第2章ー19
「あれは立派な人物だ。殺すのは本当に惜しい。それに王室に対する揺さぶりにもなる」
東学党農民軍反乱の鎮圧成功を現地で祝うために開催されたささやかな祝勝会の席で林大佐が言っているのが、土方少尉にも聞こえてきた。
自分の考えにふける余り、やや声が大きくなっているのに気づいていないらしい。
先程、全琫準に通訳を介して会ってから林大佐は全琫準の人物に魅力を感じていた。
それと共に現実的な思惑もつい考えてしまっていた。
林大佐は生粋の軍人と言えば軍人だが、元々は大名であり、10代にして将来は老中を任せてみたいと周囲に言われたことがあるくらいの人物である。
従って、それなりには政治向きの事も判断できる。
全琫準を筆頭に東学党農民軍の主な幹部ほぼ全員を捕虜にして、東学党農民軍の反乱は完全に鎮圧された。
忠清道、全羅道、慶尚道は朝鮮政府の統治下に完全に戻った。
来年1年は租税を事実上免ずるくらいの措置を復興対策のために取らねばならないだろうが、全羅道を中心にして置かれていた東学党自治による二重体制は1か月余りで崩壊したのだ。
金弘集政権の基盤は相変わらず弱いが、まずは政権の威令が確実に届く地域を増やすのが肝要だ。
そして、金弘集政権はそろそろ井上公使の毒饅頭を食らった後だろう。
咽喉から手が出るほど金が欲しい所に金を貸してあげますよ、返済方法については後で相談に応じますから、とりあえず無担保で融資しましょう、とささやかれたら、大抵の人物は飛びついてしまう。
実際、金弘集政権はすぐに飛びついてしまったらしい。
井上公使の腹黒さは酷いが、自分もその陰謀に少し加担したのだから、人のことは全く言えないな、と林大佐は自嘲した。
とにかく、朝鮮王室の政治介入を完全に断たないといけない。
これ以上、あいつらに振り回されてたまるものか。
危うく腹背に敵を受けるところだった。
しかも、王室がそれを使嗾していたのは間違いないのに、平然と反徒共のでっち上げだと抜けぬけと言ってのける始末だ。
大院君については、全琫準がかつて食客であったことを突き止めたので、それをもとに追及したところ、面識があることは何とか認めた。
だが、それ以上の関係は否定したままだ。
東学党農民軍を掃討する中で、何とか直筆かつ捺印の入った大院君の手紙が手に入ったが、これさえも偽造だと言い張るのが目に見えている。
だが、生き証人がいるとなると話は別だ。
その生き証人が王室に忠誠を誓い、しゃべるつもりが全くなくとも、王室が疑心暗鬼になるのは間違いない。
そして、生き証人が日本にいるとなると、王室はどう対応するだろうか。
林大佐はそこまで考えを進め、まずは井上公使に全琫準を会わせてみようと決めた。
漢城に海兵隊が全軍到着したのは、年の瀬も押し詰まる頃になっていた。
全琫準等、最後の戦いで捕虜になった者の治療をしたりしたために移動に時間がかかったのだ。
東学党農民軍の幹部については、最終的には朝鮮の官憲の取り調べに委ねるつもりだったが、王室の腹黒さに林大佐以下海兵隊幹部全員が腹を立てており、下手に朝鮮側に渡すと密殺されて、死人に口なしで朝鮮王室は白を切り続けるに決まっているとして、井上公使に報告してからという名目で海兵隊で身柄の確保を続けていた。
「あれは立派な男だな」
林大佐が思った通り、井上公使は全琫準との1回の会談で全琫準の人柄に魅了されてしまった。
林大佐に対して、井上公使は全琫準を褒め称えた。
それを聞いて、林大佐は井上公使に自分の考えを打ち明けた。
井上公使も朝鮮王室には腹を立てている。
「どう思われますか」
林大佐は井上公使の考えを聞いた。
「中々良いのではないか。金弘集には私から話す」
井上公使は林大佐に同意した。
井上公使が金弘集政権に食わせた毒饅頭の詳細については、第2章と第3章の幕間で説明します。




