第5章ー7
同日、6月9日の昼、本多海兵本部長は、山県首相に面会していた。
「ほんのわずかの時間とはいえお会いくださり、ありがとうございます」
本多は頭を下げた。
「挨拶はいい、北京情勢が気になるのだろう」
山県は答えた。
「はい。何となくですが、嫌な予感がぬぐえないのです。本当に海兵師団を編成し、北京に派遣しないといけないような事態が生じるような気がしてなりません」
「しかしな、清国政府の実権を握っている西太后が義和団に加担するかな。幾ら何でも無謀すぎる。それに義和団に加担するつもりなら、山東省での義和団の取り締まりを行わないだろう」
山県は言った。
「日本が師団規模の部隊を北京に派遣するような事態が起こるということは清国政府が日本や列強に対して宣戦布告するということだぞ。それは分かっているのか」
「それは分かっています」
本多は答えた。
「西太后は平和主義だ。そのお蔭で日清戦争は講和できたのだ。もし、あの時に西太后が亡くなっていて光緒帝が実権を握っていたら、清国政府は西安まで逃げて徹底抗戦したかもしれん。そうなったら、日本はおしまいだった。それなのに西太后は、平和の方がいいと言って、賠償金の支払いや台湾の割譲に応じたのだ。その西太后が義和団に味方して日本や列強に宣戦布告するか?」
山県は疑問を呈した。
「ですが、戊戌政変の後で、西太后は光緒帝を廃位しようとし、光緒帝の側近を処刑しようとしましたが、列強が干渉して彼女の思い通りにはできませんでした。西太后がそれを恨んでいるということは無いでしょうか。西太后は良くも悪くも典型的な女性で感情の激発するままに動くところがあります。義和団の熱気に当てられて、その恨みを思い出し、列強や日本に宣戦布告という暴挙をすることもあり得ると思うのですが」
「それは否定できんな」
山県はしばらく考えを巡らせた。
「日本が本格的に派兵する事態が起きた場合には、もう一つ問題がある。列強と足並みをそろえる必要があるということだ」
山県は暫く考えを巡らせた後で言った。
「といいますと」
本多は尋ねた。
「日本が単独で派兵することはできない。列強の顔色をうかがったうえで派兵を行わないと列強から嫉視されるのは間違いない。特に今回の場合は、北京にいる列強の外交団をいかに保護するかというのが最大の問題点になっている。日本だけ先走るというのは後々の配慮を考えるとよろしくない」
山県は言った。
「それは確かにそうですが」
本多も渋々同意した。
「ともかく最悪の事態である清国の宣戦布告に備える必要があるのは認めるが、今のところは清国政府は動いていないのだ。秘密裏に計画を立てて、平時の予算内で派遣準備を海兵隊が整えるのは首相として黙認してやる。山本海相にも口添えしてやる。大方、海軍本体には、また黙って暴走しているのだろう」
山県は言った。
「分かりますか」
本多は苦笑した。
「お前のことだ。そうだろうと思った」
山県は苦笑した。
本当にこいつは困った奴だが、どうも憎めん奴だ。
「では、最悪の事態の準備に掛かれ」
「分かりました」
本多は山県首相の前を辞去した。
それを見送りながら、山県はあらためて思った。
しかし、本当に清国政府はそこまで暴走するだろうか。
だが、清国政府は本当に暴走してしまった。
6月21日に清国政府は日本を含む諸外国に宣戦を布告したのだ。
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