友情とは儚いのだ
友情は儚い。家族の情には勝てない、恋人との愛情にも勝てない。もちろん言うまでもなく信仰にも比べる事も罰当たりな程に勝てない。
時に某年某月某日
世界的宗教である女神教は分裂の危機を迎えていた。
「友よ、君は信仰を捨てるというのか」
私は女神教成立時の友に尋ねている。
宗教とはつまるところ、人はいずれ死ぬのになぜ生きるのかという事に対する答えである。
何かを信仰すれば、多少は意味が見いだせるのだ。
その対象が科学というものもいるだろうし、今考えても仕方がないから今は考えないという、いわば未来に対する信仰かもしれない。
世界は有限を繰り返す、いずれ元に戻りすべてのつながりを思い出すという円環への信仰であるかもしれない
逆に世界は無限であり、つながり続け一つを形作るという螺旋への信仰かもしれない。
そしてそれらは古い信仰へと変わってしまった。
実際に超越者が現れ、10人を不老不死へと変えたのだ。その御業は同年に計10回、3年行われ、300人の不老不死の者が現れた。
昔からそのような超越者、いわば神への信仰というものもあったのだが、奇跡は噂話としてしか存在しなかった。また信じるのか信じないのかを迫るものであった。
私は女神により50歳の時に直接不老不死に変えられたものの1人であり、女神以前の神を祀る教会の近くの花屋の主人だった。私は現在350歳を迎えているが20代程度まで肉体は若返り以降、肉体的には年を取らなくなった。また人の身では出来ない術まで手にいれている。世界中の軍が敵に回っても我々には勝てないであろう。まさに生きた奇跡であった。
女神は人の平等など説かず、実験をするように我々を不老不死に変えたのだが、今は女神により不老不死に変えられた300人を指導者とし人々の神の前での平等を説く女神教として成立した。
ある意味では間違っては居ない、神は我々に対して平等に興味はない、たまたま近くにいた10人過ぎない。言葉をへらしぼやかしただけた。
妻や息子、孫にも先立たれた我々にとって、300人の友は心の拠り所になりつつある。
だから分裂等ないと思っていた。しかし3年の目の友のうち50人が半旗を翻した。
世間では1年目の者はより女神の寵愛が強いと思想が広がっており、1年目の友の一部がそれに同調した。
その事に3年目の者が反発した。
「女神の前では皆平等だ」彼等、彼女等の主張はより教義に忠実だが、組織をまとめる上では邪魔になる考えだ。
3年目の者は女神正教と名乗り、半独立状態となっている。私の友は友情よりも信仰を選んだ。
私は友情を取りたかった。女神教などまやかしだ。
300人を不老不死にして以降、女神は一度も姿を現していない。勝手に女神の考えを都合よく解釈しただけの女神への信仰ですらないものと家族さえ居ない私にとっての友情であれば比べるまでもない。そして私は女神の秘密を知っている。
女神教と女神正教の間で互いの今後を決めるための宗教会議がおこなわれようとしていた。
どちらが正しいのかがその日決まる。女神不在のまま女神の正しい教えが決められる。