第3章ー5
「清国軍が来たか」
1月17日朝、林大佐はつぶやいた。
林大佐が目に当てている双眼鏡からは、清国軍の接近が見えている。
1月13日に到着して早々に桂中将から林大佐が聞かされたのは、清国軍の反撃が近々ある模様という情報だった。
直ちに陸軍の陣地を再構築して使い慣れた海兵隊式の陣地にすることにしたが、どこまで清国軍の反撃に間に合うのか、林大佐は心配していた。
林大佐が直卒する横須賀海兵隊は手塩にかけて教育してきたことや朝鮮半島での東学党農民軍との戦闘経験のことから陣地構築の重要性を骨身にしみて理解しており、何とかこの極寒の中でも陣地の再構築を間に合わせていたが、舞鶴海兵隊は間に合わなかったらしい。
陸軍の陣地は既にあるのだから、そこまではしなくても大丈夫と思ったのだろう。
だが、いよいよという時に慣れた陣地を使えるかそうでないかというのは、やはり戦場では重要である。
一戸だったら、きちんと準備を整えたろうに、中村は日清戦争では初陣のせいか、油断していると林大佐は内心でため息を吐いた。
「清国軍はざっと2万はいるな。大砲もきちんと装備している。これは苦戦させられるかな」
林大佐は舌打ちするような思いに駆られつつも呟いた。
「畜生、向こうの方が射程が長い」
黒井大尉は舌打ちするような思いに駆られた。
清国軍の砲声が轟きだしているのに、こちらは砲弾が届かないので撃ち返せない。
海兵隊の砲は山砲である。
従って、どうしても野砲と比較すると射程に劣る。
清国軍の野砲が撃って来るのに撃ち返せないというのは砲兵として歯ぎしりするものがあった。
部下の様子を黒井大尉が見ると、部下も同様の思いに駆られているのか、下唇を噛みしめている者までいる。
皆、同じ思いか、と黒井大尉は思った。
「清国軍の歩兵が接近してきたら、それを狙って思い切り撃て、いいな」
黒井大尉は部下にそう声をかけて、自分の気を紛らわせた。
「何とか陣地構築が間に合ってよかったですな」
土方中尉に対して分隊長の1人が言った。
簡易とはいえ掩蓋付きの塹壕なので、砲弾はまず防げている。
だが、撃たれ放しというのはつらいものがあった。
「清国兵が早く接近してきてほしいものだ。砲声が轟いていてはくつろげん」
土方中尉は答えた。
「確かにそうですな。でも、敵が大砲を撃っている間は、敵兵も近づいてきません」
「そういう見方もできるか」
「砲撃が収まりつつあるようです。そろそろ接近してくるでしょう」
確かに気が付けば砲声は徐々に収まりつつあった。
土方中尉は手袋越しの銃の重みをあらためて感じつつ、銃口を敵兵の方角に向けた。
清国兵が叫び声を挙げながら、突撃を開始した。
砲撃で日本兵の多くが倒れたと信じているのだろう。
土方中尉からすれば、もう少し慎重に動くべきだろうにと思うが、情けをかける理由は無い。
「撃て」
土方中尉は射撃を命じた。
後方からは山砲の砲声も響きだした。
寒さのせいで手がかじかみ、射撃が雑になっているようだが、砲撃との相乗効果で何とか清国兵の突撃を阻止する。
倒れていく味方の姿を見て士気が持たなくなった清国兵は退却を開始した。
「追撃を掛けたいが我慢するか」
極寒の雪の中で追撃を掛ける元気はない。
土方中尉は塹壕にこもって、清国軍の再攻撃を待ち受けることにした。




