第37章 無力
「此処は我に!」
ナルフのその叫び声を背に、レオは全速力で暗い廊下を走り出した。
まだ震える手を強く握りしめながら、振り返らずに霧を掻きわけるように足を動かす。
『…好きな人が居るのね』
さっきの女の言葉が、耳の奥で反響する。
…好き?僕が、好き?エイミーを?
いや、違うね。
僕は君を騙している。利用している。 だから、これを『好き』なんて綺麗な言葉で呼ぶな。 これはきっと、僕のただの醜い、『執着』だ。
まとわりつくほど濃くなった霧の先に、小さな光が灯った。
「エイミー?」
ふと、雨上がりの様なじめッとした重たい空気が横を通り抜け、レオは思わず身震いした。そしてハッとして顔を上げた先には、ゆらゆらと揺れる光、そして、その横に、赤外線で見える人影。
「エイミー!」
刹那、ぱっ、と辺りの霧が、一瞬で晴れた。
そこは、薄暗い墓地。土の上に座っているのは、見慣れた黒髪の少女。
「良かった!」
思わず駆け寄ろうとしたレオの足が、ピタリとその場で縫い付けられたように止まる。 彼女が無事だった、という安堵よりも早く、強烈な違和感が彼の背筋を凍らせたからだ。
「エイミー…?」
彼女は、レオには気づいていなかった。まるで魂がそこに無いかのように、虚ろに一点を見つめて、動かない。
「一体、何が…」
そう言って恐る恐る近づいたレオの視界に、彼女が見つめていたモノが映り込む。ゆらゆらと揺れる光の横で動く、巨大な戦鎚。エイミーの頭上で宙に浮いているそれは、いまにも振りかぶろうとしている。
呼吸が、瞬時に凍りついた。
頭より先に、身体が動いた。レオは咄嗟に前に大きくジャンプすると、短剣を腰から引き抜く。空中で必死に体勢を整え、ふっと短く息を吐く。
ガキン!!!!
着地音とほぼ同時に金属がぶつかる音が響く。そして一気に戦鎚の重さが短剣を伝ってレオにのしかかる。
「間に、合った!!」
レオは歯を食いしばり、戦鎚を押し返そうと慌てて足に力を込める。
なんだ、これは?まるで戦鎚そのものが意思を持っているかのように、それは尋常じゃない力でレオを押しつぶそうとしている。
誰かが遠隔で操っている?いや、これほど重い物をこんなに長時間なんて、あり得ない。じゃあ、透明化の魔法か?いや、それなら僕の赤外線で見えるはず。なら…アンデッド、 霊体の類か!
「クソ…!」
レオは思わず舌を鳴らした。実体を持たない霊体、弓使いの僕とは一番相性が悪い!遠距離から攻撃しようにも、気配もなければ、音も熱もない。そして、僕は近距離では、こいつに敵わない!!
「エイミー!! しっかりしろ! 目を覚ませ!」
レオは短剣を握る手に全神経を集中させながら叫んだ。 だが、彼女は、虚ろな瞳で宙を見つめたまま、微動だにしない。駄目だ、この霊体に、何か見せられているのか!
