第7章 泉の精
「…やってみる」
君のその返事に、レオは満足げに微笑んだ。
「そうこなくっちゃ」
彼はオラクルに向き直ると、部屋の隅にある一つの泉を顎でしゃくった。
「オラクルさん、この泉を使ってもいいかい?」
「…好きにせよ。だが、何が起きても妾は知らぬぞ」
オラクルが、呆れたように息を吐いた。
君はレオと一度目を合わせると、決意を固めて頷いた。鞘からシュッと剣を抜き放ち、ゆっくりと透き通った泉の水面へと近づける。水のひやりとした冷気に当てられ、君はごくりと唾を呑む。
…本当に、大丈夫だろうか。
不安を振り払うように、君は剣の先を水に触れさせると、そのまま柄の根元ギリギリまで、祈るように沈めていった。
するとどうだろう、透明だった水が段々と濁り、底の方からブクブクと泡が浮かび上がってくるではないか。君は慌てて剣を引き上げると、身を乗り出して水面を覗いた。
「これが、泉の精…?」
そう呟いた、その時だった。
シュルシュルという不快な音が響き、腐臭が鼻を突く。汚泥のように濁った水面がぐにゃぐにゃと揺れた次の瞬間、大量の蛇が濁流のごとく溢れ出してくるではないか!
「毒ヌママムシヘビだ!噛まれると死ぬぞ!」
レオの焦った口調に、血の気が引いてゆく。足元で蠢くヘビの塊に思わず後ずさると、水に濡れた剣が赤黒く錆びてしまっていることに気づいた。
「…そんな!」
「落ち着け」
レオが、腰からエルフの短剣を取り出した。君も慌ててレオと背中を合わせると、咄嗟に剣を構える。だが、この狭い空間で、どうやって襲いかかってくる小さな蛇を斬ればいい?!
「言っとくけど、僕近距離は苦手だからね!」
レオはそう言うや否や、素早く短剣を振るった。その剣裁きは、まるで流れる水のようで、君ですら見とれてしまうほど美しい。パワーと一撃の重さ重視の君の戦い方とはまるで違う、無駄な動き一つない、正確に急所だけを突く洗練された技術。…これが、彼が“苦手”な近距離戦闘。
「よそ見するな!」
レオの叫び声に、君ははっとして我に返った。刹那、一匹の蛇が、死角から飛びかかってきたではないか!
「危ない!」
ドン、とレオが君を突き飛ばした。刹那、ガブリ、と鈍い音がして、蛇の牙が深々と突き立てられた。
「レオ!!」
君が叫ぶ。が、レオはチッと舌打ちをすると、素早くヘビを切りつけた。
「僕は大丈夫だ!集中しろ!」
彼の声は普段と変わらず力強い。だが、その額には脂汗が浮かび、顔からは急速に血の気が引いていた。
君は混乱しながらも頷くと、思考を振り切り、目の前の敵に集中する。四方八方から響く、鱗が床を擦る音と、シューシューという威嚇音。君は低く身をかがめ、襲い来る牙を剣で弾き飛ばす。 背後でレオの息遣いが、少しずつ乱れていくのが分かった。
「大丈夫じゃ…ないでしょ!」
君は歯を食いしばり、さらに剣を振るった。焦りが君の動きを加速させ、床を埋め尽くしていた蛇の数がみるみる減っていく。
やがて最後の蛇を仕留めると、部屋には静寂が戻った。
君が安堵の息をもらした、その時。君の目に映ったのは、苦痛に顔を歪め、ふらりと膝から崩れ落ちる、レオだった。ぴしりと、君の心臓が凍りつく。
「レオ!!」
「ごめん…まずかった、かも…」
そのか細い声に、全身から冷や汗が噴き出した。
君は咄嗟に彼に駆け寄り、その肩を両手で掴む。苦痛で歪む顔に、浅い呼吸。腕に空いた小さな二つの穴からタラりと血が垂れ、彼の服を赤く染めた。
恐怖が、鷲掴みにするように心臓を締め付けた。脳裏に、暗闇へと落ちていく白い毛並みがフラッシュバックする。
…まただ。また、自分のせいで、仲間を失う。
絶望に、ぎゅっと目を閉じた、その時。
背後から呆れたようなため息が響いた。
「いい加減にしたらどうだ」
その声に、レオがぱちりと目を開けた。その瞳には先程までの苦悶の色はなく、むしろ「いいところだったのに」とでも言いたげな、つまらなそうな色が浮かんでいた。
「あれ、バレてた」
「え?」
君は混乱してレオとオラクルを交互に見る。オラクルが、忌々し気にレオを睨みつけた。
「…汝、毒耐性を持っとるだろう」
