第1章ー5
幕間の話になります。なぜ、海兵隊が優秀なばん馬を持っているかの説明回です。
林大佐は黒井大尉と土方少尉を見やりながら、海兵隊の馬についてあらためて考えていた。
「本当に榎本提督とシャノワーヌ将軍をはじめとするフランス軍事顧問団のおかげだな。最も思いもよらぬ結果になったものだが、海兵隊にとっては天の賜物だったな」
そもそもの発端は、榎本武揚が蝦夷地開拓を薩長から命じられたことから始まる。
榎本は幕府艦隊の降伏と引き換えに蝦夷地開拓に際して旧幕府の家臣を優先的に行わせるという約束を薩長と取り交わすことに成功しており、蝦夷地開拓についていろいろと準備を行うことになった。
その際に、榎本が考えたのが蝦夷地を開拓するのには、優秀なばん馬が必要だということだった。
榎本は欧州に長く滞在していた時に馬車やソリを引く馬が日本とは比べ物にならないほど優秀なことを見せつけられていた。
欧州で馬車やソリを引く際に使われるような優秀なばん馬が蝦夷地開拓に使われれば、蝦夷地開拓は順調に進展するのではないか、榎本はそう考えた。
榎本はその考えをフランス軍事顧問団に話した。
フランスは幕府にアラブ馬30頭を贈っており、それを知った榎本はフランス軍事顧問団に優秀なばん馬が手に入らないかを相談したのだった。
(榎本の回想等、日本側の資料による。もっとも、林大佐がブリュネ将軍やシャノワーヌ将軍からフランスで聞いた話では微妙に異なり、榎本提督が蝦夷地開拓を行うことを聞いたフランス軍事顧問団からそのためには優秀なばん馬が必要ではないか、と話を持ちかけたことになっている。)
ともかくフランス軍事顧問団は榎本にフランスの優秀な重ばん馬であるペルシュロン種を紹介し、榎本はその紹介を受けて、全部で三十頭余りのペルシュロン種を屯田兵村の開拓に際し、種牡馬としてフランスから順次、購入してばん馬の改良を行うことにしたのだった。
更にこれには札幌農学校も全面的に協力し、欧米から招かれた優秀な牧畜の専門家もばん馬の利用や交配について助言を行った。
こうしたことから、優秀な重ばん馬が導入されることになり、屯田兵村の開拓は順調に進むことになった。
だが、この時点ではあくまでも主な目的は蝦夷地の開拓用で軍事用ではなかった。
これが、海兵隊のばん馬として活用されるようになったのは西南戦争がきっかけだった。
海兵隊の輜重輸卒が使用している日本産のばん馬を見た屯田兵たちは口々に言った。
自分たちの村の馬を使った方が遥かにいい。
それを聞いた大鳥大佐(当時)は、フランスに留学経験のある林大尉(当時)に屯田兵村の馬の調査を西南戦争後に命じた。
林大尉は、土方歳三提督の墓参と共に屯田兵村の馬の調査をしたのだが、嬉しさのあまり涙をこぼした。
フランスで砲兵や輜重兵が使用しているペルシュロン種にそう引けを取らない重ばん馬が屯田兵村には揃っていたのだ。
林大尉は、大鳥大佐に屯田兵村のばん馬を海兵隊でも導入することを進言し、大鳥大佐は当時の荒井海兵局長に林大尉の調査結果を報告した。
こうしたことから海兵隊は屯田兵村を介しての重ばん馬の導入を決断した。
この決断は甚大な影響を与えた。
海兵隊は陸軍が使用しているばん馬よりも遥かに優秀なばん馬を新たに投資することなく揃えることに成功したのだ。
屯田兵村の側にしても、喜びこそすれ断る理由は全くなかった。
優秀なばん馬を高値で買ってくれる得意先が向こうから転がり込んだのだ。
ちなみに土方提督はこういったことに全く関わってはいない。
島田魁や永倉新八の回想録でも、土方提督はばん馬には全く無関心だったとされている。
だが、屯田兵村がばん馬に関わっている以上、兵士の間では海兵隊の重ばん馬の導入は屯田兵村に関わりのある土方提督によるものという伝説が流布しているのだった。
「本当に人生万事塞翁が馬というが、海兵隊の馬はそのとおりだな。大尉時代に屯田兵村にばん馬の調査に足を踏み入れるまでこんなことになるとは思いもよらなかった」
林大佐は独り言を言った。
 




