金色の鍵
そう決めたのは六日前――フェルニアは視線を感じて目を伏せる。
あれから少年はずっと何もせずに自分のことをじっと見てくるのだ。
恐怖は微塵も感じなくなった。いつもの人みたいに怒ったり泣いたりしないし、別に困らないのだが、あの綺麗な目で見られていると思うと少し落ち着かない。流石に父も夜は一緒にいさせる気はないらしく、少年は朝から檻と共に運ばれてきて、夜は鍵と共に帰る。
父からは自分が開けたいときに開けていいよと言われたが、開けるつもりなど全くなかった。だって彼はきっと自分を嫌いだから……当たり前だ。自分を買った人間の娘など姿も見たくないに決まっている。
溜息を呑みこむと気を取り直して分厚い魔法書を開く。本などのものは頼めば父が高価なものから市井にあふれているものまで何でも持ってきてくれるのだ。
この時間が一番好きだ。何の音も聞こえなくて静か――誰の視線も気にならない。
お昼頃になると食事が運ばれてきて、フェル二アは読書をやめ、床に座るとテーブルの上に手を伸ばす。
「あの……お嬢様」
果物と生クリームを口に入れたところでメイドに声をかけられ、優しく微笑む。
「なあに?」
意識してふわふわとした喋り方をするとメイドはひぃっと飛び上がった。こちらとしては緊張を解くつもりだったので驚くと床に額を擦りつけて謝られる。
「も、もうし、わけ、ありません。あの……その檻の中にいる、少年には、食事を与えなくていいのでしょうか?」
「食べていないの?」
それに不思議に思って少年の方を見る。基本的にフェル二アは少年の事を見てはいなかった。視線は感じるがそれだけだ。綺麗とは思うがそれだけだ。
果たして――少年の前には何も置いてなかった。
フェル二アは眉を顰めるとフォークとナイフをテーブルに置いて、侍女に下がるように命じる。あたふたと出ていくところから自分は嫌われているのだとひしひしと感じ、ゆっくりと少年の方に近づいた。
金色の檻――というよりは鳥籠と言った方がしっくりくるそれに入った少年、黒い髪と赤い目は吸血鬼の印、三百年以上生きるというのは本当だろうか? 人を意のままに操ることはできるのか? 聞いてみたいことはいっぱいあったが、自分を嫌っている人間に話しかける気はなかった。
一歩一歩慎重に近づき、少年と目を合わせる。
そこでフェルニアは少年の視線が一度も自分から外れていないことに気が付いた。
「あなたは私のことが嫌い?」
気付けばそんな疑問が口をついていて、フェル二アは一拍後に自分を嗤った。
当たり前だと。
「嫌いじゃない」
だから俯いたところに聞こえたそれに耳を疑う。
少年の声を聴いたのはこれが初めてだが、とても澄んだ美しい声だった。
「嫌いじゃない?」
確かめるようにもう一度聞くとコクリと頷かれたが、あまり感動がわかない。今まででも結構いたのだ。自分のことを大好きと言って名前を聞き出そうとした人が……ただ、自分から聞いたことが、嫌いじゃないと言われたのが初めてだっただけで、
フェル二アはそれっきり黙ってしまった少年を見下ろした。
「私に名前を聞かなくてもいいの?」
父様に言われたのでしょう、と続けるが、少年は特に驚いた風もなく黙ってみてくる。
「……あなたは、聞いても答えないだろう。じゃあ聞いても意味がない」
この時初めて私は吸血鬼という種族ではなく彼というものを見た。
ゆっくりと金色の薔薇装飾がなされた鍵を鍵穴に入れて、開ける。
「出てもいいよ」
瞬きを数回した少年はこれでも驚いたのだろうか?
表情がないので判りにくいと苛立つが、自分も人のことは言えないなと自嘲した。
意識しないとこの顔は動かないのだ。
やがて少年は妙にゆっくりとした動作で立ち上がり、ふらりとよろめいて籠の中に倒れこんだ。
ガチャンと派手な音がする。
「だい、じょうぶ?」
反応が遅れて冷たく感じるが、内心かなり動揺して檻の傍に膝をつく。
自分は馬鹿だ。この六日間ずっと彼は檻の中に座っていたのにいきなり立てるわけがない。ましてや夜は食べているとしても朝と昼は何も食べていないのである。
クッションがいっぱい入れてあったので痛くはないと思うが、糸の切れた操り人形みたいにくったりと動かなくなった少年の顔に何気なく手を伸ばす。
ひやりと冷たいその頬に掌を当てた瞬間、びくりと少年の身体が強張ったが、そんなことは気にせずに檻の中に自分も入ると、艶やかな黒髪に誘われるように手を伸ばして鼻先を埋めた。石鹸の香りがしてうっとりと目を閉じる。
この檻は少し広めに作ってあるらしく、二人入っても身を寄せれば入るのだ。
しかしそれ以上何をしても少年は反応を示さない。
頬を擦り合わせても耳朶を噛んでも全然動かなかった。こんな扱いに慣れているのだろうか? 訳も分からず苛々とし髪の毛を軽く引っ張ってみたが、やはり動かない。
至近距離で目を合わせると艶々と赤く濡れた唇が目に入った。吸い寄せられるように唇を重ねると少年の目が大きく見開かれる。
驚いた顔を見て気分が良くなり、クスクスと笑って少年の顔を両手で包み込んだ。
「私の名前はフェル二ア・アイサ・ティターニア・ブラッドベリー、ティアと呼んでも構わないわ。あなたの名前は?」
久しぶりに正式名を名乗り、少年の唇に付いた生クリームを親指で拭う。
「……名前は、ない」
どこか呆然としたような声はそれでも美しく、フェル二アは嬉しくて頬が緩んだ。
「じゃあ、私があなたに名前をあげる。そう、ね――アルトレルはどうかしら?」
頷いた少年に満面の笑みを返し、
「愛称はアルね。今日からあなたはずっと私の傍にいてくれる?」
美しくそして哀しき人、これはある物語でそういう意味を持つ名前、誰も知らないフェル二アだけが知っている意味。
薔薇は水がないと生きていけないように、アルは私がいなければ生きていけなくなればいい。
打算と自己満足が混じったそれに少年――アルは、はにかみ損ねたような顔で笑った。
「あなたが俺を要らなくなるその日まで……」
手首に口づけが落とされた。
これで序章は終わりです。
次は第一章、一話目はアルトレルからみたフェルニアの姿です。
投稿は明日夜8時を予定しています。