第5章ー14
8月が近づくにつれ、さすがに北京の籠城軍にも物資の欠乏が目立つようになってきていた。
柴中佐は今日の食事の内容に部下に気づかれないように細心の注意を払いつつ、内心でため息を吐いた。
8月中を耐え抜けるかも危うい。
できる限り、公平感を持たせることで、兵や一緒に籠城している民間人が不平をこぼさないようにはしているが、それでも食事の内容を質量共に落とさざるを得なくなっている。
戦闘は小康状態を保っており、少しなら攻囲側と闇取引で物資を入手できているが、とても量が足りない。
6月中は猛攻を攻囲側は仕掛けてきていたが、段々、攻囲戦に倦んできたのか、こちらの反撃による損害の続出に気勢をそがれたのか、攻撃が緩みがちになり、半分停戦状態と言ってよい状態になりつつあった。
そうはいっても、籠城軍が攻囲されているという現状に変わりはなく、闇取引によって入手できる物資では籠城側の生命を維持していくことは不可能である以上、救援軍が駆け付けて攻囲を解いてくれないとどうにもならない。
8月いっぱい、いや、8月20日頃が籠城側の限界かな、と柴中佐は思案した。
自らの会津鶴ヶ城の籠城経験等から、共に籠城している民間人に負傷者の救護や弾薬の自作等の作業を行ってもらうことで、籠城側に一体感を持たせることに成功してはいるが、それにも限界がある。
天津には到着しているはずの救援軍に籠城側の現状を知らせようと、共に籠城している中国人キリスト教徒から決死の伝令役を募って、闇にまぎれて何人かを北京城外から天津へと送り出してみようと試みてはいるが、天津にたどり着くのに成功したのか、失敗したのかも現状ではわからない。
本多海兵本部長、一刻も早く、救援軍を北京に送り届けてください。
会津鶴ヶ城のような悲劇を起こさないでください。
柴中佐はかつてのことを思い出してしまい、一刻も早く救援軍が来ることを祈念した。
この時、柴中佐が送り出した伝令の数は、柴中佐自身が戦後に海兵本部に提出した報告書によると5名であり、その姓名も報告書に明記されているが、誰1人、天津にたどり着かなかった。
だが、柴中佐の弁明によると自己申告をそのまま記載したために本名か否かは不明とのことであり、また、籠城中の中国人キリスト教徒から自発的に脱出して伝令役として天津に向かった者も複数いる。
ともかく8月1日に天津に集結していた九ヶ国連合軍に北京に籠城している外交団がほぼ全員生きていること、しかし、物資が欠乏しつつあり、8月中には全滅するという状況を命辛々伝えた中国人の伝令、張徳令は、北京に報告を届けるために引き返すと言って8月3日に天津を出発した後、消息不明になったが、柴中佐の報告書にはその名は出て来ず、歴史の闇に沈んだ存在である。
だが、彼の状況報告は九ヶ国連合軍の終わらない会議に終止符を打たせる結果となった。
、
「もういい、我が日本海兵隊は先鋒として明朝、出撃させていただく」
林提督は、8月3日の会議の席で遂に席を蹴って立ち上がった。
林提督の後を、英米仏等、露以外の軍人が挙って追っていく。
それを露の将軍は肩をすくめて見送った。
張の報告は会議の状況を揺り動かした。
まだ、北京の外交団はほぼ全員生きている以上、一刻も早く、救援軍を出撃させるべきという正論は最もだった。
そして、最も損害を出すためにどの国が担当するかでよく揉める先鋒には日本海兵隊が志願しており、何の問題も無かった。
露としては、あわよくば満蒙から華北まで自国領とするためにまだ兵力を集めたかったが、他国が全て日本の味方となっては如何ともし難い。
8月4日早朝、9ヶ国連合軍による北京救援作戦が発動された。
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