第2章ー18
徐々に徐々に東学党農民軍は全羅道の西南端に追い詰められていった。
所々で止まって交戦を図るものも多少はあった。
だが、武器・練度共に劣る以上、幾ら士気が高くとも、それで勝てるというものではない。
ある時は、海兵隊の砲撃の前に四散し、また、ある時は、海兵隊の銃撃と突撃の前に敗走し、ということを繰り返すばかりだった。
一時は総数10万以上を呼号し、公州攻めに4万を動員した東学党農民軍は11月25日の公州での大敗以降、数を減じるばかりになっていた。
集まるのも急激だったが、減るのもまた急激だった。
海兵隊が残虐な行為を行っていれば、それに対する報復を叫ぶことで、東学党農民軍はまだまだ抗戦できたかもしれない。
もちろん、その代りに東学党農民軍の死傷者は遥かに増大していたろう。
しかし、海兵隊は残虐な行為を行わなかった。
そのために戦況の悪化から日和見に転じて、逃げ出す者が相次ぎ、結果的に東学党農民軍の連鎖的な崩壊が起こっていたのだ。
「最早、ここまでか。よく私に付き従ってくれた」
12月9日、全羅道西南端に近い海南において、全琫準は周囲に感謝の言葉を述べた。
公州から撤退した後、全州へ長城を経て羅州へ、更に海南へと退却行がずっと続いた。
今や自分に付き従っている東学党農民軍は1000人にも満たない。
そして、それが今や自分が知る限り、組織として残っている東学党農民軍の全てだった。
それ以外は全て敗走の末に解散したり、また、戦況の悪化から後日を期すという名目で自主解散したりしてしまっている。
今日は何日だったろう。全琫準はふと考えた。
公州で撤退を決断してからまだ10日余りしか経っていない。
それなのに約4万を率いていた自分が今や1000人以下しか率いていない。
集まるのも急激だったが、減るのも急激だったな。
そして、それを取り囲むように海兵隊2000名余りが展開し、朝鮮中央軍2800名が先鋒を任されている。
勝算は考えたくもなかった。
死人に口なしか、おそらく自分は殺されるだろう。
こんな王室に忠誠を誓う必要があるのだろうか。
全琫準は頭に浮かんだ疑問をかぶりを振って打ち消した。
「撃て」
黒井大尉の砲兵中隊に対する号令が響いた。
ここに残っているのは最後まで抗戦を決断した面々ばかりだ。
東学党農民軍に対する降伏勧告は無駄だろうとして、林大佐は攻撃を命じた。
攻撃の開始を告げる号砲として、ここまで連れてきた山砲12門の一斉射撃が使われた。
一戸中佐率いる佐世保海兵隊は後方警備に当たっているので、ここには横須賀海兵隊と呉海兵隊しかいない。
だが、必要以上に集めすぎの感が否めない。
何しろ敵は1000人もいないのだから。
土方少尉は何時間いや何分で戦闘が終わるだろうと思った。
砲撃開始から1時間も経たないうちに戦闘は終わった。
東学党農民軍の参加者のある者は戦死し、ある者は負傷して捕虜となった。
誰一人として戦場から逃げ出した者はいなかった。
全琫準は負傷して意識不明のところを捕虜になった。
ここに東学党農民軍の反乱は完全に終結した。




