第4章 禁断の子
故郷のヴァルキリー村から迷宮の入り口までは、馬車で行くことになっていた。
窓の隙間から入ってくる冷たい隙間風に手がかじかみ、少し空いているカーテンの隙間から窓の外の日が昇る前の闇が目に入る。
卵を割って焼いただけの味のない目玉焼きで腹を満たすと、机の上に丁寧に置かれた赤い組紐をそっと手首に巻いた。
君は澱んだ空気を払いのけるように小さなかばんを背負うと、重い足取りで家を出た。
村はまだ、深い眠りの中。“英雄”の旅立ちだというのに、見送りの一人もいない。
でも、それで良い。最初から存在してはいけなかった者が、去るだけなのだから。煩い声も、他人事の同情も、そんなものはいらない。
…でも、ただ、一人。最後に、お別れが言えるのなら。
「おーい!」
聞き慣れた声がぼんやりとこだまして、薄暗い辺りを見回すと、小さな灯りが近づいてきた。
段々と、その姿が鮮明になってくる。森の方から走ってくるのは、ランプを持った、柔らかな赤毛の少年。
「ジェームズ!」
彼の足元からは、白い毛玉が君の元へ駆け寄ってくる。
「シロも」
君の足にすり寄るその頭を優しく撫でてやると、シロが満足そうに鳴いた。
「間に合って良かった」
若葉の雫の淡い緑の彼の瞳が、森の奥の湖面のように優しく細められた。君より少し背の高い彼の白い息が、君の短い黒髪を撫ぜて流れていく。
「帰ってきたんだ」
一昨日ほど前に遠くの街まで出かけていったと聞いていたから、もう会えないと思っていた。
「…嬉しい」
そう言った君の表情を見て、ジェームズが顔を曇らせた。
「…また、村の奴らに、何か言われたのか」
君は少し俯いて、首を振った。
「べつに、良い。気にしてないし、全部事実だから」
「…誰に言われた?隣の婆さんか?同期の奴ら?待ってろ、俺が…」
「みんな思ってるんだから、誰が言おうとどうでもいい。それに…慣れたから」
“禁断の子”には、もう慣れた。
ジェームズが、強く唇を噛んだ。
「…そんなの、慣れる物じゃない!お前がダンジョンに行くのだって、ラウフル国の未来の為だとか、戦争に勝つためだとか綺麗ごと並べて…結局あいつら、自分達が死にたくないから、お前を…!」
「ダンジョンに行きたいって言ったのは、私だよ」
君が震える彼の手をそっと制すると、彼は悔しそうに俯いた。
「…納得できない。『イェンダーの魔除け』なんてあるかどうかも分からない神器の為に、お前が一人でダンジョンになんて…」
「イェンダーの魔除けは存在する。私が手に入れて、この戦争を終わらせるから」
そう言った君の視線は、ジェームズの肩越しの、村から遠く伸びる一本道へと注がれていた。 …この場所から逃げられる、あの唯一の道を。
「…そこまで言うなら」
ジェームズはそう呟くと、決意したように顔を上げた。
「目、瞑ってくれ」
「いいけど」と君は戸惑って頷くと、言われたとおり、目を閉じた。
ガサガサとポケットを漁るような音に続いて、細い金属の擦れるしゃらりと音がした。
「よし、開けていいぞ」
ぱっと目を開けると、雪に反射された光で少し目がくらむ。
朝日がゆっくりと昇って、君たち二人を照らし始めた。
君の目に最初に入ったのは、彼の眩しいほどの笑顔だった。そして、首に何かを下げられたことに気づき、自分の首元に目をやる。
そこには、丸く虹色の光りを放つ宝石が付いた、ネックレスが下がっていた。オパールだ。
君はそれをそっと手に取り、目を見開いた。
「これ、私に?」
「そう、お前に」
彼はそう静かに言うと、ふっと笑った。
「おそろいにしたんだ」
彼の首にも、君のものより一段小さい同じネックレスがかかっていた。
君は目を丸くする。高価なものに違いなかったからだ。
「遠出してるって…これを買いにわざわざ遠くの街まで行ったの?」
「わ、笑うなよ!これでも色々考えてだな!」
そうふてくされる彼を見て、君は再度小さく笑った。
「ありがとう。これを見て、ジェームズを思い出すよ」
君はそう言って、優しくネックレスを握った。彼の顔が耳まで赤くなる。
「…おう」
シロが、真っ白な雪を蹴って、ジェームズの足元を走り回った。
「ちゃんと、言うこと聞くんだぞ」
ジェームズはそう言いながらしゃがんで、シロをそっと撫でた。
「…俺の代わりに、エイミーをよろしくな」
シロが、キュン!と鳴いた。君も彼の横にしゃがみ、そっと彼を見つめていた。
ジェームズが、呟いた。
「…ホントは、行ってほしくない」
「知ってる」
「もし俺が足を折ったら、お前は行かないでくれるか?」
「行く」
「そうだよな…」
そう俯くジェームズを見ながら、君は思わず小さく噴き出した。
「やっぱり、一昨日私の夜ご飯にスライム入れたのジェームズでしょ」
「な…何故それを…」
固まるジェームズを見て、君は堪え切れずに笑い出した。
「やっぱり!私が食べる前にシロが食べてて、お腹壊したみたいだったから、まさかとは思ってたんだけど。よく見たらなんかスライム入ってた」
「ごめん…ほんとに、行ってほしくなかったんだ…」
申し訳なさそうに縮こまるジェームズを横目に、君はそっと前髪をいじった。
「良いよ、美味しかったから」
「食べたのか?!」
「ジェームズが作ってくれたんだもん」
