この世界に一人
小さな身体は自分でも持ち上げられるくらいに軽く、首も手もとても細い。少し力を加えただけであっさりと折れてしまいそうで、アルトレルは慎重にフェルニアを抱き留めた。さらりと水色の髪の毛が揺れて、頬を撫でると淡い桃色の唇から吐息が漏れる。
守りたい。唐突にそう思った。
この手も髪も唇も、誰にも触らせずに傷つけさせたくない。
彼女を失うことを考えただけで、あの時の世界が色褪せたような感覚に陥り、体が震える。
あの時――本当に心臓が凍り付いたかと思ったのだ。
息を吹き返したときは、記憶にある限り初めての涙が出た。
それからは、ただ苦しくて、怖くて、目を離したらまた彼女の心臓が止まるかと思って、手を握りしめて偶に呼吸をしているかを確かめる。
飲んでいいと出された人間の血も、彼女の血と比べれば濁っていておいしくないし臭かった。飲まなきゃいけないことは分かっていたが、どうしても体が受けつけなかったのだ。
無理やり飲み込んでも吐いてしまう。
今までこんなこともなかった為、戸惑ったが、結局はそれもどうでもよかった。
そんなアルトレルが今も生きているのは公爵のおかげ、この一点に限るだろう。
暴れるアルトレルを地下牢に閉じ込め、逃げようとすれば鎖でつなぐ、最初こそ恨んだものの確かにあれだけ飢えていたのだ。彼女の近くに居たら何をしたか分からない。でも、あの時はそんなことにも気付かずに、がむしゃらに彼女の傍に居たかった。
次々と血を提供する人間を変え、それが駄目だったら自分の血をくれた。それから……赤い髪の男を連れてきた。二人の血は辛うじて飲めたが、ますます飢えは酷くなった。
悪戯に代用の血を飲んだせいで身体が更に血を欲しがる。
でも代用でも飲まなければ死ぬ――。
日に日に目が霞んで耳が遠くなる。
暴れすぎて体力もなく、じっと壁に寄りかかって座っていた時に彼女はきた。
聞きなれた声が聞こえ、最初は、とうとう禁断症状でも出たのかと思った。急いで駆け寄ろうとすると手や足、首にまきついた枷に邪魔をされ、何度も擦れたせいで血が出ている所が激しく痛む。今までもこれは邪魔だったが今以上に邪魔と思ったことはない。
歯を食いしばってもう一度立とうとすると、視界の隅に白いものが映って咄嗟に掴むと壁に押し付ける。
手……血の匂いは沢山嗅いだせいで判別がつかず、顔を撫で、首筋に顔を埋めてそっと舐める。甘い――あぁこれは、間違いなく彼女だ。
胸の奥から湧き上がる衝動のままに抱きしめ、狂ったように名前を呼ぶ。
小さく名前を呼ばれたのが限界だった。
『なんでっ、置いていこうとした! なんで、一人で残った! 一人に……しようとした』
そう彼女は自分を置いていこうとした。この世界に一人――。
一人で違うところに行こうとした。自分を置いて――。
『違うよ。アルを置いていったわけじゃない』
嘘だ。と思った。
顔が歪むのを感じる。
『嘘じゃないよ』
そう答える彼女の顔は笑っていて、また勝手に消えるのではないのかと不安になった。
彼女が決していなくならない方法、自分の傍にいてくれる方法。 一つだけ――ある。
これだと彼女という人間は消えてしまうかもしれないが、それでもこの体が冷たくなるよりはましだった。
手を引いて身を寄せ、首筋に噛み付く――
『駄目』
その瞬間、彼女が声を上げて体が強張った。
視線を下に落とすが、両手で顔を挟まれて視線が合わせられる。
『アル、今私に何をしようとした?』
その目の奥にちらつくのは怒りで、嫌われたのかもしれないと自分への嫌悪感でいっぱいになった。当たり前だ。