「エイミー!!」
その時だった。エイミーの瞼がピクリと動いて、その瞳孔が一瞬レオを捉えたように揺れた。レオは安堵の息を漏らす。
「良かった!エイミー…」
「…ジェームズ?」
その一言が、レオの時間を止めた。 戦鎚の重さなど比ではない衝撃が、心臓を殴りつける。
「…え」
「助けに来てくれたんだね、ジェームズ」
エイミーは、空虚を見つめたまま、心の底から安心したように涙を流した。
その、今まで見たことのないような彼女の顔に。レオは全身の熱が、急速に引いていくのを感じた。
…ジェームズか。
そうだよな。
最初から、分かっていたじゃないか。君の瞳に映っているのは、僕じゃない。
僕は、ずっと、ただの、『代わり』。
「……違う」
漏れ出た声は、掠れていた。 次の瞬間、レオの中で何かが弾けた。
「違う!」
声にならない咆哮とともに、レオは短剣にありったけの力を込める。ガキン!と乾いた音と共に戦鎚が弾き返され、それは驚いたように大きくよろめいた。
「僕だ!!」
レオは荒い息を吐きながら、その場に縫い付けられたように動かないエイミーの前に、仁王立ちになった。そして、深く被っていたフードを外すと、キラリと流れるような銀髪が揺れ、長くとんがった耳が、冷たい空気の中に露になる。
「君を助けに来たのは、僕だ!!」
その叫びは、誰よりも、自分自身に言い聞かせるための悲鳴だった。レオはゴーストに向き直ると、短剣を持ち直す。 柄にはめられた宝石が、彼に呼応するように、青い光を放ち始めた。
思考よりも先に、レオは地を蹴っていた。 戦鎚が、レオの叫びに応じるかのように、物凄い勢いとスピードで振り下ろされる。
レオは咄嗟に短剣でそれを受けた。 ガキン!!!骨まで痺れるような衝撃が腕を伝い、 金属音が墓地に響く。
クソ、重い!!潰される!!
レオは、重さを流すように身体を捩らせ、咄嗟に床に転がるように逃げた。そして、大きく深呼吸をした。
落ち着け、考えろ!エイミーを守るんだろ!
レオは気配を消し、すっと目を細めた。
戦鎚に、霊が宿っているんだ。強力な神器ほど霊力を寄せやすいが、通常は霊の方が神器に認められず、特に脅威ではないはずだが…。こいつはなんだ?まるで、神器と霊の魂が一体化したような…。
戦鎚が、ゆっくりと持ち上がった。そして次の瞬間、物凄い勢いとスピードで、それがレオの頭へと一直線に振り下ろされる。
「…ッ!」
レオは咄嗟に床を蹴り、間一髪で攻撃をよける。そして、再度短剣を握りなおすと、レオは走りだした!
僕に、こいつは倒せない。エイミーは、この幽霊に幻覚を見せられている。
なら、時間を稼げ!出来るだけ長く、エイミーが目を覚ますまで!!
頭ではそう分かっているはずなのに、彼の剣筋はひどく乱れていた。先ほどの彼女の涙が、彼の指先を冷たくし、焦りだけが空回りする。
エイミーを守るんだろ!僕が!!
レオは素早く弓へと持ち替えると、牽制の矢を放つ。だが、ゴーストの体は霞のように揺らぎ、矢は空を切るか、壁に突き刺さるだけ。
「ちくしょう…!」
レオの呼吸だけが、だんだんと荒くなっていく。疲労が波のように押し寄せて、視界が霞む。
すると、だんだんと不透明だった幽霊の姿が、鮮明に見えてくる。長い三つ編み、おでこの傷、そして、青い大きな目。
… 何処かで見た顔だ。レオは思わず目を擦る。顔立ちが、誰かによく似ている。
その、真っ赤なマントに、手に握られた、その戦鎚…。
刹那、振り下ろされる戦鎚の音と、バチリと弾ける雷の残滓が、レオの脳髄を直接殴りつけた。
僕は、これを、知っている。
散らばる血、母の最期の悲鳴。知っているどころの話ではない。毎晩、悪夢の中で見続けてきた光景。
「……お前か」
レオの視界が、怒りで真っ赤に染まった。胃の腑が焼き切れるような焦燥に、全身の血液が逆流する。 エイミーを守るという目的すら、一瞬で吹き飛ぶほどの殺意。
「お前が……!!」
レオの言葉が震えた。怒りに、全身が燃えるように熱くなるのを感じる。レオは奥歯が砕けるほどに噛み締めると、弓が軋む限界まで弦を引き絞り、指を離した。 ヒョウ! と風を切る音。その一射には、いつもの冷静さは欠片もなく、純粋な殺意と憎悪だけが乗っていた。
殺す!!
