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鏡の日記

作者:
掲載日:2025/11/25

これは、一人の平凡な人間が、自身の存在を巡る不可解な現象に直面し、やがてその境界線が曖昧になっていく過程を記録したものである。

以下は、都内在住の会社員・佐々木健一氏が、自身の新しいマンションへの引っ越し直後から失踪するまでの間に記していた日記の抜粋である。彼の失踪は現在も謎に包まれており、この日記が唯一の手がかりとなっている。


×月×日(月) 晴れ

新しいマンション、最高だ。築浅でオートロック完備、駅からも徒歩5分。何より2DKでこの家賃は破格だった。不動産屋の担当者は「前の住人の方が急な転勤で」と歯切れ悪く言っていたが、私にとっては掘り出し物だ。今日からここで心機一転、快適な生活が始まる。まずはベランダに新しいプランターでも置こう。


×月×日(金) 雨

引っ越し疲れだろうか、最近寝付きが悪い。夜中にふと目が覚めると、必ず視線を感じるのだ。部屋の隅、ベッドの足元、クローゼットの隙間。どこからというわけではないが、明確な「他者の気配」がある。慌てて電気をつけるが、当然誰もいない。ただの思い過ごし、疲れているだけだ。そう自分に言い聞かせて、また電気を消す。暗闇が少し怖いと感じるなんて、いつ以来だろう。

×月×日(火) 曇り

鏡がおかしい。いや、私が変なのか?

朝、洗面台で髭を剃っている時だった。鏡に映る自分が、一瞬だけ、奇妙な、まるで私を嘲笑うような笑みを浮かべた気がした。ゾッとして手を止め、まじまじと鏡を見つめ返すと、そこにはいつもの、寝不足で目の下のクマが目立つ疲れた顔が映っていた。見間違いか。最近、自分の記憶に自信が持てない。昨日の夕食は何を食べたっけ? レシートを見たらコンビニ弁当だった。食べた覚えがない。疲れた、今日は早く寝て明日考えよう。


×月×日(木) 晴れ

日記を書くのを忘れていた。何日ぶりだろう。指が震える。

昨日、私は何をした? 会社には行ったはずだ。でも、帰宅途中の記憶が曖昧だ。気がついたら、家の鍵を握りしめて玄関の前に立っていた。

この部屋には、私以外の「何か」がいる。いや、違う。「私」は、私ではないかもしれない。

さっき、リビングの大きな鏡の前を通った時、映り込んだ「私」と目が合った。そいつは、私よりも少しだけ、笑っていた。私が瞬きをした瞬間、鏡の中の「私」は、私より一瞬遅れて瞬きをした。

違う。鏡の中の「私」が、私を見ている。私の動きを真似して、私を観察している。

助けて。この日記帳も、いつまで私のものだろうか。次のページは、誰が書くのだろう。


×月×日 (金) 雨

鏡をすべて覆った。割れなかったのは幸いだったが、布をかけるだけでも震えが止まらなかった。あの「私」から逃げたい一心だった。これで、もう見られることはない。監視される恐怖からは解放された。はずだった。

だが、今度は音がする。壁の向こうから、誰かが私と同じ動きをしている音が、私がコーヒーを淹れれば、隣も同じように水を注ぐ音がする。私が椅子に座れば、隣もドン、と座る。まるで、鏡がなくなった代わりに、音で私を模倣しようとしているようだ。隣人か? いや、壁一枚を隔てた真横から聞こえる。まるで、この部屋の壁自体が薄い紙でできているかのようだ。私のパラノイアは悪化している。会社は休んだ。電話にも出られない。


×月×日(日) 曇り

もう、何曜日かも分からない。外に出ていない。食料も尽きそうだ。

音が止まった。壁の向こうの模倣者が静かになった。代わりに、私自身の動きがぎこちない。体 まるで 借り物 ようだ 右手 持つペンが、 私 意志 と 関係 なく、勝手 に奇妙円を描き 始めた。慌て左手 押さえつけた、右手 ブルブル 震え 抵抗する。

「やめろ、私の体だ!」

思わず叫んだ。すると、震えが止まった。だが、体の中から、微かな、乾いた笑い声が聞こえた気がした。幻聴だ。


×月×日(火) 快晴

体が、完全に私の制御下から離れつつある。朝、目が覚めると、見覚えのない服を着ていた。いつ着替えた? 記憶にない。洗面所に行くと、布で覆ったはずの鏡が露出していた。布は床に落ちていた。

鏡の中の「私」は、私を見て何か言いたげな顔をしていた。「私」は、私の口角を無理やり引き上げ、笑顔を作らせた。

鏡の「私」は口を動かし何かを訴えている。

声は聞こえないが、唇の動きで分かった。

「体を 返せ」



×月×日 (日)晴れ

彼から「全て」奪うことに成功した。

さて、次はどこへ行こうか。彼の行きたがらなかった場所へ行くのも良いだろう。この「彼」という存在の枠を超えて、私の生を始めるのだ。この日記は、その記念すべき第一歩の記録となる。




(ここで日記は途切れている。最終ページの文字は、それまでの几帳面な筆跡とは明らかに異なる、力強く、歪んだ筆跡で埋め尽くされている)

この短い物語が、皆様にとって少しでも不気味で、そして考えさせられる読書体験となれば幸いです。

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