月震
月世界の色は褪せている。
私はそれを、毎夜見る月の夢で、知っている。
月面は無音である。ただ──その地表は、揺れていた。
小刻みな揺れが繰り返され、クレーターの縁が崩れる。粉塵が舞う。真空の中、私もその振動に揺れ──内部が撹拌される。
目が覚めると、部屋には陽光が刺し込み焦点を結んでいた。
隣で眠る夫の呼吸は規則正しく、外からは車の走行音。カーテンを開けば、いつもの角度から世界が見えた。
私はコーヒーを淹れ、テレビを点けた。ニュースは快晴を告げ、続いて国内の平穏を声高に訴えている。
──けれど。
海外のほんの短い映像で、小規模な暴動の発生が報じられた。原因は調査中。群衆が突然怒り出したのかと疑問形でテロップが流れ、とても老け込んだ専門家が「偶発的な衝突でしょう」と説明した。
画面上の時刻は9時過ぎ。
ちょうど12時間前の夜、月は震えた。
私は、知っている。
※ ※ ※
寝床にて、月の夢は続く。
揺れは強くなり、月面には亀裂が走った。断層が見えそうな月世界で私は地面に手をついている。規則性とは無縁の測定困難な揺れ幅の中で、私は何もできない。
今朝のニュースは市場の急落と、国内高速道路での多重事故。
理由がはっきりとしない殺傷事件。護送される犯人の顔は、ヒステリーを起こした後のように放心していた。
どの事件も単体では異常ではなく、よくある事だ。統計の揺らぎに私が執着しているだけに過ぎない。事件に対するコメンテーターの手慣れた言葉は整ったものだ。
だが、私は、私の心情は、整いからは外れていた。
※ ※ ※
月震──月の地震について調べた。
月面にも地震がある。過去に何度も観測された事があるらしい。
最新の観測データは“異常なし”とステータス表示がされていた。
NASAの発表によると、月は数億年を経て縮んでいた。縮小に際して月震は起きる。
公式サイトのグラフは滑らかだった。波形は静まっている──恐ろしいほど、静まっている。
──だが。
私は、月の揺れを感じていた。
※ ※ ※
「最近、ニュースばかり見てるからじゃないか?」
夫は穏やかにそう言った。
私は首をゆっくりと横に振り、やや荒い口調で返事をする。
「でも、月震があると、必ず地球にも影響がある」
夫は私の肩をぽんぽんと叩き、手を置いた。とても暖かく、現実的な重量を感じた。
「一度、病院へ行こう」
診察室の白い壁は揺れてはいない。
医師は静かに頷きながら、私の言葉を慎重にメモに落とす。夢と現実の混同。因果関係の誤認。すべてを予兆と捉える強迫観念。そう分析されているのだろうか。
私は、「月震を感知できない人が多すぎるんです」と声を絞り出した。
医師は、黙ったままペンを止めなかった。
※ ※ ※
満月だった。
夢の中の月世界は、これまでで一番強く揺れていた。
月面は波打ち、粉塵は光って砕ける。クレーターは崩壊し、私はもはや──立っていられない。
寝汗に目を覚ますと、カーテン越しの外界がぼんやりと白く光っていた。
カーテンを開けると雨が降っている。
月光の粒子のような──小さな光の雨が。
私は寝息を立てている夫を起こさぬよう、外出した。
雨なのに、通りには人が多い。みんな、いつも通りに歩いていた。誰も傘を差さず、そして誰も濡れてはいなかった。
だけど、私の頬には、冷たい粒が流れていた。
歩き続けると、ちょうど横断歩道の信号が青く光った。
半拍ほど遅れて人々は動き出した。歩道を踏み締める音。そして──ほんの少しの無音。
動きと音が、呼吸の吸い終わりと吐き始めの隙間程度、噛み合っていなかった。
世界が微弱に遅れていた。何から? 現象から。
私は横断歩道を渡らずに引き返した。
月は震え、振動は位相をずらした。例えば──私と、世界の。
※ ※ ※
翌朝。
ニュース速報に緊急テロップが流れた。
『月面観測データに一時的なノイズか。現在は修正』
映像はすぐに通常放送に戻った。解説者は軽く笑い、「計測機器の誤作動かと思われます」と言った。
誰も気に留めない情報だった。
──私以外は。
テレビを消すと、窓の外を意識する。昨日と同じ陽光が世界を言祝いでいた。
揺れては、いない。
だけど──私は、知っている。
世界は、月震の影響で少しだけ──ずれた。
ほんの僅かに。それは誰も気づかない微かなものだ。
おそらく世界で私だけが、月の震えに感応している。
月世界の揺れだけが、私を世界でたった一人にする。
月が色褪せていたなんて、私以外に誰も知らないだろう。