だが、再度幽霊の姿が陽炎のように揺らぎ、矢は虚しく空を切り裂いて、背後の石壁にドスリと突き刺さるだけ。
レオの視界が怒りで赤く明滅する。 弓を乱暴に仕舞うと、勢いのまま腰の短剣を引き抜き、獣のような咆哮と共に走り出した。
「出てこい、人殺し!!」
喉が裂けんばかりの大声と共に、レオは姿を消した幽霊の気配を探して、短剣を闇雲に振り回す。
目を瞑れば、昨日の事のように思い出せる。
散らばった赤黒い血、生臭い匂い、恐怖で引きつった顔の生首。
忘れたい。忘れたい。忘れ、られない。
幽霊が煙のようにレオの背後に現れると、戦鎚を振りかぶった。
レオは転がるようにそれを避けると、素早く腰の短剣を引き抜き、力任せにそれを突き刺した。だが、手ごたえは無い。
「逃げるなよ!」
殺す。絶対に殺す。
レオは、獣のように叫びながら、感情のまま幽霊に斬りかかった。短剣を、何度も、何度も、怒りに任せて突き出す。しかし、その度に幽霊の体は霞のように揺らぎ、短剣は空を切るだけだった。手応えは一切無い。
まるで、最初からそこに存在しないかのように。
だんだんとレオの呼吸が上がってくる。だが、幽霊は容赦なく、巨大な戦鎚を振り回す。レオはその攻撃を、紙一重で回避し続ける。恐るべき速度と重さだ。
ドスン、と左腕に鈍い痛みが走る。躱せ切れなかったか。ノルンにもらった加護のマントが、スポンジのように攻撃を一部吸収してくれていなければ、今頃腕は吹き飛んでいただろう。
レオは舌打ちをすると、フードを被り気配を消した。一瞬だけでも、息がつければ。そう思って、距離を取ろうと走り出した、その時。
幽霊が、座り込んでいるエイミーめがけて、鉄槌を振り下ろそうとしていた。
その瞬間、エイミーの背中が、あの日見た母の背中と完全に重なった。明るい茶色の巻き毛に、そのヘーゼルナッツ色の、優しい目。
レオの心臓が凍りつく。慌てて両足でブレーキをかけると、エイミーめがけて全速力で走り出した。
「…お前は、何回…!!」
僕の大切な人を奪えば、気が済むんだ。
レオの瞳に、一粒の涙が浮かんだ。呼吸が荒い。冷や汗が額をつたう。心臓が口から飛び出しそうなほどの高揚感と、彼女を助けたいという切実な願いが、彼の全身を駆け巡っていた。
レオの目に戦鎚が弧を描くのが、スローモーションで映る。
駄目だ。このままでは間に合わない。
レオは、一瞬の躊躇もなく、エイミーへ迫る戦鎚へと、その身を躍らせた。
戦鎚が目の前まで迫っている。
レオは、目を閉じた。
ごめん。
次の瞬間、鈍い音が響き渡り、レオの体はまるで人形のように宙を舞う。
鋭い痛みが腹部を貫き、体中の力が抜ける。雷に打たれたような、貫くような痺れる一撃だった。古びた石壁に、レオの体が叩きつけられる。埃が舞い上がり、静まり返った空気に、レオの荒い呼吸音だけがこだまする。
湿った空気に、冷たい壁が、レオを包み込む。耳鳴りが酷くなり、エイミーの姿が滲んでいく。血の鉄臭い味だけが、やけに鮮明だった。
僕は、なんて無力なんだ。
朦朧とした意識の中で、黒い影が近づいてくるのが見えた。ああ、きっと、幽霊が自分にとどめを刺しに来たのだ。
そうは、させない。僕が死んでも、お前だけは…!
レオは感覚のなくなった指で、銀の矢を弓に番えると、最後の力を込めて、弦を放した。
「エイ、ミー…」
弦を弾く音と共に、意識が、遠のいていく。




