第1章ー8
大鳥公使は自分のできる範囲で何とか日清の開戦を避けようとした。
6月11,12日と2日にわたって、清国から朝鮮に派遣されている袁世凱と会談した。
その上で、日清双方が朝鮮から一旦、撤兵するという提案をとりまとめ、お互いに本国に電文を打つことにした。
袁世凱はそのとおりに電文を打ったが、大鳥の指示を受けた杉村一等書記官(大鳥不在時には代理公使を務めていた)は電文を打たなかった。
そのことを大鳥が知ったのは、16日になってからだった。
陸奥外相からの連絡がないことを心配した大鳥が杉村に確認し、杉村が電文を打っていないことを知ったのだった。
大鳥は杉村を詰問したが、杉村は平然としてうそぶいた。
「陸奥外相は戦争を望んでおられるのでしょう。それにこうしておけば、清国が勝手に迷ってくれます。国を憂えた行動をしてどこが悪いのです」
大鳥は憤慨したが、杉村を解任する権限は自分にはない。
杉村に上司の指示には従えと叱責することしかできなかった。
その一方で、同日に日本から届いた電文の内容は深刻さを増していた。
日本は閣議で、日本軍は撤退させない、そのうえで日清共同で朝鮮の内政改革を行う、清国が拒否するならば日本単独で朝鮮の内政改革を行う、以上のことを清国に提案することを決定したというのである。
杉村を叱責した後、この電文を一読した大鳥は万策尽きたという表情をし、林大佐の居室に赴いた。
林大佐は大鳥の配慮で公使館内に手狭とはいえ一室を与えられていた。
「もうどうにもならない。日清は戦争になるだろう」
大鳥は林の前に腰を下ろしてこう切り出し、自分の最新情勢の分析と杉村が自分の指示には従わないこと、日本からの電文の内容について語った。
林は黙って大鳥の話を聞いた。
大鳥が全て話し終わると、林はおもむろに口を開いた。
「どう考えても外交機密にわたる内容を私に話してもいいのですか」
「いいさ。現地の外交官として、戦地に赴く軍人に話せる範囲だと俺は考える」
大鳥はぽつんと言った。
「公使館内では俺は外様だからな。元々清国公使だったのに朝鮮公使も兼務することになって、去年赴任したばかりだ。公使館の実務は杉村が掌握している。杉村は朝鮮通なのは間違いないが、日本が主導しないと朝鮮はよくならないし、日本の国益にもならないと考えている。朝鮮自らが良くなろうとしないとどうにもならないというのに。日本が主導しようとしたら、朝鮮の国粋派、攘夷派を勢いづけて、朝鮮の改革を却って阻むのが杉村には分かっていない。」
「明治維新を日本人がやらないで、米国や英国が主導してやろうとするようなものですからね」
林は大鳥に言った。
「そして、とうとうこの電文だ。朝鮮政府は反発するだろうし、清国はこんな条件を絶対に飲めない。属国の朝鮮の内政改革を日本と共同して行え、日本軍は朝鮮に駐屯させろ、清国が拒否するなら日本単独で朝鮮の内政改革を行う。清国に宣戦を布告したようなものだ」
「最早、清国が引き返せないように仕向けたということですか」
林は言った。
「そうだ。後はいつお互いに宣戦を布告するか、という段階だ。覚悟を決めてくれ」
「分かりました。ことここに至っては仕方ありません。明日にでも増援部隊がここに到着するでしょう。公使館や在留日本人は護って見せます」
林は大鳥に誓った。
実は杉村書記官の態度は史実に準じたものだったりします。
そして、杉村書記官が日清戦争後に何をしたか、そしてどうなったかを知ると、私としては何となく石原莞爾を連想してしまいます。