それを聞いて、レオは悪びれる様子もなくカラリと笑った。
「流石オラクルさん、大正解」
状況が飲み込めない君の前で、彼は何事もなかったかのようにすっくと立ち上がり、服の埃を払った。
「昔、毒矢を作ろうとして色々実験してたからね、その時に耐性が付いたんだよ。だから大丈夫って言ったじゃないか」
「…一体、どうやって…」
君の声が震えた。オラクルが肩をすくめる。
「特定のモンスターの死体を食べると、耐性がつくことが稀にある」
ゾクリと、君の背筋が凍った。
その瞬間、脳裏にあの日の光景がフラッシュバックする。彼が差し出してくれた、あの温かいシチュー。
『…もし僕が、毒の耐性を持ってたら?』
あの時の冗談めかした彼の声が、やけに鮮明に蘇る。 あれは、もしもの話などではなかった。
あの時と、同じだ。
「…大丈夫なら、なんで倒れたりしたの、レオ」
絞り出すような声で、そう、呟いた。レオは一瞬だけ少し気まずそうに目を逸らすも、すぐに君の瞳をまっすぐに見つめ返して、真剣な声で言った。
「…騙すような真似して、ごめん。でも、君に、大事な仲間を守るためなら、僕は本当に命を懸けるってことを、見せたかったんだ」
レオが、優しげな笑顔でにこりと微笑んだ。
「それに、君の実力も見てみたかったしね」
「…でも、息切れしてたし…顔色だって…」
「言ったでしょ、僕近距離苦手なんだって」
君は、言葉を失った。安堵と、試されたことへの怒りと、そして彼の真意を測りかねる混乱が、胸の中で渦を巻いた。
…そうか。私は、試されていたのか。
君は、彼の本心を探るように、じっとその紫の瞳を見つめる。
「まあ…無事だったなら、良かったけど…」
そう呟く事しか、出来なかった。
「お詫び…といっても、何だけど。もっかいだけ、試してみないかい?泉の精探し」
君は、自分の耳を疑った。
「レオ、何言って…」
「大丈夫、今度は僕が剣を入れるから。それに、アレより悪いことなんて相当無いんじゃないかな?」
レオは肩をすくめると、笑った。君は錆びた剣とレオを交互に見比べ、渋々彼に剣を手渡した。
「じゃあ、いくよ」
レオがそう言って泉の上で手を離すと、剣はボチャンと音を立てて水に落ちた。
「ちょっと、レオ!」
君は慌てて泉に駆け寄ると、中を覗き込む。そして、絶望した。剣は、深い泉の底まで沈んでしまっている。
「そんな…!」
君が声を震わせた、その時。
泉の奥から、ゆっくりと光る手が上がってきたではないか!
剣は眩い琥珀色を放ちながら、ゆっくりと水面に上がってきた。金色の美しく装飾された柄を、君の手が握る。ずっしりとした、しかし吸い付くように手に馴染む重みだ。
その刃は、もう汚れても錆びてもおらず、夜の太陽のようにキラリと光を反射して君達を照らした。
「…これは…」
「泉の精の、祝福だ」
オラクルが感心したように呟いた。
「…妾も、実際に見たのは、初めてだ…」
レオが、安堵の息をついた。
君は絶句して、そっと剣を撫でる。刀身から、微かな温かさが伝わってくるようだった。
「…すごい」
君の指先が、歯の根元に刻まれた文字を、そっと撫でた。古代のエルフ語…だろうか。君には、読めない。
「…ねえ、レオ…」
そう言って、顔を上げたその時、君はあることに気づいた。顔からサーっと血が引いていく。君はごくりと唾を飲み込むと、肘でレオをつついた。レオが顔を上げる。
「?どうした…」
そこまで言って、レオは口を閉じた。
彼も気づいたのだ、泉の精が出てきた泉が、噴水もろとも、跡形もなく消えていることに!
一つ消えたせいで部屋のバランスが崩れ、ものすごく不格好になってしまっている。
レオは一瞬考えるように目を閉じる。そして、頷くと、目を開いて、君の手を取った。
「…逃げるぞ!」
レオはそう叫ぶと、走りだした!君も慌てて後に続く。きょとんとしていたオラクルだが、泉がない事に気づくと、顔を真っ赤にして、叫んだ。
「おい!待て!!」
彼女の声が遠ざかってゆく。走りながら、レオが声を出して笑った。君も思わず笑いだす。
「貴様ら!お…覚えておけー!!」
薄暗い下階段に、二人の笑い声が響いた。