彼女の為なら
藍色の長い髪がほっそりとした肢体をおおう。
「早く、戻ってきてね」
最近、彼女はよくこの言葉を使うようになったなとアルトレルは目を細めた。
早く戻ってきてほしいと思われるほどには彼女は俺のことを大事にしてくれているのだろうか、必要と思っていてくれるのだろうか、そんなことを考え、すぐに馬鹿なことは考えるなと首を振った。
「すぐに……戻る」
そしていつもの言葉を言うと彼女は目元を少し緩める。だから気に入ってくれてはいるのだろう。まだ、大丈夫。
魔法で作られた明かりに照らされた廊下を黙々と歩いていくと、深い緑色の豪華な服を着た女性が視界の隅に映った。
彼女は公爵の正式な妻で、名前をエヴィータ・ブラッドベリーという。
公爵は正妻の他にも三人の女性を囲っていて、それぞれ別の錬にいると聞き、フェルニアの母は亡くなった前公爵夫人らしい。が、本人には黙っとくように言われたので喋らない。
彼女に聞かれたら言うつもりだが、聞かれない限りは言わない。
普通なら自分も彼女に礼を尽くさなければいけないのだが、公爵に別に気にしなくていいと言われてからはしていない。
「……ッ」
そこまで考えるとともに視界がぐらりと揺れて、咄嗟に廊下の壁に手をついて転倒するのを免れた。
この後は入浴した後に彼女の所に行くつもりだったが……やむなく進路を変更する。屋敷で一番大きな階段を上って、飴色に磨かれた重厚な扉を軽く叩く。
暫くして中から返事があり、目に力を入れて目眩を堪えるとドアをゆっくりと開ける。
「アルトレル、です」
ここ暫く公爵に言われ続けた丁寧な言葉遣いを拙くなりながらも口にする。アルトレルの口調がかろうじて少しだけ丁寧になるのは公爵とフェルニアを相手にする時だけだ。おまえがあなたになり、偶にだが語尾にですがつく。
「やぁ、アル、元気だった?」
「……昨日も会った」
しかしその呑気な言葉を耳にした瞬間、丁寧な言葉がはがれて公爵を鋭く睨みつけた。
「わかって、いるだろう。血が足りない」
「知っているよ。それでね、アル、君の部屋はもっと大きい所にして家具も豪華にしたからそっちに移っておいて、扉の外にいるメイドが案内するから付いていけば……」
飄々とした態度の公爵、
「そうじゃなくて……‼」
苛立ちに任せて大きく一歩踏み出すが、目の前が一瞬暗くなって目を瞑る。
「駄目だよ」
次に目を開いた時には穏やかな公爵の顔、
聞き間違えたかと思った。駄目……?
「ふざけているのか、俺は三日に一回は血を呑まないと動けない。最悪、屋敷内の人間が死ぬと言ったのは……あなただ」
ギラギラと燃えるような瞳で射抜けば、公爵はやんわりと苦笑した。
「だからだよ。君には我慢を覚えてもらいたいんだ。もしも君の血が足りなくなった時にあの子が近くに居たら? 我慢するのは難しいよね。ここにいる限りはよほどのことがない限り、君に与えられる血が不足することはないけれど、もしかしたらこの先、君が飢えてて、なおかつその場にはあの子しかいなくて、君があの子を襲っても誰も救えないとする。そうなったら困るんだよ。……ちょっとでも君があの子に危害を加える可能性があるんだったら僕も少し考えなくてはいけない……わかって、くれるよね?」
血を吸ったら引き離す。そう言葉よりも明確に語る眼にアルトレルは苛立ったが、もっともな心配かと肩の力を抜いた。吸血鬼は飢えると見境がなくなる。
この先、自分が彼女を襲わないと誰が胸を張って言えようか、だがこれは無理だ。なぜなら……。
「俺は今日で三日目だ」
「知ってる」
満面の笑みで返されて、アルトレルは手を握りしめた。
もともとこの公爵は自分が我慢できるとは思っていない。
「……分かった。それから部屋は元のままでいい。代わりに外に出してほしい。ティアと一緒に」
無理でも何でもやらなければと決意を固め、この間、彼女が窓から庭を見ていたことを思い出して告げる。自分の部屋など別にどうでもいい。
「いいよ」
「……」
ずっと今まで出していなかったのに、そう簡単に頷く公爵はどういうつもりなのだろう。訝しげに見ると、うっすらと笑われる。
「何も考えてないよ。あの子が出たいのなら出てもいい。そのかわり怪我なんかさせたら君、責任とれるの?」
できないだろう。と声に出さずに続ける公爵。ようするに出させる気はないらしい。
「絶対に、させない」
それをわかっていてなお、頷く。それに公爵は少し目を見開いた。こんな答えを返されるとは思っていなかったらしく、端正な顔が複雑そうに歪められる。
例え、本当に出させる気が無かったとしても一度口にしたのだ。公爵は約束を破ることを好まない。
「……わかった」
後で何かされるかもしれないと思ったが、今は彼女が外に出られると聞いておそらく喜んでくれる。これを考えること以上に大切なことなんてなかった。
本当に……それ以外のことなんてどうでもいい。
彼女の為ならこの顔だってためらいもなく焼くことが出来るし、
彼女が望むのだったら腕でも足でも幾らでもあげる。
彼女が願うのだったらこの命でさえ、喜んで差し出すことができるだろう。
「おやすみ……アル」
別れを告げる公爵の声が、どこか遠い。