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月震

作者: 佐和ネクロ
掲載日:2026/03/05

 月世界の色は褪せている。

 私はそれを、毎夜見る月の夢で、知っている。


 月面は無音である。ただ──その地表は、揺れていた。

 小刻みな揺れが繰り返され、クレーターの縁が崩れる。粉塵が舞う。真空の中、私もその振動に揺れ──内部が撹拌される。


 目が覚めると、部屋には陽光が刺し込み焦点を結んでいた。

 隣で眠る夫の呼吸は規則正しく、外からは車の走行音。カーテンを開けば、いつもの角度から世界が見えた。

 私はコーヒーを淹れ、テレビを点けた。ニュースは快晴を告げ、続いて国内の平穏を声高に訴えている。


 ──けれど。


 海外のほんの短い映像で、小規模な暴動の発生が報じられた。原因は調査中。群衆が突然怒り出したのかと疑問形でテロップが流れ、とても老け込んだ専門家が「偶発的な衝突でしょう」と説明した。


 画面上の時刻は9時過ぎ。

 ちょうど12時間前の夜、月は震えた。


 私は、知っている。


 ※ ※ ※


 寝床にて、月の夢は続く。

 揺れは強くなり、月面には亀裂が走った。断層が見えそうな月世界で私は地面に手をついている。規則性とは無縁の測定困難な揺れ幅の中で、私は何もできない。


 今朝のニュースは市場の急落と、国内高速道路での多重事故。

 理由がはっきりとしない殺傷事件。護送される犯人の顔は、ヒステリーを起こした後のように放心していた。


 どの事件も単体では異常ではなく、よくある事だ。統計の揺らぎに私が執着しているだけに過ぎない。事件に対するコメンテーターの手慣れた言葉は整ったものだ。

 だが、私は、私の心情は、整いからは外れていた。


 ※ ※ ※


 月震──月の地震について調べた。


 月面にも地震がある。過去に何度も観測された事があるらしい。

 最新の観測データは“異常なし”とステータス表示がされていた。


 NASAの発表によると、月は数億年を経て縮んでいた。縮小に際して月震は起きる。


 公式サイトのグラフは滑らかだった。波形は静まっている──恐ろしいほど、静まっている。


 ──だが。


 私は、月の揺れを感じていた。


 ※ ※ ※


「最近、ニュースばかり見てるからじゃないか?」


 夫は穏やかにそう言った。

 私は首をゆっくりと横に振り、やや荒い口調で返事をする。


「でも、月震があると、必ず地球にも影響がある」

 

 夫は私の肩をぽんぽんと叩き、手を置いた。とても暖かく、現実的な重量を感じた。


「一度、病院へ行こう」


 診察室の白い壁は揺れてはいない。

 医師は静かに頷きながら、私の言葉を慎重にメモに落とす。夢と現実の混同。因果関係の誤認。すべてを予兆と捉える強迫観念。そう分析されているのだろうか。


 私は、「月震を感知できない人が多すぎるんです」と声を絞り出した。


 医師は、黙ったままペンを止めなかった。

 

 ※ ※ ※


 満月だった。

 

 夢の中の月世界は、これまでで一番強く揺れていた。

 月面は波打ち、粉塵は光って砕ける。クレーターは崩壊し、私はもはや──立っていられない。


 寝汗に目を覚ますと、カーテン越しの外界がぼんやりと白く光っていた。

 カーテンを開けると雨が降っている。

 月光の粒子のような──小さな光の雨が。


 私は寝息を立てている夫を起こさぬよう、外出した。


 雨なのに、通りには人が多い。みんな、いつも通りに歩いていた。誰も傘を差さず、そして誰も濡れてはいなかった。

 だけど、私の頬には、冷たい粒が流れていた。


 歩き続けると、ちょうど横断歩道の信号が青く光った。

 半拍ほど遅れて人々は動き出した。歩道を踏み締める音。そして──ほんの少しの無音。


 動きと音が、呼吸の吸い終わりと吐き始めの隙間程度、噛み合っていなかった。

 世界が微弱に遅れていた。何から? 現象から。


 私は横断歩道を渡らずに引き返した。

 月は震え、振動は位相をずらした。例えば──私と、世界の。


 ※ ※ ※


 翌朝。

 ニュース速報に緊急テロップが流れた。


 『月面観測データに一時的なノイズか。現在は修正』


 映像はすぐに通常放送に戻った。解説者は軽く笑い、「計測機器の誤作動かと思われます」と言った。

 誰も気に留めない情報だった。

 ──私以外は。


 テレビを消すと、窓の外を意識する。昨日と同じ陽光が世界を言祝ことほいでいた。


 揺れては、いない。


 だけど──私は、知っている。

 世界は、月震の影響で少しだけ──ずれた。

 ほんの僅かに。それは誰も気づかない微かなものだ。


 おそらく世界で私だけが、月の震えに感応している。

 月世界の揺れだけが、私を世界でたった一人にする。


 月が色褪せていたなんて、私以外に誰も知らないだろう。

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