とある元メイドの未練
彼女を最後に見られないかと未練がましく見ていた窓に水色の髪の毛の少女が映って、歓喜と共に見つめると視線をふいっと逸らされて唇から吐息が漏れた。
「あ……」
メアリ・ロデル、没落した男爵家に生まれた栗色の髪の――自分で言うのもなんだが、なかなか可愛らしい作りの顔をしていると思う、だ。
私がここで働くことになったのは今から5年前、15歳のころ。
貴族である限りは税金を納めなくてはならなくて、爵位を返上するのにも莫大なお金がいる。最低限の見栄をはろうとお金をたくさん使う母と、没落してすっかり飲んだくれになってしまった父、2人に毎日こつこつと働いて溜めていたお金もとられて、泣きながら家を飛び出した日――。
ぶつかった金色の髪の男の人に仕事を紹介されて、住み込みと聞いた自分は一二もなく頷いた。
もう家には戻りたくなかったのだ。
そして働き始めてから知ったことだが、自分がぶつかった人はこの家の当主で、名前をレオノール様と言うらしい。
ここで働く人は皆、お金に困っていたところや、どうにもできない事情があったところを当主様に救われて連れてこられた人で、皆、当主様に心酔していた。毎日聞く話で、彼がすごい人なんだなと言うのはぼんやりと分かったが、あまりぴんとは来なかった。
だって偶に話しかけてくれる彼は気さくで優しくて、身分が違うということをあまり感じさせなかったから、一緒にいる赤い髪の男の人は「良く調教されているな」と可哀想な目で見てきたが、意味がよく分からなかった。
ただ、薄らと笑った当主様がぞっとするほど美しくて怖く見えただけだ。
それから、何かが少しずつ狂い出した。
自分が知らない当主様をもっと見てみたい。
その一心で近寄ってはいけないと言われた南の部屋へと近づいてしまい――。
殺されかけた。
ギラギラと憎しみに燃える瞳も、対照的に微笑んでいる唇も、全身から溢れだす威圧感もいつもの彼みたいじゃなくて、そんなの違うと言ったら、君は僕のなにをみてそんなことを言っているのと返されて言葉に詰まった。
ただぼろぼろと涙を零しながら知りたい、知りたいと繰り返すと首に食い込んでいた手から力が抜け、許されたんだと思った瞬間、顔が寄せられて耳元で囁かれた。
『君が――知りたいと言うならば教えてあげる。だから……』
気が付くとこれについたものは精神が病んでお屋敷から解雇されると噂の南の部屋付きのメイドになっていた。
あぁ、彼は私をここから追い出したいのかと思い、それも仕方がないことだと諦めた。命令違反をした自分が悪いのだ。当主様の命令は絶対、なのだから……。
日当たりが一番いい部屋なのに後ろ暗い噂ばかりがはびこる南の部屋のドアを開ける。
―――息が、止まった。
うまく呼吸ができない。
心臓が早鐘を打つ。
それくらい、ずっと、今までで見てきた誰よりも『彼女』は美しかったのだ。
ミルクのような白い肌を際立たせる藍色の髪、紫紺と呼んだ方がしっくりくる右目と薄く発光するような金色の目。華奢と言えば聞こえはいいが、いっそ病気じゃないかと心配するような細い身体、すらりと伸びた手足に感情の起伏がない、耳に心地いいが不安を煽るような美しい声、その姿はぼんやりと、どこか浮いたような雰囲気の部屋の中でも一際異質で、怖かった。
特に、目が……。
只、目の前にあるものを映しているようなその目は硝子玉のように澄んでいて、汚いことなどなにも知らないような目は反対に汚いものすべてをのみ込んだかのようにも見える。
そして同時に深く心酔した。
私をただの置物かそこらの石とでも思っているかのような傲慢な態度に、笑みを浮かべても気持ちなど微塵も入っていないのがありありと分かるそれは――圧倒的に恵まれたもじゃないとできないもの、彼女は今まで人の顔色を本当の意味で窺ったことがない。
かといって世界のすべてが自分に都合よく回るとは考えない聡明さ、淡い桃色の唇からは平坦で淡々とした声が紡ぎ出される。優しく微笑んだように見えるその顔とは合っていなくて、当主様も彼女の前では必要以上に顔色を窺い――それでも乱れることのない声、表情、けして曲がることのない一本のしなやかな木のようで、綺麗だと思った。
本当に……。
思っていた、のだ。
それが壊れたのはいつか……。
ただいつもと変わりない日だった。
朝から朝食を持って行って、大量の本を部屋に運ぶ、そして本を読んでいる少女の髪を後ろから梳くのだ。
この時間が一番好きだった。中々身体を触らせようとしない少女の髪――身体に唯一触れることが出来る時間、入浴の担当は別だった。
