続けられなくなって離村した元兵士をいれれば屯田兵の4分の1以上が入れ替わったろう。
父や周りの村人のことを覚えていれば、戦争が起こりそうな状況で不安に駆られるのも当然か。
林大佐は軽く首を振って船内の散歩兼巡視に戻った。
林大佐は船内を巡視すると、同船している大鳥公使の元へと戻った。
大鳥公使は、戦争が起こるかもしれないという状況にもかかわらず、船内ではすっかり寛いでいた。
「いよいよ戦争かもしれないのに。よく寛げますね」
林大佐は思わず皮肉を言った。
「自分のために、横須賀海兵隊を全員出してくれるとは思わなかったよ。しかも、指揮官が林大佐と来ている。清国軍1万と正面から戦っても生きて帰れるさ。それにここはある意味、古巣だからな。」
「それは、過分な言葉ですよ。我々の実戦兵力は600名ほどしかいないのですから、1万もの清国軍と戦ったらどうにもなりません」
「だから、陸軍が混成旅団を編制して派兵するのさ」
「混成旅団ですか。いよいよやる気としか思えませんね。川上参謀次長が1個旅団を派遣しますと閣議では報告しておいて、実は1個混成旅団を朝鮮に派遣するなんて知ったら、非戦派の伊藤首相は慌てるのではないですか」
「どうかな、伊藤首相も案外、タヌキだからな。実は知っていて、承知した可能性もあるな」
「公使ともあろうお方が、首相をそのように言っていいのですか」
林大佐が思わず更に皮肉った。
「いいさ、舌禍でクビになったら、悠々と楽隠居だ。そっちの方がありがたい。俺も還暦だぜ。引退すべき年だ」
「全くかないませんな」
林大佐は思わず首を振った。
戦場では海兵隊の切り札とまでいわれる林大佐も、海兵隊の大先輩であり、フランス留学をあっせんしてくれた大鳥公使に掛かっては形無しだった。
「ところで、朝鮮の最新情勢を教えていただけませんか。一応、本多少将や北白川宮殿下から聞いてはいますが、現在の朝鮮公使の認識を私も把握したいと思いますので」
「朝鮮に着くまで、外務省から連絡も来ないから動きようもないな。ちょうどいい。自分も他人に話すことで頭の中を整理したいと思っていたところだ」
大鳥公使は少し姿勢を正して、林大佐と向き合った。