第3章ー9
桂中将は、海兵隊の補給体制にも衝撃を受けていた。
江華島事件に壬午軍乱と2回にわたる朝鮮半島への海兵隊の派遣は、海兵隊の補給体制に甚大な影響を与えていた。
その経験から海兵隊は現地での軍夫雇用を諦め、日本から軍夫を連れていくことを徹底していた。
更に補給物資や大砲を運ぶためのばん馬を日本馬から外国の重ばん馬へ切り替えてもいる。
派兵された現地で補給物資、中でも糧食は手に入れればいい、というのが陸軍の発想だったが、海兵隊は基本的に日本から補給物資は運ぶという発想だった。
もちろん、海兵隊の発想の方が費用は高くなる。
だが、軍夫や物資を現地調達するという陸軍の発想が日清戦争、特に朝鮮半島においてうまく行かなかったという戦訓を無視するわけにはいかなかった。
これには朝鮮半島全体が長年にわたる朝鮮政府の収奪によって疲弊しきっており、更に日本軍に対する反感もあったという側面からくるものもあったが、失敗は失敗である。
朝鮮半島南部ほぼ全体に広がっていた東学党農民軍の反乱を拙速に徹したという側面があるにせよ、補給を順調に運んで1月足らずで現地からの物資調達無しで制圧した海兵隊の補給・輸送能力は端倪すべからざるものがあった。
「特に馬は何とかせねばならん。屯田兵村という巨大な背骨があったから可能になったのは林大佐と面談したことで分かったが、あそこまで差があるとは思わなかった」
桂中将は馬について更に考えを進めた。
1月13日に海兵隊が海城に到着した際に、桂中将は林大佐に海兵隊の配置等について指示を与えるとともに、海兵隊の兵力、装備等について直接、確認した。
第3師団司令部の将校ほぼ全員がその際に同席していたが、自分と同様に海兵隊の馬については羨望の眼差しを向けるとともに、翻って自分たちの使っている陸軍の日本馬の小ささ、扱いにくさに内心でため息を吐く者ばかりだった。
林大佐が桂中将との面談を終えて辞去した後、その場に残った第3師団司令部の面々は海兵隊に負けないばん馬の導入を陸軍省や参謀本部に直訴しようと衆議一決する有様だったのだ。
ばん馬の交配からばん馬の育成法等々、どう見ても陸軍の方が海兵隊よりも劣っている。
その場にいた砲兵将校の1人は嘆いて言った。
「我が陸軍が悪戦苦闘しながら8頭立てで野砲を運搬していたら、同じ野砲を海兵隊は楽々と6頭立てで運搬して見せるだろう。何しろ軍用のばん馬の去勢すら陸軍では周知徹底されていない」
牡馬を軍用のばん馬として使用するなら、去勢してせん馬にするのは欧米では常識である。
だが、日本では牡馬を去勢すると馬の力が落ちる等々の誤解がはびこり、屯田兵村から馬の知識が広まった北海道以外では未だに牡馬の去勢には馬産農家の強い反発があるのが現状だった。
そのため陸軍では軍用のばん馬にもやむを得ず去勢していない牡馬がかなりいる。
一方の海兵隊は、ばん馬に使っているのはせん馬と牝馬ばかりだった。
このため複数頭立てしてばんえいしても海兵隊の方が支障が少ないのだ。
「陸軍の方が、幾らばん馬とはいえ、海兵隊より馬の運用法に劣るようでは話にならん。山県大将に直接面談して、このことは訴えねばならん」
桂中将は海兵隊と比較して劣っている点を頭で整理し、陸軍の改革を行おうと内心で固く決意した。
史実では義和団の乱で衝撃を受けるまで、日本の軍馬の改良は遅々として進まなかったようですが、この世界では海兵隊の影響により早まることになります。
また脚気対策等も進みます(脚気対策は幕間でも取り上げる予定)。
日清戦争には当然間に合いませんが、陸軍の超大物、桂中将らが動くことによって日清戦争後に徐々に影響が出る予定です。