絹のように艶やかな髪、うっとりと出来るだけ長く梳き、名残惜しげに離す。
少女はその間、一言も口を利かずに黙々と一心不乱に読みふけっている。
そして――奴隷、吸血鬼が来た。
最初に見た時は酷く、驚いた。
見たことのない漆黒の髪に対照的に雪のように白い肌、赤い伏せがちの目を縁どるのは髪と同色の長く、黒い睫毛、唇はいつも蜜を塗ったかのように鮮やかで――少女に仕え始めてから人の顔を一度も綺麗だと思ったことのない自分ですら美しいと思った。
月のように冴えた美貌、というのはこのことを言うのだろうか、思わず跪きたくなるような美しさ、少年を見て、最初は少し心配だった。
少女が彼のことを気にかけたらどうしようと、いらないことだったかと安堵したのはそれから三日後、少女は少年を気に掛けるどころか完璧に無視していた。
それにほんの少し感じる優越感、あんなに美しい存在でも少女には触れないのに、私は触れる。焦がれるような視線を向けられても少女は微動だにしない。
だから……油断していたのだと思う。
毎日、ここで食事をとらない少年のことを少女に言って、後悔したのは後の祭り。
興味を持った少女は自分を追い払って――次に来た時、少女と少年の距離はほとんどなかった。絶句する。
自分でさえ髪に一日一回触れられるか触れられないかの少女の身体は惜しげもなく少年の方へと擦りつけられていて、顔には相変わらず表情がなかったが、そこからはいつもの硬さが抜けている。無機質だった目は代わりに愛おしそうな光を宿しており、実際とても大切に、大事に、傷つけないようにとの配慮が分かるような慎重な触り方をされていた。
食事も一緒に食べるだけではなく、手ずから食べさせていたし、少年の髪質が好きなのかいつも機嫌よさげに梳いている。本を読むとき――うんん、常に周りのものを無視していた目も、本を読んでいる時以外は必ず少年を見ている。寝台も同じ、自分は少女を起こしに行くので知っているが、誰にも盗られないように強く抱きしめて眠っているのを見た時は憎悪と言ってもおかしくないくらいの感情が芽生えたのを覚えている。
あまりにも、違った。
今までの奴隷の扱いと、
今まで、少女はたとえ相手が泣いても叫んでも煩わしそうにするだけで、自分から声はかけない。どれだけ他の奴隷が何を言っても一言も口を利かなかった。
足元に跪いても無表情は良い方で、酷い時は不愉快そうに眉を顰める。
とにかく彼ら――奴隷という人種には欠片も関心がなかった。
檻――これは少女が相手を気にかけなかったために起きた事件の後、当主様が作ったものだ。今までは彼女の言うことに逆らったら激痛が走る魔法の首輪しか嵌められていなかったが、殺されそうになっても少女が何も言わなかったことから、次の奴隷のこの少年から檻に入れることにした。
あの時のことは、忘れられない。
髪を振り乱して光に反射するナイフを掲げたエルフの奴隷とそれを瞬きもせずに見つめる少女の空虚な目、彼女は生きることに執着がなかった、そしてかといって死にたいわけでもない。
避けようとした身体が一瞬強張って、緩やかにまた元の位置に戻る。
多分、少女にとっては自分が死のうが生きようがどうでもよかったのだろう。
私の叫び声で異変に気付いた当主様が駆けつけて、錯乱したエルフを侍女に連れて行かせると少女の肩に刺さったナイフを抜き、微かに眉を顰めたその身体を強く抱きしめる。
苦しそうなその声にも少女は何の反応もしなくて、
そして――少年。
最初は珍しい愛玩動物を可愛がるような気持ちだったのだろう。それが……日が経つごとに少女の中でかけがえのないものになっていく。
自分はそれを見ている事しかできなくて……。
はっきり言って少年には憎しみに近い感情を抱いていた。
だって、そうではないか、一年近く共にいて、ずっと尽くしてきた自分と、最近知り合った少女に抱きつかれてもあまり反応しない少年。
なにが、いいのか。
思えば、少女は最初から少年を見ていた、なのに私は見てもらえない。
ちゃんと見てもらえたら好きになってもらえると思うのに、
間違いだと思ったのはそれから数日後、少年がいない間に聞いてみた。
どこが、良いのかと。
帰って来たのは冷たい目、普段なら一言も喋らなかっただろうが、少女も私が少年に向ける視線にこめられたものを分かっていたのだろう。
ゆっくりと、染み込むように、
『あなたは、一回でも、私の目を見て話したことがある?』
これが、私が聞いた中で少女が一番長く喋った言葉、確かに私は少女の目を見て話したことがない。見たのも一回かそこらくらいで、視線の前に少女の顔すらまともには見られなかった。