君がそう言って微笑むと、ジェームズが顔を真っ赤にして、俯いた。
「…じゃあ、もう時間」
君が静かに立ち上がると、彼は顔を赤くして、口を開きかけた。だが、その言葉を飲み込むように俯くと、今にも泣きだしそうな顔で、こう言った。
「俺は、ずっと、待ってるから」
ネックレスは、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。
彼の悲し気な笑顔と、雪原の反射光が、石造りの部屋の冷たい空気に溶けていく。
胸に下げたオパールに、そっと触れる。そのぬくもりを確かめるように、君はゆっくりと目を開けた。
最初に君の視界に映ったのは、何とも言えない顔で固まっているレオだった。
「あ、甘い…蜂蜜と砂糖をかけたチョコレートくらい甘い…」
「?」
君は首を傾げる。レオはコホンと小さく咳ばらいをすると、再度口を開いた。
「友達にしては高価すぎるネックレスに、同居経験もある幼馴染…これは、なにか…」
「ジェームズは、友達だよ」
君がそう言って首を振ると、彼は大きなため息をついた。
「“友達”、ねぇ!」
と彼は言って、頭を左右に振った。そして、
「じゃあ、彼も君の生きる理由だ」
とも付け足した。
「そう、だね」
君は、小さく頷いた。
「ジェームズは、お節介で、心配性で、世話焼きで…」
そう言って、ほぼ無意識に、もう肩まで伸びた髪を耳に掛けた。
「…邪魔そうだね。切らないのかい?」
レオにそう言われ、君はハッとして手を降ろした。
「…私は…切れない」
「僕が切ってあげようか?自分の髪は切ってるし、手も器用だから…」
君は、レオには答えずに、手首にはめられた赤い組紐をそっと外した。そして、伸びた髪を無造作に、しかし力強く一つに束ねる。
「…大丈夫」
レオの伸ばしかけた手が、気まずそうに宙を彷徨って、そっと降ろされた。
「そっか」
レオが目を細めて、そう呟いた。
一瞬、気まずい沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、レオだった。
「ねえ。君はさ、本は、読むかい?」
「…本?」
その唐突な質問に、君は眉を潜めた。
「そう、本。僕はダンジョン生まれだからさ、外に出たことが無いんだ。だから、この灰色の石畳に嫌気がさした時、本を読んで想像を膨らませるんだ。青い空に、太陽の光、あと、君が言ってた…雪、とかね」
「…そう」
君が興味なさげにそう呟くと、レオが困ったように微笑んだ。
「今君の話を聞いて、思ったんだよ。もしかしたら、村から出たことが無い君も、本を読んで空想にふけったりするんじゃないかなって」
「読書は好きじゃない」
「…そっか、残念だな。僕達、似てると思ったんだけど」
彼はそう言うと、立ち上がった。
「じゃ、すぐ戻る」
「どこか、行くの?」
「えと…厠」
レオは少し気まずそうにそう呟いた。
「あ、うん、行ってらっしゃい」
君がそう言うと、レオは優しく微笑んで、ひらりと手を振って部屋を出て行った。
「楽にしてて」
パタン、と扉が閉じて、君は天井を仰いだ。
「…本」
君は、そう小さく呟いた。
読書は、嫌いだ。小さな文字をたくさん読むのは疲れるし、昔の事や創造の物語にも興味はない。
…だが、鍛錬の合間に、ジェームズがこっそり面白い話を読んで聞かせてくれた事も、あったっけ。
その時、君の目が、生活感の無い埃の積もった部屋の端に止まった。たった一つの椅子の横に置かれた、無造作に重ねられた数冊の本。
…レオは、一体どんな本を読むんだろう。
ほんの少しの好奇心から、君はそっと重ねられた本をずらした。
『メデューサの首』『魔法使いと魔法の宝』『指輪物語』…
童話や神話ばかりのそれに、君が興味を失いかけた、その時。ピタリと、君の目が紫色の一冊の本に留まった。
『ラウフル国:北欧の物語』
ラウフル国の、北欧。丁度、君の故郷のヴァルキリー村がある辺りだ。…一体、どんなことが書いてあるんだろう。
君は、そっとその本に手を伸ばし、パララと素早くページをめくる。
その時だった。ページの間から、ひらりと、なにかが舞い落ちた。
「あ…」
一枚の、古い紙切れ。君は、吸い寄せられるように、それを手に取る。
それは、半分に破られた、黄ばんだ白黒写真だった。
それを見て、君は目を見開く。一度目を擦り、もう一度写真を見つめる。
写真の背景に写っている、このキッチン。棚の配置から、壁の傷まで、君がダンジョンに来る前に暮らしていた家に、酷く似ていた。
異様に早まり続ける鼓動に違和感を覚えながら、今度は、写真の中の家の前の若い女性に目を向けた。
服装は決して豪華ではなかったが、気品があり優しげな、二十歳過ぎほどの女性。透き通るような大きな瞳、長い三つ編みに、よく見るとおでこに傷がある。
…誰だ?この人、どこかで...。
「...っ!」
思いだそうとした瞬間、頭がズキズキと割れるように痛みだす。視界がぼやけて、思わずガクンと膝をついた。息が上手く出来ず、全身が痺れた。
…レオが、なぜ、こんな物を、持ってる?
震える手で、写真に再度、目をやろうとした、刹那。
「どうしたの?」
急に耳元で響いた、低い声に。
全身が、凍り付いた。