自分は彼女の意志を無視しようとした。
嫌われて捨てられても当然、だけど嫌だ。悲しい。怖い。
彼女がいない時間になど戻れない――
『そんなことしなくても、私はアルの傍にいるよ。置いて行ったりしない』
自分はその言葉に縋るしかなかった。
泥のように混ざって重たかった胸が軽くなる。
『……本当に?』
視線は逸らされない。
じっとこちらを見ていた目が顔、首から腕、足へと移動して顔に添えられていた手が傷口を慎重になぞった。ピリッとした痛みが走り、顔を顰めると、彼女は指に付いた血を不思議そうに見、そのまま舐めると首を傾げた。
その間に見えた舌を思わず目で追って口元を凝視する。
『アル、お腹、空いた?』
だから突然の問いには思いっきり動揺してしまった。
勘違いさせるような言葉はやめてほしいと誤魔化すように分からないと返す。
『アルがね。これからもずっと私の傍にいてくれるんだったらいいよ。私の血を上げる』
その言葉に今まで辛うじて持っていた理性が溶けるのを感じた。
彼女がなぜこんなことを言うのかは分からない。自分は傍にずっといたいと、一人にしないでほしいと言っているのに……近くにいるせいで、首筋を舐めてしまったせいで甘い匂いが鼻についてしょうがない。
『いない、わけがない』
気付けばそう答えていて、肩を掴んでいた手を背中に合わせる。
首筋を舐めて、柔らかく食むと舌が痺れるような気がした。彼女の身体は誇張ではなく本当に、どこもかしこも蜂蜜で出来たように甘い。
『……ふっ、ぁ』
舌でなぞり、牙を突きたてようかとした時に聞こえた声に迷い、結局右手を取ると、先ほど自分が強く掴んだせいで痣が出来たそれを唇で辿り、最後に音を立てて止める。
出来るだけ痛くないように細心の注意を払い、ゆっくりと牙を柔らかい手首に沈ませるが、声を漏らしたあたり痛かったのだろう。
自分の腕の中で小さく震えたのが可愛くて、唇が自然と綻ぶ。
ぷつっと赤い血が手首から溢れて滴った。
アルトレルはそれをゆっくりと、急ぎ過ぎないように丁寧に舌で一滴残らず舐めとり、やがてそれが出来なくなるほど執拗に求めた。
ずっと別の血を飲んでいたからなのか、それとも満たされなく、飢えが酷かったせいかその血はこの間よりもずっと美味しく、そして止められないほどにとても甘かった。
途中で静止の声が聞こえた気もしたが、それにも煽られたようにしか感じず、更に手首を強く吸う。
満足したのはそれから暫くしてからで、力を失った身体にひやりとし、目を開けているのを確認してほっと息を吐く。そのまま自分の噛んだ痕が残る手を見て――最初に感じたのは暗い喜びと微かな安心だった。
自分のもの……吸血鬼の噛み痕はそれを示すのだ。
しかし自分は買われたもので、彼女は買ったもの、その力関係は明確だ。
名残惜しげに舐めるとたちまち傷が塞がって、元の自分、いやそれ以上に力が強くなっているのが分かった。これでもう彼女の足手まといにはならない。
守ることが出来る。
傍に、いることが出来る。
「……ティア、あなたがいない世界に生きている意味は、ない。この命も矜持も全てをかけて守るから……ずっと、死ぬまで傍においてほしい」
目を閉じた彼女にこれが聞こえないことは分かっていた。
それでも微かに頷いた彼女の動きを嬉しいと思ってしまい。
抱きしめた腕に力がこもる。
これで一章は終わります。
次は今日3話投稿したので明々後日になり、視点はエリクセル、レオノールのフェルニアに関わる過去が分かります。
エリクセルとレオノールの目的も。
なお、2章からは糖度を少し上げ、投稿するのが二日に一回になります。




