彼女がいない世界
濡れた地面に背中を打ち付けられてアルトレルは呆然と自分の掌を見た。
伸ばしたのに――手を取ってくれなくて、ギリッと奥歯をかみしめる。
戻らなきゃ、戻らないといけない。
よろめきながらも立ち上がり、先ほどよりも体が軽いことに気が付いた
。
甘い、甘い血、飲んだらいけないことは分かっていた。公爵との約束ではなく彼女から何か切羽詰ったものを感じたから、入り込んできた舌を押し返したのに、誘惑には勝てなくて――喉に滑り落ちた血はそのまま身体の糧となった。
「ティア……」
欲しくなかった。要らなかった。
今まで飲んだ血の中で比べるまでもなく甘く、極上の香りを放っていたそれは少量でも体調を大いに回復し、血ではなく彼女の唇も舌もとても甘かった。
でも、欲しかったのは今ではない。
たいした力のない人間に捕らえられても抗うこと一つできずに逆に足枷になった自分など、彼女は見捨てて然るべきなのだ。
口では殺してもいいと言いながら本当は助けてくれようとしたのが分かり、喜んだあの時の自分を殺してしまいたい。
ふらつく体を叱咤し、生い茂る木に手を付くことで凌いで出来るだけ早く歩く。
軽くあたりを見回してみたが、先ほど一緒に放り込まれた子供は見当たらなかった。
どちらに進んでいいかわからなく、血の匂いが濃い方に進んでいくと、遠くで轟音が響いて弾かれるように走り出す。
ドクドクと心臓が動機を伝えて、何かを叫ぼうと口が空気を求めて動く。
そんなはず、ない。
彼女はきっと逃げたはずだ。
崩壊に巻き込まれることはない。
でも、去り際に見せたあの笑顔は――決意を秘めた悲しげな笑みで、それでいてとても綺麗だった。
悲鳴を上げる肺を無視して、音がした場所までいくとアルトレルは一瞬、固く目を瞑った。
そこは先ほどまで自分がいた洞窟、それは――崩壊していた。
あたりに漂う血の匂いを嗅ぎ、虚無感に膝をつきそうになった。
これは彼女の血の香り、間違えるはずもない。
彼女は最後までここにいたのだ。
何かに取り憑かれたように、ひたすら彼女の血が濃ゆく香る場所の上に乗った岩の欠片を退かす。
爪が剥げ、手が擦り切れて血が出てきたが、そんなことどうでも良い。
「ティ、ア! ティア‼」
必死に彼女の名を呼び、やがて何かぬるりとしたものが手に触れた。
一瞬息が止まるが、黒いフードから魔術師の死体だと分かり、それを退け――今度こそ呼吸が止まった。
血に濡れた白く細い手、土に汚れていても美しい顔、異常なほど血を吸ったドレス。
「あ、あ……」
細い体を抱き起こし、頬にかかった髪を払う。
顔には殴られた跡が幾つもあり、そこに転がっている魔術師に殺意が湧くが、もう死んでいるので何もできない。
「……ティア」
手を持ち上げて自分の頬に合わせるが、ずるりと滑って力なく垂れた。
続いて赤く染まった唇を塞ぐが、さっきは熱かった唇が今は何の体温を持たない。
首筋に指を滑らせたが、いつも脈打っていたものはピクリとも動かずに……
もう、認めるしかなかった。
自分を映してくれた目は開くことがないと――
愛しむように撫でてくれたその手は永遠に動かないと――
自分の名を呼んでくれたその唇はもう動くことがないと――
アルトレルの目が暗く淀む。
彼女がいない世界に、生きている意味はない。
足元に転がっていた短剣に手を伸ばす。
最後に彼女の体を強く抱きしめ、喉に刃を合わせ――思いっきりひく。
刹那、彼女の心臓が大きな音を立てた。
次の投稿は、明日の夜、9時
レオノール視点になります。
それから色々なことがかさんで携帯の容量がギリギリになっていますので、基本、一日一投稿を暫くはめざしたいのですが、もしも「あれ、投稿してない」となった時は、あぁ、容量なくなったんだな、と暖かい目で見てもらえると嬉しいです。
新しい容量になるのは8月21日から、それまで頑張って危機を乗り越えます。
最後になりますが、いつも読んでくださってありがとうございます!