『分かったなら、もういい』
それから数日後に少女は変わり果てた姿で屋敷に運び込まれた。
原因は、少年だ。
そしてその前に自分のせいでもあった。
屋敷を囲む結界は4つの石を中心に展開されていて、一つが動くだけでも結界は大きく歪む。自分はエヴィータ様に言われてこれをやった。別にエヴィータ様に従ったわけではない。彼女のためだ。
喜んでくれるはずだった。
だって彼女はいつも外を見ていたから……。
当主様に怒られるかもしれないと思ったが、その時は少女の興味を引けるならなんでも構わなかった。馬鹿なことをしたと思ったのはすべて終わった後。
結界が歪めば大体の魔術は感知されにくいし、質も落ちる。
当主様はそれに気付いたみたいで、自分は彼女付きのメイドから外された。
悲しかった。
苦しかった。
そして今、自分は屋敷を追い出される。
未練がましく少女の部屋の窓を見て、見れはしたけど心は晴れなかった。
多分、恐らくだが少女は自分の名前どころか顔すら覚えていない。
落ちた涙が地面に染み込み、未練を振り切るように門から出る。
視界に冷たい銀の輝きが入ったと思った瞬間、意識は闇にのみこまれた。
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身体に赤い飛沫が飛び散り、白い洋服に鮮やかに映える。
月を背にして無表情で立っているのは――レオノールだ。
表情が抜け落ちた顔は恐ろしく冷たく、エリクセルは大きな溜息を吐いた
「いくら何でも酷すぎるぞ」
そう本当に酷い。
彼女はレオノールのこともフェルニアのこともただ、好きすぎただけだ。
そしてフェルニアはともかく、レオノールは自分でそう仕向けた。
南の部屋付近の使用人は本当に、異常ともいえるほどレオノールの命令によく従う。普段は特に他の人間とかわらないため、何も思わないが、レオノールの前に立つと変わるのだ。
誰のことも信用できなかったレオノールは、彼女たちを決して自分の命令に逆らわさせないようにした。
従順で何にでも頷く人形、それが自分が彼女たちに覚えた感情だ。
そして同時にレオノールの心を深く傷つけもした。
エリクセルの眼下でレオノールは栗色の女性の目を閉じさせ、家令に死体を運ぶように指示すると血の付いた氷の刃を無感情に見る。
「痛みはないよ。多分、自分が死んだことにも気づいていない」
馬鹿だと思う。
毎回毎回、まるで自分が責任を取るとでも言いたげに自らの手を汚すから傷つくのだ。
レオノールの守り方と責任の取り方は、酷く不器用だ。
フェルニアを守れば守るほど自分が傷ついていく。例えばレオノールが飛んできた矢からフェルニアを庇うとして、魔法で作った氷の壁などで庇うのはまだいい。だけど、レオノールはまともに自分の身体で受け止めようとするから駄目だ。
今回の事だって、本当は彼女を殺したくないはずだった。
自分を知りたいと言ってくれたのが嬉しかったのだと思う。彼女の前ではほんの少しだけ素の感情が覗いていた。
だけど、彼女のフェルニアに対する感情は行き過ぎていて、後々絶対にろくなことにならなかった。レオノールもそれを分かったのだろう。
ほんの少し悩んだだけであっさりと処分を決めてしまった。
彼女は中途半端だったのだ。
簡単に切り捨てられるほどには小さくなくて、殺したくないと思うほどには大きくなかった。自分の手で苦しまずに逝かせたのはせめてもの償いだったのかもしれないが、はたから見てる分には痛々しい以外のなにものでもない。
ちらりとレオノールの顔を窺うと、先ほどまで抜け落ちていた表情は綺麗な微笑に覆われていて、溜息を吐きたくなる。
レオノールの中で彼女はもういなくなったらしい。
「今度は俺がしようか?」
自分にとって彼女みたいな人間は憐れむ対象ではあるけど惜しむべきものではない。軽い口調で申し出るとレオノールは困ったように微笑み、首を傾げた。
「もう慣れたよ」
慣れたからといって、痛くないわけではないだろうに……。
ちょっとした切り傷でも、幾度も繰り返せば深くなるし、傷は膿んだら手遅れになる。
遠ざかる背中を追いかけようと手を伸ばしたが、その後ろに小柄な影が付き添っているのを見て伸ばした手を下した。
彼女がいる限り、レオノールは大丈夫だろう。
いなくなった時のことは考えたくもないが……。
軽く空中に手を躍らせて血痕を消すと、エリクセルは踵を返した。
小柄な影、というのはアデルのことです。
次の投稿は9月2日、フェルニア視点でほのぼのとしたものにしたいです。エリクセルの視点も。




