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海を見つめる小説家の話

作者: 加藤 一央

 午後。海にて。

 読み疲れた本から顎を上げ、ずりさがった眼鏡で水平線を見る。しわくちゃの背広みたいな海に、石灰岩を浮かべたような雲。

 潮風に逆らって海鳥が飛ぶ。私はずっと浜辺にいる。ここで日が暮れるのを待つ。潮風で吹き飛んだ砂つぶが裸足に当たって気持ちがいい。日が沈んだら本を閉じ、デッキチェアを畳んでうちに引き揚げよう。

 人生の終盤。本を読むとイメージが騒ぐ。それは水平線でせき止められ、やがて沈黙してしまう。考えごとにも若さがいると、私は思う。持続しないのだ。

 海鳥が翼を揺らした。


 私も妻も子供を望まなかった。子供以上に必要としたのは、創作に没頭できる生活だった。常に最高の仕事をした。若いときから今に至るまで。集中、弛緩。仕事には魂を投げつける。妻は絵の具で、私はタイプされた文章で。妥協という言葉を私たちは、知らない。

 寿命なんてあってないようなものだと、よく妻と私は口にする。

 どっちが先に死ぬか。死んだ者勝ちのレースに私たちは賭けている。命の削りしろ。あとどれくらい残っている?十年、二十年。死にたいわけではない、でも、生きながらえるために生きてはいない。妻と私は同じスピードで生きる。どちらにせよ、生き急いでいる。


 創作の庭で。私たちは創造力という玩具で人生に遊ぶ。こどもがよくやるように、水道栓をめいっぱいに開ける。夏のはじまりの庭に、透明なしぶきがものすごい勢いでふきだすのが可笑しい。私たちだけの庭、私たちだけの楽しみ。

 庭にトマトがなる。妻も私も世話する。砂糖をまぶして食う。トマトは昔、果物だった。昭和時代だ。野菜だと思うからだめだ。砂糖でいけるならば、と蜂蜜をかけてみた。これはいけなかった。砂糖のざらざらした食感が旨い。スイカがまだ甘くないから、スイカがわりに食す。週に三日は雨が降る。雨が降ったり、晴れたりする庭をながめながら、私はトマトを食べる。

 昭和時代から今まで、首相が何人いたのか数えてみた。指折り数える。指が折れるたびにスライドのように入れ替わる顔。象のような国家の、頭だけがくるくる入れ替わっていった。恐竜時代とか江戸時代。あるいは雨粒みたいな小隕石が降り注いでいた時代。象の頭だけが入れ替わるように、星が生まれたり死んだりする。天体は象の表皮だ。象が水浴びをしたから、ついた水滴。

 惑星は惑わす星だから惑星というらしい。星座はきちんと整列して神話を伝えたりするけれども、惑星はおかまいなしにあっちにいたり、こっちにいたり気まぐれなのだそうだ。プラネタリウムでリクライニングシートに寝そべって西の夜空を見上げていたら、ぽかんと開けた口に放り込まれるようにそんなアナウンスが聴こえてきた。星座図の上で日月火水木金土、七曜は好き放題に駆けまわる。神話なんて、くそくらえか。太陽系。私も妻も、太陽のまわりをまわっている。まるでこどもだなと思う。七人のこども。プラネタリウムにいたのが金曜日で、今日は水曜日。


 指先に本が載っかっている。視界を横切る水平線のどこかで、本の二百グラムいくらかの質量と、そこに書かれた物語の重みが指によりかかるのがよく分かる。そこに書かれた世界の質量が、私にはよく分かる。それはこうやって見つめる水平線の線上にさざ波みたいな揺らぎとして、私にはよく分かる。考えごとは持続しない。それは、若くないからだ。静止した思考の表面に気まぐれに物語が遊んでいるのがよく分かる。よく分かる。ことばじゃない。


 潮風に逆らって空中で静止していた海鳥が、翼を揺らしてひるがえった。飛び去った。潮風は砂つぶを飛ばして、それが足指にさらさらと当たって気持ちがいい。石灰岩を浮かべたような雲。遠い雨雲かもしれない。降りだしたら、私は本を閉じデッキチェアを畳み、うちに向かって駆け出すだろう。【了】


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― 新着の感想 ―
[一言] 文体や、全体に流れる雰囲気がとても気に入りました。
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